もうひとりの姫君
「……という経緯で、捕虜が脱走したようです」
「まあ怖い」
「姫様も、お気を付けください」
「わかったわ、ご苦労様」
「では、自分はこれで」
少女のねぎらいに、兵士らしい男が答える。
ばたんと扉の閉まる音が響き、壁ごしに足音が遠ざかってくる。
さらにもう一呼吸おいて、少女の声がこちらに向けられた。
「もう出てきていいですよ」
「はい……」
私とルカ、そしてディーはもそもそとベッドの下から体を引っ張り出す。その後ろから、運命の女神も顔を出した。私とディー以外に見えないんだから、彼女まで隠れる必要はなかったんじゃないだろうか。
「助けてくださって、ありがとうございます。イーリス姫」
私たちを助けてくれた少女は、たっぷりとした栗色の髪と、濃い藍色の瞳をしていた。今まで直接会ったことはなかったけど、姿だけは良く知っている。私の二番目の兄、ジルベールと結婚する予定だった、イーリス姫だ。
兄のところに届けられた肖像画を、私も横から見てたんだよね。
イーリス姫は、私と目が合うと同時にへにょっ、と眉をさげた。
「お礼なんて必要ありません! 元はうちの兄のせいなんですから」
「え」
「コレット姫も、ルカ王子も、ご迷惑をかけてしまって……本当に申し訳ありません!」
「ま、待って、顔をあげてください!」
そのまま土下座しそうな勢いのイーリスを、私はあわてて止める。
確かにアクセルには腹が立ってるけど、妹のイーリスに頭を下げてほしいとは思ってない。
「あんた、コレットと入れ替わりで、サウスティに嫁入りしたはずだろ。なんでこんなとこにいんの?」
ルカがもっともな質問を投げかける。
そうなのだ。
彼女は、私の兄ジルベールの花嫁になるはずだった。
今頃あちらで大変な目にあってるんじゃないか、って心配していたのに。
「私も詳しいことはわかりません。サウスティに出発する直前、いきなり部屋に閉じ込められて、それっきり……ここで軟禁生活をさせられているんです」
「じゃあ、サウスティに向かった花嫁って誰なんですか」
同時期の嫁入り、ということで私はイースタンに向かう途中でイーリスの花嫁行列とすれ違っている。体調不良で馬車から降りられない、ということでイーリスと直接顔を合わせることはなかったけど、あれは間違いなくイースタンの馬車だった。
あれは何だったんだ。
「おそらく、私に似せた影武者でしょう」
「偽の花嫁を送ったんですか? 国同士の婚姻で?」
『妹は、問題ない』と嫌な笑いを浮かべたアクセルの姿が脳裏に蘇る。
問題ないってつまり、本物は手元にいるから問題ないってこと?
不誠実にもほどがない?!
「え……待って待って、もうすでにアクセルはサウスティに宣戦布告してるんですよね? だとしたら、今頃影武者の子は……」
「……」
イーリスは青い顔でうつむく。
私も同じ顔でうつむくしかなかった。
長男のレイナルド兄様も、次男のジルベール兄様も、普段は温厚で優しい人だ。しかし、立場は王族。送られた姫君が偽物だったとわかって、そのままにしておくとは思えなかった。
「アクセル王子、だいぶヤバくね?」
ルカも顔をゆがませる。
妹のイーリスは、苦しそうにぎゅっと手を握った。
「昔は、イースタンの立場に不満はあれど、あそこまでひどくはなかったんです……それが、最近になって、急に」
「彼は、私の前で大陸の覇者になる、と言ってましたよ」
「そんなもの、絵空事でしょう」
イーリスは首を振った。
「そもそも、イースタンの興りは、東方の戦いを買って出た騎士団です。彼らは、山脈を越えて侵入してくる異民族から西側諸国を守ると誓い、周辺国からの支援を受けて国を作ったのです。それを今更……生贄国家などと」
「先祖が自分で向かってった戦いだってのに、今更、『俺たちは戦わされたんだ』って言われてもなあ」
国同士の関わりや、歴史はその時々の立場で内容が変わる。だから、イーリスの認識も、アクセルの言い分も、そしてルカの言い分も一理ある。
イースタンがアギト国との間で血を流したのは事実だけど、その裏で、サウスティやオーシャンティアが莫大な支援をしていたのも、また事実だ。
「イースタンは、サウスティ、オーシャンティア、ノーザンランドの三国と国境を接しています。アギトが敵でなくなったからといって、一度に戦えるほどの力はありません。覇者どころか、滅亡の未来しか見えないのに、どうしてお兄様は……」
「何かウラがあるのかもしれねえな」
ルカの推測に、私もうなずいた。
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