ビットシフト3rd person ~マクスウェルアベニューの魔術師~
二月ほづみ
一 『閉鎖後』の少年
しっとりした紙の質感を楽しみつつ、ページをめくる。指先に伝わる、微かに紙の擦れる音。びっしりと印刷された文字を目で追う。追うと同時に脳が内容を味わう。
読書は良いものだ。小説なんかも悪くないけれど、断然技術書の類いが好きだ。読み進める程に新しい知識が増えていく感じは、もはや快感と言っても良い。
大判の辞典ほどもある難しい技術書を抱えて、少年は読書に没頭していた。しんとした図書室に、他の人影は無い。
静かな図書室というのは、読書好きにとってはまた格別に居心地の良い場所だといえる。思う存分本を読める幸せに浸りつつ、座り心地の良さそうな閲覧用のソファに深く腰掛け、難解な本文を舐めるように読み進める。影の深い、昼下がりのひととき、彼のすんなりした黒髪には柔らかい日の光が落ちていた。銀縁眼鏡の奥の瞳が微かに揺れて、細い指が次のページを開こうと動く……瞬間――――
「!?」
指は空を掴む。
「え?」
本が消えた。
いや、本だけでなく、全て。
整然と並んでいた書架も、フカフカの絨毯も、どっしりした年代物のソファも、暖かい窓辺の日差しさえ。何もかもまるで煙のように。
「な……っ!」
思わず素っ頓狂な声を上げ勢いよく立ち上がる。動いた拍子に、パイプ椅子がガタンと軽い音を立てた。ソファではなくて、この粗末な椅子に腰掛けていたらしい。
「あっれ? ねぇウィル、このスイッチ、違ったみた……」
「君は馬鹿か!」
あだ名を呼ばれた少年――ウィリアム・レリックは、思わず叫んだ。
床も壁も天井も、一面灰色の広い部屋に、悲痛な叫びが絶妙なリバーブと共に響き渡る。がらんどうの部屋は、まるで、魔法が解けた後のカボチャの馬車だ。
「だって、よく分かんないんだもの」
ウィリアムの睨んだ先には、明るい栗色の髪を二つに編んだ、快活そうな少女が一人。どうやら、この現象を起こした張本人らしい。悪びれる様子も無く、スカートの裾からすんなり伸びた足を投げ出すようにして、灰色の壁にもたれ掛かっていた。
「だったら分かりもしないのに操作盤を勝手に触るとか、馬鹿としか言えない真似はやめてほしいね、エリカ」
「呼んでるのに聞いてないほーが悪いんでしょ」
「それにしても、他に何かやり方があるだろう。貴重な設備なんだよ。システムが壊れたりしたらどうしてくれるのさ」
ウィリアムは苛立ちを隠さず、ずかずかと目の前のクラスメート、エリカ・グレインの前へと進み出た。彼女が背にしていたシステム操作盤にスッと触れると、ノートくらいの大きさのホログラフィ・ウィンドウが、音も無く立ち上がる。
「……ここは君みたいな馬鹿な学生より、ずっと貴重で価値のある設備なんだから」
冷たい声でしつこくそう言って、彼は学生証をかざし、システムの再起動をはじめた。
名門であるこのハイスクールの生徒には優秀な者が多いが、誰も彼も、ライブラリーといえば東別館の【紙の】図書室にばかり入り浸る。別にペーパーメディアが嫌いなわけじゃないし、あれはあれで便利なものだとは思うけれど、皆、この学校で一番価値のある施設がどこかを分かっていない。
それは間違いなく、ここ、西館4階のSiNEルームだ。
《起動……認証を開始します……学籍番号2900182、ウィリアム・レリック……認証しました》
妙にハキハキした合成音声で、耳慣れたアナウンスが流れる。足元が一瞬光ったかと思うと、あっという間に光は長く伸びて帯となり、広い部屋を走る──と同時に、軌跡からまるで生えるように次々と巨大な書架が現れた。
光る床から押し出されるように現れるそれらには、どれも本や映像ソフトらしき資料がぎっしりと詰まっている。そして、ふた呼吸も置いた後には、灰色の部屋はすっかりと元の静かな図書室の風景に変容していたのだった。
《ようこそ、こちらネオポリスアカデミー付属ハイスクールSiNE検索システム。何をお探しですか?》
窓から漏れる柔らかな日差しや、緑に満ちた外の景色まで含めて、この優雅でレトロな図書室は、何もかもが精巧なホログラム映像である。
さきほど読みかけていた技術書がソファの前に落ちているのを見て、ウィリアムはホッと息をついた。それから、そっと書架に並んだ本の背を、確かめるように撫でる。
古びた本の、堅い背表紙の手触りがした。
「……良かった。どこもおかしくしてないみたいだ」
この部屋に現れる映像はただの視覚的なまやかしではない。SiNEとは、利用者の脳を通じて情報を見せる仕組みであり、本物そっくりな目の前の書架同様、五感の大部分を刺激するリアルな仮想現実空間となって利用者の前に現れる。実際、頑丈そうな書架やそこに収められている本は全て、実際に『触れる』ことができるもので──つまり、見て触れる仮想図書館というわけなのだ。
「ほーら、何ともないじゃない」
怒られ損だとでも言いたげに、エリカは口を尖らせる。
「何ともなかったから良い、って問題では無いんだよ。君みたいなのにはわからないかもしれないけど……って、あれ、何だ……?」
適当に本を手に取ってパラパラやっているエリカの方を振り向いた刹那、ウィリアムの視界に、ふと何かがよぎる。
「……プロンプト? 何の?」
木造書架の間に、いかにも不似合いなホログラフィ・ウインドウがひとつ。取り残されたように宙に浮いていた。システムのどこかにエラーでも出ていたのだろうか。
「ちょっとあれ……」
「ってことで、帰りましょ!」
言いかけた言葉を遮って、ぐいっと腕を引っ張られる。エリカは小柄な癖に力が強くて、華奢な少年の体はグラッと揺れる。
「な、何するのさ!」
「いーから」
問答無用で部屋から引っ張り出された。無情に閉まる自動ドアの向こうに、図書室の風景が消えていく。名残惜しそうにそれを見送るウィリアムの視線を、強気そうなエリカの大きな瞳が捕らえた。文句を言う気にもならないらしい少年に、少女はニヤッと笑って言った。
「ノースランド先輩の指令なんだから、付き合いなさいよ」
「はぁ?」
「テスト勉強」
「何で僕が。嫌だよ」
「生徒会役員の癖に友達も居ないなんて可哀想だから、一緒にやるようにって」
「……放っておいてもらいたいな」
「先輩命令だもの」
「……じゃ、完遂したって報告だけして、君はその辺でパフェでも食べて帰ればいいよ」
呆れた顔でそう言って、エリカの手を振り払うと、ウィリアムはさっさと歩き出した。
「わ、ちょ、待ちなさい!」
慌ててエリカが後を追う。
「付いてこないでくれる?」
「どこ行くのよ」
「興がそがれた。帰る」
「テスト勉強は?」
「不要だけど?」
「え?」
「君、授業を聞いていないのかい?」
すっかり気分を害しているらしい少年は、わざと嫌味っぽい口調で言う。
「……に、憎たらしい奴ね、相変わらず。だからクラスに友達ができないのよ!」
「別に構わないよ、僕はそれで。じゃ」
早口にそう言うと、ウィリアムは追いすがる少女を無視して、長い西館の廊下をどんどん下っていった。
さらりとした黒髪に、瑞々しい印象のある黒い瞳、色白で体は細く、縁の細い銀縁眼鏡がよく似合う。優秀校である国立ネオポリス・アカデミー付属ハイスクールにおいても、ウィリアムは学年首席を争う生徒の一人であり──字が綺麗だという妙な理由で推薦されて、生徒会の書記も勤めている(書記の仕事に手書きの文字が必要になることが殆ど無いことは、委員に当選してから判明した)。
普通に考えるとクラスの人気者になってもおかしくない彼だが、友人は居てもその輪にはあまり混ざらず、大抵の放課後を一人で過ごしていた。同学年では唯一、同じ生徒会の会計委員を務めるエリカが、今日のようにしつこく話しかけてくるくらいだ。生徒会長に心酔しているらしい彼女は、少々冷たく突き放してもめげずに絡んでくる。
おかげで、ウィリアムが心底迷惑そうにしているにも関わらず、二人は端からは妙に仲が良いようにも見えた。
(古本屋に寄ってから帰るつもりだったけど……もういいや。今日のはさすがに腹が立つ……)
ウィリアムやエリカが物心つく頃には、既に、世界の情報ネットワーク《Ω‐NET》は、その大部分が休眠状態にあった。いわゆるΩ‐NET閉鎖法というやつだ。それによって、世界中で広く利用されていたSiNEサービスは、ほぼ全てが無期限で利用停止となっている。
政府がそのようなことを決めた一番大きな理由は、深刻な電力不足だった。何十年かの間に、世界の電力供給の要であった大型発電所が立て続けに老朽化によって停止し、電力の供給不足に歯止めがかからない状況が続いていたのだ。
ショッピングや娯楽などに多用されていた仮想空間SiNEであったが、運用には特に大きな電力を必要としたため、やむをえず停止の対象となった。
その代わり、閉鎖法以降は、それまでマイナーな存在であったペーパーメディアが大々的に復権を果たし、人々は紙で本を読み、作った書類はプリントアウトをして保存するようになっていた。
今では、Ω‐NETといえばメールと電話のための単なる通信回線というイメージが強い。かつてのようなSiNEを用いた情報ネットワークとしてのΩ‐NETの利用が、もはや一部のコンピュータを通じて細々と行われるにとどまっているからだ。
そして、《閉鎖以降》であるウィリアム達の世代は、深刻なデジタルデバイドを背負っている。彼らは失われたネットワークのかつての姿を知らないから、現代の情報不足について疑問を持つことが無い──というのはニュースに出てくる専門家の常套句だ。
実際、彼らの言葉どおり、Ω‐NETが殆ど使えないなんてことを、エリカや、他のクラスメートも、誰も気にしていない。それが当たり前で育っているからだ。
この学校のSiNEルームも、ウィリアムが入学してくるまで、殆ど誰にも利用されていなかったらしい。設備の意義や使い方を知らない生徒達が、誰も興味を示さないのだ。授業に使われる様なことも無いし、詳しい教師も居ない。だから、長く忘れられたままに放置されていた部屋だった。
(だからって、いきなり部屋の電源を落とすことはないじゃないか)
現在、ここのようにSiNEサービスの運用が公に許可されている例は、世界中を探してもとても少ない。なのに、肝心の生徒達からは殆ど知られすらしていないなんて、本当にもったいない話だ。
(ここは、失われたあらゆる情報の殆どを、抱えたまま眠ってる設備なんだぞ……それを……)
心の中でひとりごちて、校舎を出ようとする。エリカが追いかけてこないことにホッとしていると、上着のポケットで通信機が鳴った。
(母さん?)
着信は自宅かららしい。買い物でも頼まれるのかなと思いつつ、電話に出た。
「母さん? どうし……」
「すいません、ラーメン二つ」
「は?」
……思いきり、間違い電話だった。
「だから、ラーメン」
「あの、間違ってますけど」
「えっ?」
「僕は出前の受付ではありません」
憤慨した様子のウィリアムの声に、相手もようやく異変に気付いたらしい。すいません、と言ってそそくさと通信を切る。
全く、今日はついてない。
(だけど、妙だな……)
手にした通信機に目を落とす。
《通信モード : 音声通信 発信元 : 自宅》
……その履歴は、間違いようもなく、自宅からの通信のものであった。
翌日、授業が終わるとウィリアムはまっすぐ学校を出た。本当はSiNEルームに寄って昨日の技術書の続きも読みたかったのだけれど、今日は、寄りたいところがあるのだ。さっさと門を出てしまわないと、また昨日のように誰かさんに捕まったら面倒……
「あっ、居た居た! ウィル~!」
(うわ……)
思う端から明るい声が飛んでくる。当然ながら、少年にこんな風にずけずけと声をかけてくるのは、彼女しかいない。
「もう、待ちなさいよね、今日こそは……」
「テスト勉強?」
「その通り!」
「付いてこないでよ」
「出来ない相談ねっ」
「迷惑だってば」
「心配しないで、私なら全然大丈夫!」
彼女はやる気満々だ。いくら大好きな先輩に言いつけられたにしても、断ればまた明日も追いかけてくるつもりなのだろうか。
「……エリカ、そんなに先輩が好きなら、先輩と勉強してきなよ」
「え?」
「その方が君の希望には近いだろう?」
「な、な、な……」
何気なく言った言葉だったが、エリカは、パッと頬を紅潮させて口ごもる。
「そ、そ、そんな、こと……」
ちょっと珍しい反応だなと思って見ていると、彼女は目に涙を溜めて、キッとウィリアムを睨んで言った。
「出来たら、そうしたいわよっっ!!」
「出来ないことないでしょ」
「出来ないわよ! 先輩、二年の首席だし、ウィルのこと気に入ってるし……!」
「……それって何か関係あるわけ?」
「あるわよ~~っ!!」
話が全く見えないが、大きな目からは、今にも涙がこぼれそうだ。
「うわ、な、何だよ突然……」
「馬鹿ーっ!!!」
叫ぶと同時にポロポロ涙をこぼす。放課後間もない時間、正門近くは人通りも多い。これでは、どこからどう見ても彼がエリカを泣かせている様な構図である。
「わ、わかったから、泣かないでよ……」
「泣いてないわよっ! 馬鹿馬鹿大馬鹿っ!」
心なしか、周囲の視線が痛い。さっさと逃げてしまおうか。
「エリカ、ちょ……っと、あっちで話そうよ、ねぇ」
けれど、ここで無視して下校してしまうことが出来ない程度には、少年は優しかったのだ。仕方なくエリカの手を引いて門の外まで連れていく。
(何の罰ゲームだよ、これは……)
まるでケンカした恋人同士のようだ。
「全く、突然何をムキになってるのさ」
歩きながら、あっという間にケロッとした顔をしているエリカを睨む。女子というものは、なぜこうも一瞬で泣き出したり、泣きやんだりできるのだろう。
「だって……先輩と私じゃ成績のレベルが違うんだもの」
口を尖らせてエリカは呟く。何だそれは。
「……僕と君だって近くは無いと思うけど?」
「うるさいわね、あんたはいいのよ」
「あ、そう……っていうか、先輩命令なんじゃなかったの? 僕と勉強しろって」
「あ……」
どうやら墓穴を掘ったらしい。エリカはハッとして目をそらす。それから、バツの悪そうな顔で続けた。
「……ウィル、成績良いし。それで先輩に気に入られてるのかもって、思って……あんたなんかに絶対負けたくないし」
言いながら、エリカは上目遣いの恨めしそうな目でこちらをジットリ睨む。
「……一方的にライバル視しないでくれる? 僕は別に先輩とは何でもないし」
「な! 余裕かますってわけ!?」
「はぁ?」
「上等じゃないのっ!」
どこをどう勘違いすればそうなるのか分からないが、とにかく彼が生徒会長に気に入られているのを気にくわないらしい。エリカは対抗心剥き出しでがっしりとウィリアムの肩を掴んで言い放った。
「化学と数学を教えなさいっ!!」
「………………」
なかなかに丁重でへりくだったお願いに、ウィリアムは眼鏡の奥の目を細め、どう反応を返したものか数秒悩んで、そして――――
「……いいけど」
――検討の結果、諦めることにする。
「やった! ありがと!」
パッと嬉しそうに笑顔を見せるエリカ。よく分からない。
「でも僕、今日は寄りたいところがあるから、先にそっち回っていい?」
「どこ?」
「古本屋」
「また本ん?」
「文句言うなら勉強見るのやめる」
「じょ、冗談よ、冗談っ」
取り繕うように笑って見せるエリカに、はぁとため息をひとつ落として、ウィリアムは歩きはじめた。まぁ、エリカのことは実際嫌いではないし、テスト勉強ひとつで彼女の恋路の手助けができるなら、それもまた良いだろう。
落葉の並木通り、降り積もったポプラの葉はフカフカの絨毯のようで、踏むと乾いた軽い音がする。上機嫌なエリカと無愛想なウィリアムは、微妙な距離を取りつつ、街への道を並んで歩いた。午後の空気は冷たく澄んでいて、空は高く青く、気持ちの良い秋日和だ。
目指す古本屋は、市街地に入ってからそう遠くない場所にあった。大通りからひとつふたつ路地を入った、どことなく陰気な場所にひっそり立つ店だ。
「本って……電子書籍データ?」
「そうだけど」
「ふぅん……」
怪しい店構えに戸惑ったのか、錆びた看板を訝しげに見上げる少女だったが、ウィリアムはそれ以上構おうとはせず店に入っていく。
店内には売り物の書籍データを検索できるコンピュータがごちゃごちゃと並んでいた。いつもは全く人の居ないこの店に、今日は珍しく二、三人の客が目当ての本を探しているようだ。
ここでは、中古の電子書籍データを販売している。客はおのおの店内のコンピュータを使って欲しいデータを探し、買ったデータを持参したメモリにダウンロードして持ち帰るのだ。
Ω‐NETを介しての流通が出来なくなった電子書籍は、既に刊行されなくなっており、ほぼ絶滅と言ってもいい状態にあった。今ではこうして、古本データ屋の店頭で販売され、一部のマニアが細々と買いに来る程度である。
「しっかし、アンティーク趣味にしては、いまいち陰気よねぇ」
エリカは不思議そうに店内を見回す。所狭しとホログラフィモニタが立ち上がっている様子が、彼女にすれば珍しいらしい。
「だいたい、本なんて紙で読めばいいじゃない、紙で」
きょとんとして呟く少女の言葉に、店内の客達はチラリと目を上げたが、エリカの幼い横顔を見て、やれやれとでも言うように無言のまま目を戻した。店には年配の客が目立つ。彼らにすれば、エリカの様な少女が本に対してそういうイメージを持つことは、無理からぬことであると思われているのだ。
「で、で、何探すの? どうやって探すの?」
興味津々に端末を触ろうとするエリカの手を、ウィリアムが慌てて掴んで止める。
「初心者お断り。というか、僕が探しに来たのはこれじゃない」
言って、ウィリアムは店の隅にあるワゴンを指した。そこには、大量の使い捨てメモリが山積みされている。
「何、これ」
「見ての通り、データだよ」
「あっちのは?」
エリカは、首をかしげてモニタを指差す。
「あれはこの店の売り物のデータ。で、こっちは……」
ウィリアムはじゃらじゃらとカゴの中を漁る。そして、その中からひとつをつまみ上げて、珍しくニコリと笑った。
「壊れていて中が読めないデータ」
「へ?」
屈託ないウィリアムの笑顔に、エリカは不思議そうに目を丸くした。
「へぇ、安い。十マールだって」
カラフルな使い捨てメモリに興味をひかれたのか、エリカも並んでワゴンを漁りはじめる。どれも何らかの理由で閲覧が出来ない書籍データで、書名や値段などの情報を手書きで書いたシールが貼り付けられており、只に近いような値段がついていた。
「ま、ジャンク品だからね」
答えながら、ウィリアムは手に取ったメモリを次々手元のカゴに移していく。
「それ買うの?」
「うん」
「そんなに読むんだ?」
「だから読めないデータなんだってば」
そうだったわね、と、エリカは腑に落ちない表情でメモリを見つめる。
「これは? ピンクで可愛いわよ、小説だって」
「あー……、これはだめ。コピー回数があまり残ってない」
「え?」
「ほら、ここ、ゼロって書いてるでしょう。これが『全有』のやつを探す」
「何これ」
「だから、コピー回数だよ。書籍データは複製できる回数が決まってるから、これが多く残っている方が価値がある」
「へぇ……あ、じゃあこの黄色いのは? 何も書いてないけど」
「それはもっと駄目。コピーデータの方だから、開いても閲覧しかできない」
「ふぅん……」
何がどう駄目なのか分からないけど、と、エリカはメモリを見比べる。
「っていうか、ここにあるのって全部壊れてるデータなんでしょ?」
「そうだよ」
「うーん、あたしには何が何だか……」
「……ま、知りたければまた説明するよ」
さてと、と、ウィリアムは立ち上がる。小さなカゴには、一掴み分ほどのメモリが選び取られていた。ひとつひとつが小さなものであるため、かなりの数に見えたが、ウィリアムがカウンターで支払った金額は缶ジュース一本分にも満たない程のものであった。
「ふふふふふ、大漁」
袋を抱え、ウキウキ嬉しそうに店から出てくるウィリアムに、エリカは胡散臭そうに目を細める。
「……そんなの買い込んでどうするの? 集めてるの?」
「まさか。こんな屑データ」
言葉とうらはらに、少年は上機嫌だった。
「仕入れだよ、仕入れ」
「??」
言葉の意味がわからないエリカが首をひねった瞬間、彼女の通信機が鳴った。
「あ、先輩っ!」
着信音で判別できるのか、エリカは子犬のように嬉しそうな声を上げて電話に出る。
「はいっ、先輩~~お疲れさまですぅ…………」
ワントーン高くなった声は、しかしそのまま続く事無く途切れてしまう。
「………………」
そのまま、何やらボソボソと呟いて、通信を切る。
「どうしたの?」
「間違い電話。最近やたら多くて。はぁ、もー、確かに先輩からの着信だったのになぁ」
言って、少女はあからさまに残念そうにため息をついた。
「間違い電話……」
そういえば、昨日は自分のところにもあったな、と、ウィリアムは思った。エリカの口ぶりでは、彼女の所にも発信元表示と異なる相手から電話があったのだろう。常識的に考えて有り得ないことなので、何となく気味が悪いような心地すらする。
(Ω‐NETの……ゲートウェイに何か不具合でも起きてるのかなぁ?)
音声通信のパケットに混乱が生じるとしたら、根本的な部分で何か起きているとしか思えないのだが……さすがに基幹インフラのゲートウェイに不具合が出たとしたら、テレビや新聞のニュースになるだろう。そんな報道は目にしていない。
「………………」
考え込んでしまったウィリアムの背中を、ちょいちょいとエリカがつついた。
「で、ウィルの用事、これで終わった?」
もう、すっかり気を取り直しているらしい。ノースランド先輩からの通信を期待して、盛大に肩を落としていたくせに。さっきもそうだったけど、切り替えだけは異様に早い。
「え? ああ……まあ……」
考え事に入っていたせいであやふやな返事になったが、エリカはニコッと笑ってウィリアムの腕を掴んだ。
「じゃ、ライブラリ行こライブラリ!」
「……はいはい。化学ね」
「数学もよ?」
「はいはい」
ぐいぐい引っ張られながら大通りへ向かう。二人の次の目的地である国立ネオポリスライブラリーは、大通りを傾いた太陽の方へ歩いた先にあった。
「勉強、しないの?」
ライブラリに着くなり奥の閲覧室を陣取って、張り切ってノートや参考書を開いたエリカだったが、隣のウィリアムが先刻買ったばかりのジャンクデータをうきうき開封し始めるので、不満そうに声を上げる。
「わかってるよ、教えるってば」
「真面目にやってよね」
「注文が多いなあ」
「化学反応式って、どーやって覚えてる?」
「覚えなくても、反応を知っていれば書けるだろ?」
「……レクチャーになってないわよ」
「あー、もう、わかってるって。だから……」
自分が天才で無いことは自負しているが、授業を聞いていれば定期テストくらいは準備などしなくても大丈夫なウィリアムにとって、人に教えるというのは、逆になかなか骨の折れることだ。けれど、やってみると自分が普段どうやって習ったことを身に付けているかという思考経路を再確認するのも、思ったより面白かった。つかえつかえの説明も、エリカのお気に召したらしい。
「あー、ほうほう、なるほどね~、簡単じゃない!」
理解した気になって、嬉しそうにエリカがはしゃぐ。彼女は総合的な成績は決して悪くないのだが、理科系の教科に関しては明らかに苦手なようだ。どう好意的に解釈しても女らしいとはいえないエリカであるが、こういうところだけは女の子らしい……のかもしれない。
「それにしても、ウィルって意外と教えるの上手い」
「そう?」
「そうそう。学校の授業よりよっぽど分かりやすいわよ」
本気とも冗談ともとれる顔で、エリカは笑う。ウィリアムは諦め顔で肩をすくめた。
「どちらにしろ、僕には迷惑な話だけど」
「そう言わない、生徒会の仲間じゃない」
「仲間ねぇ……まぁ、勉強は趣味だし、嫌いじゃないけどさ」
「趣味!?」
「まあね」
「学生の風上にも置けない台詞ね」
「……別に、学者になりたいわけじゃないし、いいだろ」
他愛も無い会話を交わしながら、やがてエリカが数学の練習問題に没頭しはじめると、ウィリアムは先程のメモリを改めて引っ張り出して、机の中央にあるボウルのようなくぼみにザラザラと流し込んだ。閲覧室の机は大きなワーキング・デスク型コンピュータになっているので、まもなくメモリは読み込まれ、目の前にホログラフィモニタが浮かび上がる。一枚、二枚、三枚……ウィリアムが大量のデータを読み込ませたせいで、それらは瞬く間に、空中にトランプを全部並べたような有様になる。
ここ、ネオポリス国立ライブラリは、一般に開放されているSiNE設備としては、この街で最大のものなのだ。
「わっ……」
突然ホログラフィの青白い光が手元を照らしだしたせいか、エリカが驚いたように顔を上げる。
「何やってんの!?」
エリカが顔を上げると、隣の少年は膨大な数のモニタに囲まれ、満足げにそれを見上げていた。
「何って……そうだな、本業?」
「本業?」
「うん」
青白い光が、ウィリアムの眼鏡のフレームを光らせる。少年は細い腕をそっと伸ばして、開いたウインドウのひとつを指でつまむと、スイッと引き寄せた。
「こういうのをね」
それは、エリカが見てもただの記号の羅列にしか見えない、
少年の右手が、三日月を描くようなモーションを描くと、彼の手元にホログラフィのキーボードが出現する。
「……直してるんだよ」
「……? 直す?」
エリカが声をあげた時には、ウィリアムはもう画面に向かって何かの作業をはじめていた。
「ウィル……?」
「君は演習の続きをしていればいいよ。分からなかったら見るから」
「う、うん……」
手を止めずに話す少年の横顔を、エリカは呆気にとられて見つめていた。
エディタを使って彼が具体的に何をしているのかは、エリカにはさっぱり分からなかったが、どうやら彼は先程買い集めてきた古い電子書籍データを修復しているらしい。見ていると、作業の終わったウインドウが次々と閉じられていくようだ。
「あのー……」
「終わった?」
「えっ? あ、数学は、まだ……」
「そう。どれも公式の応用だから、パズルみたいに式の使い方を覚えておけば間違うことはないよ」
「うん……わかった……っていうかウィル……」
「何?」
「それ、どうするの?」
「え? あー……、この古本?」
数学の話をしていたつもりらしいウィリアムは、手を止めてちょっとだけエリカの方を見る。そして、サラッと言った。
「売るけど?」
「へ?」
……エリカにとっては、意外な答えであった。
「ねえねえねえ、さっきの話」
とっぷり暮れた帰り道、テスト勉強を終わらせたエリカが、ウィリアムの後ろをちょこちょこ歩きながら声を上げる。
「ん?」
「本のデータ、売るって、さっきの古本屋に?」
「ああ、そうじゃないよ。データ屋に持ち込んでも一律の値段で買われちゃうから。儲からない」
「儲かるの!?」
「まぁ、《NeiN-Thousand》に流せばね」
「ナイン……何それ?」
「草の根SiNE……って、みんなは呼んでるかな」
ウィリアムの言葉は、エリカにはやはりよく分からないようだ。
「……そのナインなんとかで売ったら、高く売れるの?」
「うーん、今日仕入れたデータ全部で……8万マールくらい?」
「は!?」
8万マールといえば、高校生には大金である。二カ月真面目にアルバイトしても届かないくらいだ。
「うん、まー、今日のはそのくらいかなぁ……」
「何よそれ!!」
エリカの目には、ウィリアムは先程、演習問題を解く自分の隣で、一時間ばかり鼻歌交じりで画面に向かっていただけのように見えた。
「何怒ってんのさ」
「おごりなさい! クレープ!!」
「は?」
丁度通りかかっていたクレープ屋をビシッと指差し、怖い顔でそう迫られて、ウィリアムはきょとんとして少女を見る。けれど、彼女の反応がつまり、自分が一時間で稼いだ約8万マールに対してだと悟ると、可笑しそうに笑った。
「いいよ。どれ食べるの?」
「ほ、ホントに!?」
まさか本当に驕ってくれるとは思わなかったのだろう、エリカは焦ってもぞもぞ後ずさる。
「そだな、僕も何か食べよっかな」
「あ、あたしチョコバナナ!」
「定番だねぇ」
「悪い!?」
「あはは、いやいや、賛成」
結局、二人でチョコバナナクレープを購入することになり……そしてそのまま、青い街灯の照らす大通りを食べながら歩いた。
「あれ、ウィルん家ってこっちだっけ?」
道の途中で、クレープ片手にエリカが首をかしげる。
「違うけど、送るよ」
「えええっ?」
「……君はさっきから、驚いてばかりだな」
「だ、だって……悪いわよ……遠回りだし」
「もう暗いから。それこそ明日ノースランド先輩に怒られるよ」
「え……先輩が……あたしを……?」
コロッと頬を赤らめてニヤニヤするエリカ。ウィリアムは呆れた様子で横目に見つつ、食べ終わったクレープの包み紙をクズかごに捨てた。
「ほら、早く帰ろうよ」
「はーい」
季節は晩秋。夜の風には既に、冬の気配が混じりはじめていた。
翌日は雨だった。
雨音に閉じこめられた西館の廊下は、彼ひとりきりで、他の生徒の姿は見当たらなかった。ピカピカに磨かれたタイル張りの床は、なんとなく校舎の他の廊下より随分新しく見える。それは、特にこの区画が新しいというわけではなく、単にここを通る生徒が少ないせいだ。
教師が急に寝込んだせいで午後の授業がひとつ自習になった。それで、ウィリアムはこれ幸いと、教室を抜け出してひとりお気に入りのSiNEルームへ向かったのだ。
「学籍番号2900182、一年のレリックです」
入り口に設置された受付端末に生徒証明カードをかざす。
《ウィリアム・レリック君ですね。確認しました。本ライブラリーでのSiNE利用は二十一時までとなりますので、お忘れなきように》
聞きなれたいつものアナウンス。次の授業をサボってこのまま二十一時までこの部屋に篭もれたら何て素敵だろうか、などとうっとり思いつつ、部屋に入る。
「…………あれ?」
昼下がりの庭から指す、明るく、深い日差し。
いつも通り灰色一色の部屋のつもりで足を踏み入れたのだが、部屋のシステムは既に立ち上がっており、図書室の風景が目に入ったのだ。いや、既に立ち上がっていたというより、この前ウィリアムが(エリカに引っ張られて無理やり)退室したときから、立ち上がりっぱなしといった風情だ。
(この前の技術書も、あのままだし……)
いつも使っているソファの前には、強制終了された直後と寸分違わぬ様子で、あの技術書が落ちている。
(利用者が退室したら自動で終了するはずなんだけど……)
おかしいなと思いながら周囲を見回すと、あの時気になったプロンプト・ウインドウも、一昨日と同じ状況のまま、薄暗い通路にひっそり浮いていた。
「あ……」
あれは、エリカが部屋の電源を落とした後に現れたやつだ。もしかして……やっぱり、重大なエラーでも起こしてしまったのだろうか。慌てて駆け寄って覗き込む。
(これは……ええと……)
処理が中断されました。コマンドを選択してください:
>リブート
>リターン
>シャットダウン
やはり、エラーメッセージらしきものが表示されている。命令を選べと出ているということは、SiNEの基本システムではなく、何かのアプリケーションが引っ掛かっているんだろうか。
(これ、何を選べば……って、あ、ヘルプがある)
ウインドウの端からヘルプが参照できることに気付いたウィリアムは、迷わずそれを開いてみる。変なエラーを出して部屋のシステムを止めたなんてことになったら、出入り禁止になりかねない。そんなのはごめんだ。
(何だこれ……読みにくい……ヘルプっていうか、メモじゃないか?)
それは、一般の利用者に読ませるヘルプファイルというよりは、開発者が備忘録代わりに使っているようなコマンドのメモだった。
「……すごいな」
もし重大なエラーだったらまずい、という気持ちは、それを読みはじめた時点で忘れていた。独学でSiNEやΩ‐NETのことについて学んできたウィリアムにとって、こういう文書は、どうしようもなく興味をそそられるものだったからだ。
(SiNEクローラー……? 古いプログラムかな……)
どうやらそれは、データ収集系のプログラムのようだ。詳細は分からないが、このメモを見れば基本的な操作方法くらいは分かりそうだ。SiNEアプリケーションの内側なんて、初めて目にする。
(すごい……)
見境なくSiNE関連の技術書を読みあさっていたおかげで、書いてあることの半分くらいは理解できる。
(あ、リブートにオプションなんてつけられるんだ。ここ、使用者を僕に書き換えたら使えるのかな……)
常識的に考えれば、ここはシャットダウンを選ぶべきだろう。落としておけば、次に部屋全体を再起動した時、またこれも正常に動き始めると考えるのが妥当だ。
けれど……
「よし、じゃあ……
リブート……ユーザーは、僕で、と……」
ウィリアムは興味本位でコマンドを選んだのだった。
《……コマンドを受理しました。実行します》
そっけない文章が表示されたと同時に、目の前で何か光る塊がはじけた気がした。あっと思う暇もなく、視界全部が白い光に包まれる。
「──っ!」
暴力的な眩しさに思わず目を細め、よろめくように何歩か後ずさった。
眩しい、というより痛い。
たかがアプリケーションの再起動作業にしてはちょっと大げさすぎではないか? 目をつむっているのに光の感覚が消えない。
光が入り込んでくる。目からじゃなくて──これは、なんだろう、頭に、直接……──!
叫び出したい気分であったが、轟々たる光の洪水の前には、それすら叶わない。
(な……これ、どうなって……っ!)
適当に使用者の指定を書き換えて起動したりして、やっぱりまずかったんだろうか。猛烈な勢いで後悔してみるけれど、プログラムが走り出した後ではもはや何の足しにもならない。
(どうしよ……う……!)
部屋のシステム自体がどうにかなってしまうのではないかと思われるような、強烈な眩しさ。仮想空間を形作る、SiNEの光流が脳神経を直接刺激していた。
その、太陽を直視するような、頭が割れるような感覚が、何秒くらい持続していたのかは分からない。けれど、どうにか目を開けられるようになった時には既に、《それ》は目の前に居た。
そして、ウィリアムは再び、腰を抜かしそうになるほど驚くことになる。
「あ、あ、あ……」
光の名残に、風も無いのにそよそよと揺れる、スカイブルーからエメラルドグリーンへ……まるで、SiNEの光を束ねたような色の髪。
大きな目も髪と同じ複雑な色合いで、まるで小さな地球のようだ。
細い鼻梁に、薄い桃色の唇。白い頬はスッと滑らかなラインでほっそりした首に繋がっており、いかにも肉付きの薄そうな華奢な体は────きっちりとハイスクールの制服に包まれていた。
「再起動が完了しました」
瑞々しい唇が動いて、音を発する。
声、だ。
「は……?」
ニコリと微笑む。
それは、この学校の女生徒であった。
しかも、かなりの美少女にカテゴライズされる。
「はじめまして。私はΩ‐NET自動巡回システム対話インターフェースユニット、コードネーム『サーチライト』。何をお探しですか?」
少女はとても合成になど聞こえない高く甘い声で、確かにそう言ったのだった。
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