蔦男、泥男


 私がどんな姿形をした人間であったか、きっともう誰も思い出すことはない。

 ある梅雨明け、私は自殺を試みた。己の醜悪さに呆れきってしまったからである。

 内向的、なんて言葉では言い表せない程の、鬱屈とした泥のような性格。顔を上げる事が怖く、常に身を屈めているので、背骨はぐにゃりと曲がっている。その上人と会うのが怖く、足音を立てるのを避けていたら、歩く姿はいつしか屍のようになっていた。鏡を知っているし、反射も理解しているから、自身の醜さは嫌でも分かっている。

 親からの暴力はあれど、彼らは責められるようなことをしたわけでは無い。痛いほど気持ちが分かるからだ。自分が心血を注いで創ったものが勝手に醜く朽ちていけば、誰しも悔しさと絶望にのまれ、何かに当たりたくなるに違いない。やっと可憐な鈴蘭が花開いたと思ったら、日を重ねるごとに白い花が酷い臭いを発するラフレシアに変わっていったらどう思うか?絶望、理不尽、何かを責めるにもどうしたら良いものか悩むだろう。まあ、そういうことだ。


 母が早い段階で精神科に連れて行ったおかげで、孤独に苛まれることはなかった。予約さえ取れば先生に会えたし、先生が立場上危害を加えないことも分かっていた。私の、遠い無線機のようにぶちぶちと途切れる言葉も、喉の奥にカエルでも飼っているのかと言われた声も、彼と患者として接する限りは馬鹿にされることはなく、ひとまず、私は自分の内に籠りすぎることは無かった。


 しかしある時から、幻聴が聞こえてくるようになる。こういう時の、幻聴、とは基本的に自身を責め立てるようなものを想像しがちだが、私のは違った。「君なら飛べる」「空へ行こう」幻聴の主はこれだけを繰り返した。意味が分からなかったし、返事をするにもできない。声の主は勝手に現れて空へと誘っては、勝手に消えていく。幻聴が聞こえている間だけ外の音が全く聞こえないのが少し厄介だったが、それ以外はこれといった実害もない。薬を飲んだりカウンセリングを増やしたりしてどうにか過ごした。


 そしてある日、先生の都合で彼の家でカウンセリングを受けることになった。外に出られない、怖くて仕方がないと震え涙を溢す私を見て、親はタクシーを呼び片道五千円かけて連れて行ってくれた。

 その日のカウンセリングのことは全く思い出せない。今となっては先生の記憶が輪郭を保っているかも怪しいし、どこに家があったかも思い出せない。ただその日、先生が席を外した一瞬、少し開いた窓から身を乗り出して外を見ると、建物の下の方に蔦が這い始めているのが見える。雨の残りと混ざった枯葉が濁り、湿った匂いに眉を顰めた。気持ちを切り替えようと上を向けば、目にうつる全てが雲一つ無い大空になった。

 その時、後ろから大きな声がした。

 さあ、飛ぼう。

 空は広い。窮屈には飽きただろう?

 幻聴なのは分かっている。ただ、その声は後ろからじりじりと近づき、私を追いやるように威圧的な言葉を背に押し当てた。

 不快だが、怖くは無かった。

 飛べる、と思った。

 私は小さい窓を押し開け、無理に身体を捻通すと、先生の家の三階から飛び出した。

 空が目の前にあった。

 薄く伸びた雲を、太陽から細く伸びる銀糸を掴もうと思った。

 空が視界から消えたと思ったら、急に不安になって身体を丸めたくなった。ゴギャリ、と聞いたことのない音がして、一瞬、全てが闇に包まれる。どう足掻いても短い命であっただろうから、まあ、仕方あるまい。自身が冷たくなっていくのが分かった。

「やあ、話せるか?」

 上から声が降って来た。私は死んでいなかったのか、と複雑な心で渋々目を開ければ、声の主は目の前にはいなかった。

「こっちだ、うしろ」

「ごめんなさい、首が動かないんだ……名前、名前は……」

 じゃり、じゃり、と湿った砂や小石の音がして、誰かが近づいてくる。

「名前……は、ない」

「……そうですか……え、と。私、は……」

「君は、蔦男だろう」

 聞いたことない名前だった。名前というよりは、名称とか、種族とか、そんなもののように聞こえる。自己紹介くらいさせてほしいと思ったが……まあ、そんなのいつものことだったか、と思い直して彼の言うことに従った。

「……そうだった。私は蔦男だ」

「早く起きないと、虫に食われるぞ」

 彼の話について詳しく尋ねる元気はなかったので、とりあえず腕で地面を押して身体を起こす。折れているだろうに、やけに痛みがないなと思い、自身の腕を見て驚いた。

 蔦だ。私の火傷や痣だらけの腕が、皮膚ではなく蔦が絡み合うことによって構成されていた。脚や腹も確認するが、全てが蔦や小さい葉で出来上がっている。

「これは……蔦、蔦だ……私はこんなにも美しいものに生まれ変わったのかい?」

「……美しいか、生まれ変わったか、この二つは私には判断出来かねる。ただここには、君がこの姿で存在することのみが事実として在る」

 首の痛みなどとうに忘れて、四肢を動かしては小さな葉や芽を見つけて喜んだ。やはり、飛ぶべきだったのだ。どうしてこんなこと、早くやっておかなかったんだろう。悔しくて仕方がない。しかし、それよりも先に歓喜が溢れて止まらなかった。

「そうだ、きみ、君は……」

「ここに」

 ぐじゃり、と音がして、溶けた枯葉や砂利、泥濘、その他どろどろした何かが頭をもたげたと思ったら、ゆっくりと立ち昇り、自分よりもずっとずっと大柄な人間の姿になった。

「君は……泥男、だろう?」

 いつだって喉の奥に引っ掛かる歪な声が、初めてスウ、と薄く引かれるように出て来た。

「そうだな、そうだったと思う」

「ここで、何を」

「君と同じことさ」

 聞いたと同時に、これまでの醜悪な人生の記憶がパチパチと弾けるように思い起こされ、走馬灯のように駆け抜けていった。一つ一つに頭痛がして、胃の中のものが喉まで迫り上がってくる。思わず酸の臭さに咽せて、地面に膝をついた。

「蔦男。君は、幸せか?」

「……っう、あ、いや……幸せに浸りたくとも、過去が……」

 泥男の顔あたりが、にじゃり、と鳴って彼が微笑んだように思えた。

「……苦しい、苦しい……この醜悪な記憶は、消すか切り離すか……どうにかならないのか?私は死んだのではなかったのか?」

 そうだなあ、と言いながら泥男は私の頭を灰色の雫の滴る手でぐじゃりと掴んだ。

「私も、この体にベッタリとまとわりつく過去を消せないか、何度も何度も何度も——それこそ気が遠くなるくらいに悩んださ、だが……」

 彼の手が離れ、頬あたりにあった若い芽が泥水に汚れた。

「私らが私らで在る限り、そうはならないだろうな。共に朽ちていこう、蔦男」

 彼はじゃぐじゃぐと音を立てながら、ベッタリとした水溜りに戻っていった。

 いつだって、孤独になりきらぬのが、私の幸運な所だ。仕方なく彼の近くの壁に横たわり、手足を飛ばして壁に身を纏わせ、湿った涼しさをしばし楽しむことにした。足元をちらと見ると、泥が一握り盛り上がって、どぷ、と鈍い波紋を作った。私は足の先を延ばして濁った水溜りにちょんと付け、ゆっくりと微笑んで意識を奥に沈めていった。

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