第31話 名前で呼んで

 ——ピンポーン。

 たくみがちょうど部活の支度を終えたタイミングで、インターホンが鳴った。


「はーい……うおっ」


 画面いっぱいに香奈かなの顔が広がり、巧は思わず声を上げてしまった。


『あっ、先輩驚いた!』


 機械の向こうで、彼女はにぱっと満面の笑みを浮かべた。

 巧はホッと息を吐いた。


(すっかりいつもの調子に戻ったみたいでよかった)


「もう、朝から心臓に悪いよ」

『えっ、こんな美少女は刺激が強すぎるって?』

「よく外でそんなこと言えるよね」

『ふっふっふ。本当に成功する人間は周囲の目など気にしないのです』

「今行くね」


 巧はエナメルバッグを肩から下げて、玄関へ向かった。


「おはよう、白雪さん」

「おはようございますっ、先輩!」

「……どうしたの?」

「何がですか?」


 香奈が小首を傾げた。すっとぼけた表情だ。


「いや……今、巧先輩って言ったよね?」

「前にいいって言ってたので……ダメですか? 二人きりのときだけですから」

「別にいいけど」


 巧は頬を掻きつつうなずいた。


「あれれ、先輩照れてません〜?」

「中学上がってからは、女の子に名前で呼ばれることってあんまりないからね。ちょっと恥ずかしい」

「あらやだ可愛い〜!」


 香奈が頬を突こうと伸ばした手を、巧は指ではさんで少しだけ力を入れた。


「いててっ。えっ、もしかして先輩のハジメテもらっちゃいました?」

「朝から快調だね」

「えっ、巧先輩。なんで私が大をしたこと知ってるんですか? はっ! まさかとうさ——」

「その快腸じゃないし、別に初めてじゃないよ。小さいころは名前で呼び合うのが普通だったでしょ」

「くそっ」

「悪態吐かないの」

「なんかお母さんみたいな口調になってますよ」


 香奈がカラカラと笑った。


「巧先輩」

「ん?」

「呼んだだけですぅ」


 香奈が無邪気に笑っている。

 付き合いたてのカップルか、とツッコミを入れそうになり、巧は言葉を呑み込んだ。


(そんなふうに例えられたら嫌かもしれないな。やめとこ)


「あれ、巧先輩。怒っちゃいましたか?」

「あれくらいじゃ怒らないよ」

「おー、さすがです! そんな先輩には特別に、香奈って呼ぶことを許可して差し上げてもいいですよ?」


 香奈がふふん、と胸を張った。


「ふむ」


 巧は足を止め、彼女の顔を凝視した。

 得意げだったその表情が、だんだん困惑と羞恥に彩られていく。


「……な、何ですか?」

「白雪さんって、自分の名前が好きなの?」

「……へっ?」


 香奈がポカンと口を開けた。

 こんな顔でも可愛いのはすごいな、と変なところに感心しつつ、巧は自分の考えを話した。


「だってさ。前も無理やり名前呼ばせたことあったし、ちょいちょい自分のこと香奈様っていうし、自分の名前を気に入ってるのかなって」

「いや、別にそういうわけじゃ……あっ、いえ、そうです!」

「どっちなの」

「好きなんですっ、自分の名前!」


 苦笑する巧に、香奈が慌てたように言った。


「あとはシンプルに、名前呼びだとちょっと親密さ増すじゃないですか」

「それは確かに」


 巧も親しい男子は名前で呼んでいる。

 まさる大介だいすけ誠治せいじなどがそうだ。


 武岡たけおかが香奈を名前で呼んでいたのも、周囲に親密さをアピールしようとした狙いもあったのだろう。


「私、もっと巧先輩と仲良くなりたいんです。みんなの前で名前で呼び合うと色々面倒そうなので、二人きりのときとかだけでも全然いいんですけど……どうでしょうか?」


 香奈の表情は不安げだった。

 後輩の女の子にそんな顔をされては、巧に選択肢は一つしかなかった。


「うん、いいよ」

「えっ、本当ですか⁉︎」


 香奈がぐいっと顔を近づけてきた。

 彼女の端正な顔がドアップになり、おそらくは香水と彼女本来のものだろう甘い匂いがふわっと香る。


「ちょ、近い近い」


 巧は香奈の肩をつかんで引き剥がした。


「あっ、す、すみませんっ!」


 香奈が頬を染めて俯いた。

 子供のようにはしゃいでしまったのが恥ずかしいのだろう。


(本当に自分の名前が好きなんだな……まあ香奈って可愛い響きだし、僕も名前で呼ばれたら嬉しいから、そういうことか)


「でもその代わり、癖になってみんなの前で呼んじゃったらごめんね」

「それはそれで別に構いませんよ。巧先輩こそ怒らないでくださいね?」

「うん。怒るようなら二人きりのときでも許可しないから大丈夫だよ」


 笑顔でうなずいた後、巧は真剣な表情で顎に手を当てた。


「香奈さん、香奈ちゃん……」

「何してるんですか?」


 香奈が怪訝そうな表情を浮かべた。


「いや、一口に名前で呼ぶって言っても色々あるじゃん。希望ある?」

「うーん、やっぱり香奈かなぁ」

「……二文字はダジャレじゃないよ?」

「い、いや、洒落とかじゃなくて本当に呼び捨てがいいんです!」


 香奈が真っ赤になって叫んだ。


「そうなの?」

「だ、だってほら! 私って香奈さんのキャラじゃないし、ちゃん付けだと子供っぽいじゃないですかっ」

「あー、まあたしかに。けど、呼び捨てか……」


 中学に上がってからは、女子のことは一貫して苗字プラスさん付けで呼んでいる。


「あっ、いえっ、全然なんでもいいんですけど!」


 口ではそう言っているが、香奈は呼び捨てで呼んで欲しそうに見えた。


「……香奈」

「っはい!」


 香奈がぱあ、と瞳を輝かせた。

 ちょっと恥ずかしいけどこれで行こう、と巧は心に決めた。




 お馴染みのラーソンから、「咲麗しょうれい高校卓球部」と書かれたポロシャツを着た生徒が出てくるのが見えた。


「もうすぐ学校だし、呼び方は戻そうか」

「……」

「おーい、聞いてる?」

「…………」

「……香奈?」

「はいっ!」


 名前で呼んだ途端、彼女は元気よく返事をした。


「もうすぐ学校だから、呼び方は戻そうか」

「仕方ないですね——先輩」


 香奈が上手にウインクをした。


 三軍の練習場は学校を通り抜けた先の公園だが、当然学校には生徒がたくさんいる。

 男女が一緒に登校しているだけでもすぐにそういう噂が立つのに、名前で呼び合っているのがバレたら面倒事になるのは確定だ。


「ふんふんふーん」


 鼻歌を歌ったりと、香奈はいつになく上機嫌だった。

 しかし、校舎の裏を通り抜けているときだった。


「っ……!」


 彼女は突然息を呑んで足を止めた。

 巧の服の袖をギュッとつまんでくるその表情は、それまでとは一転して強張っていた。


「白雪さん? どうし——」


 巧は言葉を止めた。

 原因がわかったからだ。


 ちょうど二人とは反対方向から歩いてくる大柄の男。

 その正体は、三軍キャプテンの武岡たけおかだった。

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