エッセイ 大学生の独り言

珊瑚水瀬

静と動

人間に静を主にして生きる人間と動を主にして生きる人間がいると思う。

もちろん、巷では能動的主体的積極的などのグループと受動的消極的などと呼ばれるグループに分けられたり、流行りのmbtiなどでi型とe型に分けられたりする。

しかし、私にはそのような枠組みでは人は測ることが出来ないように思える。

それこそ、静の動きをしているが、そこから伝わるパッションは動のそれであったり、動であると自負はしているが、どこか物事に対しては静であったり。

陰陽のように人間には両側面があって、そこから伝わるエネルギーと言うものが本来持つ静と動なのであって、簡単に分離して考えられるものではないと私は思うのである。

 というのもこのように分けるのは西洋哲学の考え方であろう。善と悪、美と醜、正義と不正、主観と客観。

対立を引き起こすことで、区別を図り私と言う個人と言う人間を浮き彫りにする。

人は人を対立することで人の類型をその全容を明らかにする。勿論これ畑ざまな人種や考えが混在する場所では有意義かもしれないが、そうでない国にとっては厄介なものである。特に日本はこれに当てはまらない。

同じ人種であり、同じ考えを基本的には持ち、同じような生活をして、災害のたびに互いに助け合い協調を重んじることで生き延びてきた。

つまり人と人が対立してその全容を浮き彫りにする文化とは、その性格があっていないのではないかと思う。

だからこそ日本での仏教では、主客身分であることを教えとしたり、分離するのではなく融合を図って結局一つの個体であることを証明しようとしたのではないだろうか。

そういう対義的な概念で測ることが出来ないということを肌感覚でもって理解する為に。

しかし、最近では、能動的主体的であることが尊ばれ、どう発信力があるか、どう誰かに自分を表現できるかに着目しているように思う。

勿論、そのような能力は必要ではある。しかし、その分自分が中心である人が増えたかのように感じる。学校教育でもそうだ。

「主体的な人材を育てよう」

主体的なのは勿論結構である。だからといって受動的な人々を非難するのはナンセンスである。どちらも人間には必要であり、日本人の持っている良さを引き出そうにも西洋のとってつけた文化をまぜこぜにして「さあこれこそが正しい教育である」

と言われてもその本質を全く理解していない。

西洋にはそうせざるを得ない環境があった。しかし、日本にもそうせざるを得ない環境があった。そのことを無視してとってつけた教育は張りぼてのように人間を誇大化させ、自己中心的な人間を生み出して、他者を蹴落とす存在を作るだけである。

 「受動的だ」なぜそれを否定するところから始めるのか。

 相手のことを考えて相手がどう幸せになれるのかどうしたら心地よく過ごすことが出来るのか。それを考えることが、今必要なのであり、はいはい!!と元気よく自分の意見を解くと述べる人間が尊ばれる価値感形成は少し違うのではないかと私は思うのである。


 静の中にも、動があり、そのまた逆に動の中にも静がある。一面的な私を見て、それは正しい正しくないとジャッジする人間の方が問題があるのではないか。

どちらも美しく、素敵な才能である。

少なくとも誰かの養分でもありたいし誰かを養分にもしたい。

そうやって世界は、回っているのだと教えてあげることこそが教育の本質なのではないだろうか。と思うのである。


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