タナトロン

@adananashi

第1話

 午前7時、西急電車の中は多くの会社員、学生で混雑していた。水貝夜得ヨエルはその中にいた。老いぼれて顔中から汚らしい脂を垂れ流す豚のように太った社畜のふぅふぅという吐息を頭上に受けながら長椅子に座っていた。彼の手元には『ドイツ語の入門の入門』と書かれた薄い本があり、それを眺めるように見ていた。別にドイツ語が学びたいわけじゃなかった。ただ退屈な日常から抜け出す助けになればと思って書店でたまたま目についた本を買っただけだった。なのでものすごく真剣に、周りの声が気にならないくらい集中して読んでいたというわけではなかった。少なくとも、ドアの近くで溜まっていた女子高生が自分のことを指さして

「えー見て、あの人ドイツ語の勉強してるんだけどー」

「やめなよー。気にしてるじゃん」

「てかひげ剃ってないんですけど、ウケる」

などと話しているのが聞こえるくらいには周りに注意を向けて読んでいた。アナウンスが告げる。

「まもなく西宮駅、西宮駅です。お降りのお客様は…」

彼は立ち上がって加齢臭を放つ会社員を押しのけてドアに向かった。

「なあ、なんでwoがwhereでwerがwhoなんだ?教えてくれよ」

女子高生に尋ねるが誰も答えようとしない。

「キモいんですけど」「ヤバくね、頭エグくね」

そう言ってこの奇怪な質問者を無視する女子高生に水貝はもう一度尋ねる、今度はカッターナイフで刺した痕の残る右腕に果物ナイフを持って。

「なあ、なんでwoがwhereでwerがwhoなんだ?」

アナウンスが告げる。

「西宮駅、西宮駅です。御降りのお客様は足元、お忘れ物にお気をつけてお降りください。」

ドアが開くや否や女子高生は走り出した。そのうちの一人を捕まえ、イチゴのヘタを取るように耳を削ぎ、スイカのタネを取るように目を抉り、ブドウをツルから取るように首を捥いで、生まれたての小鹿のように足をがくがくと震わせながら逃げようともがいている女子高生に投げ渡した。

「お客様ー、お忘れ物ですよー」

鳥獣のような悲鳴を上げその場で失禁する女子高生を見ると満足したように笑いながらその場を後にした。

「ンナーハハハハハ!」

首を失った肉体から噴き出した血でできた赤い湖が、変わり果てた友の横で絶叫する女体の足元にできた黄色い湖が、殺人鬼の笑い声と乗客のどよめきと女の叫び声とで水面を形成していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る