第21話 美少女後輩マネージャーの独白

「ただいまー」


 香奈は自分の家の玄関に足を踏み入れつつ、そう言った。

 返事は帰ってこない。

 当然だ。家には誰もいないのだから。


 それでも、外出するときは「行ってきます」、帰ったときは「ただいま」と必ず口にするようにしていた。


 風呂に入りたいから——。

 そう言って、香奈は巧の家を辞去した。


 嘘ではなかったが、まったくの本心でもなかった。

 巧の前で汗の匂いを身にまとっていたくはないため、どのみちどこかのタイミングで風呂に入ってはいただろう。


 が、このタイミングで香奈が巧の元を離れた一番の理由。

 それは、単純に色々と限界だったからだ。


(もう〜、何やってんの私⁉︎)


 自宅のソファーに飛び込み、クッションを抱えて足をバタバタさせる。


「抱きついて大泣きするとか子供かよ……!」


 彼女は自分の醜態しゅうたいを思い出して、羞恥に悶えていた。


(絶対幼いって思われた〜……!)


 巧の家に入った瞬間、緊張が緩んだのだろう。

 糸が切れたように涙が込み上げてきて、気がつけば彼に抱きついてしまっていた。


(でも先輩の手つき、すごい優しかったし、めっちゃ気持ちよかった……)


 自分の頭を撫でてみる。巧がしてくれたようにそっと、毛流れに逆らわずに。

 特に気持ちよさは感じない。

 手つきどうこうではなく、巧にされていたから気持ちよかったし、安心したのだろう。


 何を言うかではなく誰が言うか、という言葉があるが、言動だけではなく行動でもそれは当てはまるらしい。


「でもでも、収穫もあったよね。これからしばらくはお願いすれば一緒に登下校できるし、先輩、彼女どころか好きな人もいないっぽいし……!」


 巧は、特に後輩を大事にするタイプだが、好きな人がいるのに他の女の子と登下校をともにしようとは思わないだろう。


 高校生はまだまだ子供だ。

 男女が一緒に登下校をするだけで、すぐにカップル扱いされてイジられる。


(先輩となら全然そういう勘違いされてもいいけど……それで気まずくなるのは嫌だなぁ)


 限度を超えたイジリは、もはやいじめと同義だ。ノリなどという言葉で片付けられていいものではない。

 実際、周囲の揶揄やゆのせいで雰囲気が悪くなってしまった男女だって一定数存在する。


「……ま、先輩とならそうはならないか」


 香奈も巧も他人の言うことを気にしすぎるタイプではないし、なぜか自分たちならそういう悲しい運命は辿らないという自信があった。


(あとは私が頑張って素晴らしい運命に辿り着くだけだ、門は開かれてるんだから!)


 そもそも、彼に意中の人がいるのなら、何度も香奈を家にあげもしないはず。


(先輩が女性関係にだらしない訳がないし……私、結構いいポジションにいるんじゃないっ?)


 香奈は胸の奥底から、サッカーの試合が始まる直前のようなワクワク感が込み上げてくるのを感じた。


「よしっ!」


 勢いをつけてソファーから起き上がり風呂場に向かう。


「やってやるぞ〜! 覚悟しててください——先輩っ」


 誰もいない空間に向かって指を突きつけ、


「っ……」


 鏡に映った滑稽こっけいな自分を見て、香奈は再び全身を掻きむしりたくなるような羞恥に襲われた。


 ただ、男性は特に女性の肌の綺麗さを重視すると言うため、実際に掻きむしりはしない。

 しっかりと髪や肌の手入れをして、香水を付け直してから巧の家に戻る。

 このあとは、一緒に夕食を作る予定だ。


「ちょっと待ってて」

「はい、全然お好きに過ごしちゃってくださーい」


 巧は夜中にやっていたサッカーの試合のハイライトを見ていた。

 彼の横ではなく後ろに立ち、髪をいじくる。


「本当に好きなんだね、僕の髪」

「これは好きですねぇ」


 香奈は、変に気分が高揚していた。


(ちょっと仕掛けてみよう)


「質感も好きですけど、先輩の髪の匂いも好きです」

「シャンプーとかリンスの匂いじゃない?」


 巧の声は平坦だ。まったく動揺していないことがわかる。


(悔しいけど……逆に言えば触り放題だからよしとするか)


 巧が画面に集中しているのをいいことに、香奈自身も動画に目を向けつつ、いつも以上に大胆に髪をいじったり、すんすん鼻を近づけたりした。


「ヘアオイルは使ってないんですか?」

「うん」

「それでこんなサラサラふわふわとは羨ましい……リンスが先輩の髪の毛と相性抜群だったんですかね」

「かも」

「くわー」

「無駄にうまいね」

「でしょう?」


 香奈は軽やかな笑い声をあげた。

 くだらないやり取りでも、相手が巧というだけで楽しくなってしまう。


 間もなくして、動画が終わった。


「いやぁ……終了間際にあのオーバーヘッドはやばいね」

「心臓もじゃもじゃですよね」

「ねー」


 などと感想を話していると、巧の携帯が鳴った。


「あっ、川畑かわばた監督からだ」

「っ——」


 基本的に生徒の自主性に任せて不干渉の姿勢を取っている川畑が、選手に電話をしてくることなど滅多にない。

 要件は容易に察しがついた。報告をしていた武岡たけおかの一件について、進展があったのだろう。


「もしもし、お疲れ様です」


 電話に出た巧は、香奈と一緒にいることを伝えてスピーカーモードに切り替えた。

 川畑は二人が一緒にいることを知ると少しだけ驚いた様子だったが、特に深掘りはしてこなかった。


 武岡の暴走は、彼を制御できなかった自分の責任だ——。

 彼はそう謝罪をしてきた。


 さすがに三葉みわのときのようにおふざけを交えるわけにもいかないので、無難な返答をしておいた。


 川畑はさらに、今回の一件は公にはしないという方針を伝えてきた。

 部内で色々と立場が微妙なところもある香奈と巧にとっては、ありがたいことだった。


 また、武岡にキャプテン剥奪はくだつおよび謹慎きんしん処分の罰が課されることも聞いた。


『それについては俺のほうから部員に伝える。お前たちは知らないふりをしていてくれ』


 その要望も、二人は了承した。

 自分たちが関わっていると知られていいことなど一つもない。


 最後にもう一度謝罪をしてから、川畑は電話を切った。


「……なんか意外です。川畑監督って、もっと淡白な人かと思ってました」

「ね。僕も思った。よくみんなのことを見ているなーとは思ってたけど」


 巧がちらっと時計に目を向けた。


「よし、そろそろ作り始めよっか」

「りょーかいいたしました!」

「いい返事だ」


 香奈が大声を出して敬礼をすると、巧がクスッと笑った。


(……何か、微笑ましいものでも見るような目を向けられた気がする)


 香奈は不満だったが、ある程度の好意は持たれていることの裏返しでもあるからいいか、と思い直した。

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