第28話「考える時間がほしいです」
青い海に、溺れていく。
それはもう自分の意志では止められないほどに深く、深く。
苦しいのに触れるぬくもりに震え、涙がこぼれた。
「んっ……ふぅ、ん……」
勝手に零れる涙のせいで、口の中がしょっぱかった。
なのにどこか甘くて、めまいがする。
(ずるい。何も思わなかったら受け入れたりしない。油断してたのは……葵斗くんに嫌悪感なかったから)
今でも匂いはわからない。だが触れる温もりは心惹かれた。
目が、耳が、肌が、すべてが甘さを求めている。
いざ触れれば苦みもあって、知らないことばかり。
(……ムカつく。 私、振り回されてばかりです。葵斗くんに好きだと言われるのが嬉しいのです)
唇が離れて、乱れた息を吐くとこちらを覗き込む青い瞳があった。
「葉緩?」
「……私はずっと桐哉くんと柚姫の幸せを願ってきました。だから自分のことを考えたことがなくて」
葵斗の制服を握りしめる。
いつの間にか身体を隠していたはずの布は落ちていて、背中は壁に密着していた。
壁に追い込まれながらも、葵斗の背に手を回している。
押しつぶされてしまいそうな現状なのに、感じたことのない心地よさと恥ずかしさがあった。
「自分のことになるとよくわかりません。でも葵斗くんは嫌じゃないです」
これが今の葉緩が葵斗に向けられる精一杯の誠意だ。
これまで誰ともまともに向き合ったことがなかった。
主と姫のことしか考えてこなかったため、自分が誰かとどうなりたいか理想が見えてこない。
「匂いもわからないです。だから考える時間がほしいです」
あいまいな状態が一歩を踏み出させてくれない。
忍びとしてあるべきものが感じられなくては進むべき道もわからない。
(誰かを好きになることは喜ばしいこと。ドキドキするし、ふわふわします)
自分事になると少しばかり自信がないだけ……。
それだけならすぐに直感で動けるはずなのに、葵斗に関しては戸惑いの方が大きかった。
(なのに何か……つっかえてる気がするのです)
好きになるだけでは解決しない。
拭えぬ違和感に頭が痛くなり、いやだいやだと胸が引っかかれる。
そんな葉緩の長い髪に葵斗が触れて、かきよせるように手を回した。
「うん、待ってる。葉緩が好きって言ってくれるの、待ってるから」
ぶわっと全身の毛穴が開いたかのように葉緩は身震いする。
「まっ……うぁ……す、好きになると決まったわけではないです!」
「葉緩好き。大好きだ」
「ひゃっ! 葵斗くん!?」
心臓の音がうるさくて壊れてしまう。
――そう思ったところでひゅっと風が軌道を変える音を拾って葉緩の目が鋭くなった。
危ないと動く前に葵斗が先に反応して葉緩を抱き上げて大きく後ろに下がる。
これは敵意だと葉緩は葵斗の胸を押し、隠し持っていた手裏剣を指に挟んで構えた。
「学校で襲うとは忍びの行動と思えませんが!」
元居た場所には複数の手裏剣が刺さっており、教室に異変をうみだしたことに葉緩は強く責める。
隠密に行動すべき忍びが人目に付く場所で攻撃をしかけてくることは葉緩の美学に反していた。
「避けられたか。ふん、こざかしい子ね」
忍びの装束をした藍色の髪の女・沙知が現れる。
シュッとした弓なりの目で葉緩を睨んでおり、前に流れてきた髪を後ろに流して首を回した。
葵斗に近づくなと警告したために、葉緩に襲いかかるのは筋が通っていると言わんばかりだ。
「あなた、昨夜の……」
「昨夜?」
事情を知らない葵斗がしかめっ面に沙知をいちべつする。
先ほどまでの甘ったるさはなく、むしろ鋭くとがれた刀のようにゾッとする冷たさをしていた。
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