第14話 スムトニーの研究室
夏休みの緩慢な日々から感覚を取り戻すのには多少時間がかかり、九十分の講義を立て続けにというのはしんどかった。三限は空き時間なのでゆっくり昼食を食べて、四限からまた講義があった。
この一番眠くなる時間帯の有機化学の授業を担当しているのはスムトニー教授だ。薄暗い顔立ちのスムトニー教授はアメリカのマサチューセッツ工科大学を卒業した秀才だが気真面目で地味、確度はあれど面白味のない授業スタイルに辟易とする生徒も多かった。
「……ウィッティヒ反応の反応式を書きにきてもらおうか。カドレック君、キミがいいな」
陰気な重低音で呼ばれ、ラナンは頭中に中間体を頭中に思い浮かべながら歩いた。ホワイトボードの中央に化学反応式を示し、アルデヒドとリンイリドから生成するアルケンまで書き終えるとペンを置いて教授を見た。どう受け止めているのか判断し難い表情だった。
「夏休み中に勉強していたことが良く分かるよ。それにしてもキミのベンゼン環はいいな。学生にはぜひキミのように二重結合を省略せずに書いて欲しいんだ」
らしくないお喋りを挟んだようだが、愛想笑いしたのもラナンくらいのものだった。
求核付加反応の応用について細かく学んだ後、次の授業までに予習しておく箇所を伝え、講義は終わった。
部屋を移ろうとしていると急いで追ってきたスムトニー教授に廊下で話しかけられた。
「カドレック君、……少しいいかい」
「はい」
姿勢を正して応じた。休みは十分だが隣の教室に入るくらいだ、造作はない。
「キミは前期の期末試験もトップだったよ。実に的確な回答だった」
たぶん出来てはいたと思うが、それほどに良かったとは思わなかった。上くらいいるだろうと想像していたから。
「先生の分かりやすい講義のおかげだと思います」
「お世辞だって分かってるよ。つまらない授業をするのは得意なんだ」
そういってなけなしのジェスチャーをした。ラナンはいえ、と笑って「じゃあ、授業ですから」と去ろうとした。
「ああ、待って。……待って」
口ごもりながら腕を引かれた。分厚い指の感触に生々しさと嫌悪を覚えたが、良好な関係を考慮して振り払わなかった。
「今日はキミを。……誘おうと思っていたんだ」
ラナンは怪訝な表情で見た。さすがに言葉尻がちょっと気持ち悪いと思ったが。
「キミは優秀だ、一度わたしの研究室に見学に来てくれないだろうか」
一日のすべての講義が終わると忘れぬうちにと、スムトニー教授の研究室を訪れた。拙速に感じられても困るが、印象はよくしておきたい。化学系が一連に並んだ三階の角部屋で、厚みのあるステンレス製の扉の小さなガラス窓から実験室の中が覗く。
セキュリティーのある部屋で入室の権限はないので、ノックして開けてもらった。
中で実験していたのはティーチングアシスタントで見たことのある眼鏡の神経質そうな大学院生だった。
「ストムニー先生に呼ばれてきたんですけど」
「……入って」
まるで教授の気質が移ったかのように虚ろな大学院生はラナンを招き入れると実験室の隅に置いてあった内線でストムニーを呼びだした。会話する声が小さく聞こえている。
待つ間、放置されたので実験室を見ていた。至る所にPVCチューブが這い、背丈以上のカラムやらナスフラスコやら高そうな実験器具が集まっている。とても活気的に、というよりも煩雑に使われている実験室のようだった。
キー解除の音がして振り向くと薄汚れた白衣を羽織ったストムニー教授が入ってきたところだった。
「やあ、カドレック君。さっそくきてくれてありがとう」
授業より格段元気な気がするのは彼のテリトリーだからだろうか。手を差し出されたので軽く握る。どうしていちいち握手をするのだろう。この手はやっぱり湿っている、肌でそう感じた。
「実験室の雰囲気などどうだろう。隣の測定部屋にはIRやら蛍光分光器やらあるけれど覗いていかないかい」
「いいんですか」
装置自体に興味はあった。相手の本意に乗るようで癪だが、そういう駆け引きはまあいいだろう。期待させたいヤツには期待させておけ。
測定中のこじんまりとした暗室に案内されて、機器の説明やらを詳しく受けて質問を返し、そのあとまた実験室に戻ると高分子研究についての長々とした説明を受けた。
彼は自身の研究のこととなると饒舌だった。もしかすると気を許した相手や興味を示した相手には明朗になる種の人間かもしれない。
「他に聞きたいことはあるかな」
重低音で研究の概要を気の済むまで説明し終えた後、この時ばかりは自信たっぷりにスムトニー教授はそう問いかけてきた。
「大丈夫です。今のところは理解できたと思います」
「そうかい、良かった。キミの頭なら入ってしまうだろう。研究室配属は三年生からだけれど、それまでよかったらウチのセミナーにきたまえ」
「ありがとうございます」
これが噂の引き込みか、少々面倒なことになったと思いながら。でもチャンスの一端はつかめたのだ、だから焦るなと自戒した。
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