作家の紙切れ
2020、某日。古くからの友人は部屋とメモを残して消えてしまった。以下、彼のよく使う、二番目の引き出しから出てきた自筆のメモから抜粋。
私は作家になどなりたくなかったのだ。
正しく経済を、社会を、そして人類を回すことのできる、整った大人になりたかった。世のため人のためを体現したかった。汗水たらして働いたあとの至高のビールとやらを飲み干してみたかった。ああ、きっとそれは、体や心という言葉じゃ足りないくらい自身の奥深くに染み込んで、満たされて、同僚やら仲間と笑い合うことができるのだろう。目尻に刻まれる皺がそのなんとも満ち足りた年月を物語ることができたのだろう。ああ。なんと輝かしいことか。なんと誇り高きことか。私には、楽しそうにもつ鍋屋に入る彼等を尻目に、酎ハイいっぱい198円!と書かれた店の隅の席でその酎ハイをちびちび飲むことしかできない。酒を飲む時にコスパなどという言葉を使わない人生を送りたかったものだ。お通しの枝豆を少ないなと感じたり、会計の金額を帰る前に勘定したり、伝票を恐れたりしたくはなかった。もし金を借りるなら、などと考えている時点で、何かの欠けた、社会を回せていない、歪で不適合な人間なのだろう。
もちろん私は、社会の歯車として欠陥品であることを十二分に自覚している。上手く噛み合わない。ギリギリとぶつかり磨耗していくし、他と比べて強度も劣っている。歯車としての私は当然の如く数年で使い物にならなくなり、気づけば強度も噛み合わせも良い新品のそれと交換されていた。そんなことを繰り返すうちに、心の方が耐えきれなくなり、すべてを砂にして風に吹かせ、今ここにいる。
私は作家に成り下がってしまったのだ。
私は作家なんていう言葉が好きではない。今現在、心を震わせるような文、目を奪われるような絵、そのほか多くの胸を強く打つものを生み出している人は、「作家」などという弱々しいカテゴリーの中に収めてはいけないと感じるのだ。彼等は"選ばれた人"なのだ。つくる、とかそんなんじゃあない。もっともっと感情の根源に至ることができ、それらをこの世に生み出すという行為のできる、神秘的な能力を持つ人間なのだ。
本名を隠してくだらない想像を切り売りし、小銭をもらう私なんかとは絶対に、絶対に違う。
私本人が物書きになっていると知ったら、何人の人が本屋を燃やすだろうか。私はそれほどに罪深きことをした人間なのである。実を言うと、善悪の意識があったわけではないのだが、結果的には罪をとなるだろう。
私の作品は、そして私は、ただただ醜いものでしかないのである。待て、と。狂ったのかと君は僕の肩を揺さぶり言うだろう。きっとありがたいことなのだろうが、私はその言葉を聞くわけにはいかない。先にいかせてくれ。頼む。君はきっとこれを読むだろう。あとは頼んだ。幸せにな。
彼自身がこれを選べたのなら、最期、このメモにペンを走らせている間くらいは幸せだったことだろう。彼に幸あれ。
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