第3話 美少女後輩マネージャーが家まで着いてくることになった

 エナメルバッグを家に放り込んだ後、たくみの足は自然と近所の公園に向いていた。

 帰宅後すぐにユニフォームを洗濯しなかったのは、初めてのことだった。


 公園の入り口のすぐ近くに、生い茂る木々を背にして縮こまるベンチがある。

 腰掛けると、キィと音が鳴った。


 項垂れる首筋に、冷たい感触。

 初めはポツポツと地面にまだらなシミを作っていた雨は徐々に強くなり、やがて本降りになった。


 雨に打たれ続けるのが良くないことは当然わかっていたが、巧はその場を動く気になれなかった。


「もう、諦めるべきなのかな……」


 声に出したのは初めてだが、ここ最近ずっと考えていたことだった。

 巧が目立つのはミスをして失点に絡んだ時だけ——。

 武岡たけおかの言葉は、誇張でもなんでもなかった。


 何をすべきかはわかるのに、体と技術が追いついてこない。

 周囲の何倍も練習しているのに、置いていかれるばかり。


 武岡の言う、努力ではどうにもならない才能の差。

 それを一番実感していたのは、他ならぬ巧だった。


 いつからだろう。部活の準備をしている時に、ため息を漏らしてしまうようになったのは。

 いつまでだろうか。部活前に「今日もサッカーができる」と屈託のない笑みを浮かべていられたのは。


 咲麗しょうれい高校のサッカー部に入りたいと、父にわがままを言って受験させてもらった手前、簡単に辞めるわけにはいかないと思って頑張ってきた。

 でも、楽しむことも成長することもできない今の部活を、果たして続ける意味などあるのだろうか。


「——先輩?」


 不意に、背後から声をかけられた。

 巧はノロノロと振り返った。香奈かなだった。


白雪しらゆきさん……」

「やっぱり先輩だ! ちょ、びしょ濡れじゃないですかっ、風邪引いちゃいますよ⁉︎」

「……いいよ、別に」

「……何か、あったんですか?」


 香奈が形の良い眉をひそめた。


「君には関係のないことだよ。大丈夫だから、放っておいて」

「放っておけるわけないじゃないですかっ。風邪ひいたら先輩の大好きなサッカーだってできなくなっちゃいますよ? あっ、私折りたたみ持ってるので、これ使ってください!」


 香奈が差し出してきた柄物の可愛らしい傘を、巧は手のひらで制した。


「いらない」

「でも——」

「いらないって言ってるでしょ」

「っ……」


 巧の底冷えする声に、香奈が息を詰まらせた。


「風邪を引いたって、サッカーができなくなったっていいよ。だってもう、サッカーは辞めるつもりだから」


 気づけば、巧はそう言っていた。

 先程まで悩んでいたはずなのに、立て板を滑り落ちていく水のようにつっかえることなく、退部すると口走っていた。


「や、辞めるって……えっ? はっ? えっ?」

「大丈夫? 混乱しすぎじゃない?」


 巧は苦笑した。


「えっ、いや、だって、先輩、あんなにサッカー大好きだったじゃないですか!」

「安心して。今でも好きだよ」

「なら何で!」

「白雪さんだって、少しは三軍にいたからわかってるでしょ? 僕に選手としての才能はないって」

「っ——」


 香奈が息を呑んだ。


「身長は低いし、特段身体能力が高いわけでもない。ドリブルで相手を抜けるわけでもない。シュートが上手いわけでもない。守備で貢献できるわけでもない。全てが平凡以下。それが僕だ」

「で、でも、ダイレクトプレーとか空間把握能力とか、先輩にしか持ち合わせていない武器だってあるじゃないですか!」

「そうだね。けど、それだけじゃ武器にはなり得ない……って、ごめんね。せっかく励ましてくれているのに、否定ばっかりしちゃって」


 巧は、自分への劣等感を香奈にぶつけてしまっていることに気づいて頭を下げた。

 濡れて顔に張り付いていた髪が、何本か剥がれ落ちた。


「い、いえ、それは全然……」


 すっかり諦めてしまった様子の巧を見て、香奈はかける言葉が見つからないようだった。


「とにかく、もう決めたことだから。白雪さんは僕なんかに構ってないで、二軍で頑張って。色々言われることはあるかもしれないけど、君は紛れもなくマネージャーとしての実力で二軍の座を勝ち取ったんだから」


 巧は立ち上がった。

 香奈はその場に固まっていた。


「もう遅いし、白雪さんも早く帰ったほうがいいよ」


 風邪を引かれても寝覚が悪いと思って巧が声をかけると、香奈が弾かれたように駆け出した——巧に向かって。

 タタタ、と駆け寄ってきた彼女は、目を白黒させている巧に傘を押し付ける。


「えっと……白雪さん?」

「部活のことを抜きにしても、先輩に風邪を引いてもらいたくはないので。先輩が傘を受け取って自宅に帰るまで、離れるつもりはありませんから」

「そ、それは悪いよ。白雪さんも早く帰ったほうがいいだろうし——」

「私のことを心配してくださるのなら、早く帰ってください」


 有無を言わせない口調に、巧は説得を諦めた。


 ありがとう、と傘に対するお礼を言って歩き出す。

 香奈は半歩後ろを同じペースで着いてきた。


 公園から三分ほど歩いて馴染みのコンビニの前を通り過ぎれば、巧の住んでいるマンションはすぐそこだ。


「ここまででいいよ」

「えっ……?」


 香奈が口をあんぐりと開けて固まっていた。


「どうしたの? 白雪さん」

「あの、私もここに住んでます」

「……えっ?」


 今度は巧が驚く番だった。


「……白雪さんって、電車通学じゃなかったっけ?」


 たまに一緒に帰る時は、いつも駅で別れていたはずだが。


「二週間前に引っ越してきたんです。家族全員にとって都合が良かったので」

「そうなんだ。何階?」

「三階です。先輩は?」

「二階」


 二週間前ということは、ちょうど夏休みに入ったくらいか。

 同じサッカー部とはいえ、香奈は二軍で巧は三軍。

 スケジュールも練習場所も違うし、昨日まで彼女は一軍と二軍合同の二泊三日の合宿だった。


 それでいて階も違うのなら、鉢合わせしてなかったのもうなずける。


 同じマンションなので、当然一緒に入る。

 エレベーターに乗り込んでまず最初に二番を押して、続いて三番を押そうとした巧の手を香奈が掴んだ。


「白雪さん?」


 意図がわからずに、巧は困惑した。

 香奈は何度かためらうように口を開閉させた後、様子をうかがうように上目遣いでおずおずと切り出した。


「あの、差し出がましいのはわかっているんですけど……少しだけ先輩のお家にお邪魔させてもらえませんか?」

「……えっ?」


 巧は目をしばたかせた。

 何を言っているんだ、この子は。

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