参 橋 その一

今は夜なんですかね。

じゃあ、こんばんわだ。


私はシノヅカと言います。

地方公務員をやっております。


唐突な質問で申し訳ないんですが、皆さん過去に戻ってみたいと思いますか?

きっと誰でも一度くらいは、あの時に戻って、やり直したいと思ったことありますよね。


でもよく考えて見て下さい。

過去なんてものは、もう実体がないんですよ。

あるのは、曖昧な記憶や記録だけなんです。


だからもし過去に戻れたとしても、それは皆さんが記憶している世界とは、まったく別の世界なんじゃないでしょうか。


前講釈が長くなりましたね。

お話を始めたいと思います。


私がその橋を渡ることになったのは、単に仕事だったからなのです。

私は役所の土木関係の部署にいて、市道に掛かった橋梁についても、部署の管理の対象だったんですよ。

ただその橋は、市の管理対象ではなかったのです。


その橋の下は幅五メートル程の用水路で、両岸を市道が走っています。

ただ用水路を跨ぐ公の橋と橋との間隔が、二キロメートル以上空いていて、間の地域の住民にとっては、用水路の両岸を行き来するのに、かなり不便だったんですね。


そういうこともあって五十年以上前に、当時の住民の何人かがお金を出し合って、その場所に橋を架けたらしいのです。

実は私もその地域に住んでいて、小学校に通うために、その私設橋を利用していました。


その橋は、五十年以上も補修されずに放置されていたので、老朽化が進んで、かなり危険な状態になっていたんです。

そこで近隣住民から、市の予算で補修して欲しいという陳情があり、まずは状況を確認しようということになって、その日私が橋を訪れたのです。


懐かしかったですね。

橋を見たのは二十数年ぶりでした。


私の記憶の中にある橋も、あちこち錆びついて古びた印象がありましたが、その時は更に老朽化が進んでいました

欄干の一部が欠けていたり、橋脚が痛んでいるのか、渡るとギシギシと音が鳴ったのです。


――これは相当危ないな。

橋の中間まで渡った所で、私は戻ろうと思いました。

そして戻りかけた時、何気なく向こう岸を振り向いてしまったのです。


振り返った私は、何か違和感を覚えました。

向こう岸の風景が、さっきとは変わっているように見えたのです。


不審に思った私は、引き返して向こう岸に渡りました。

それがいけなかったのです。


橋を渡った場所は、古い町工場が立ち並んでいる区画で、私の小学生時代とよく似た風景でした。

いえ。似ているというよりも、当時のままだったのです。


私は子供の頃を思い出し、何となく自分がその頃に住んでいた家の方に向かいました。

事情があって小学校を卒業すると同時に引っ越して以来、その家には行ったことがなかったのです。


二十年以上経っていても、道はちゃんと覚えていました。

街並みが、当時とあまり変わっていなかったからでしょうね。


子供の頃住んでいた家は、一階が商店になった二階建ての木造家屋で、当時は両親と祖父と私の四人暮らしでした。

私はその家から、あの私設橋を渡って、小学校に通っていたのです。


橋を渡って五分ほど歩いた場所に、家はそのまま残っていました。

ただ、一階店舗部分のシャッターが下りていて、二階の住居部分に繋がる扉には、『忌中』と書かれた札が貼ってあったのです。


――身内に不幸があったらしいな。

私が札を見ていると、背後から声が掛かりました。

「シノヅカさんのお知合いの方ですか?」


振り向くとそこには、中年の女性が立っていたのです。

そしてその人の顔には、見覚えがありました。

子供の頃、近所に住んでいた同級生、確かヤマモト君の母親だったのです。


しかしあれから二十数年経っているにも拘らず、彼女の顔は当時のままでした。

そのことよりも、彼女の言葉が気になりました。

――シノヅカ?


自分の苗字を呼ばれた私は、もしかしたら自分たちが越した後に、親類がこの家に入ったのかと思ったのです。

ヤマモト君の母親に似た女性は、尚も話を続けました。


「ヒトシ君、お気の毒にねえ。

不審者に、橋から突き落とされたんでしょう?

危ないわよね」


――ヒトシ君?

私は更に困惑してしまいました。

ヒトシというのは、私の名前だったからです。


気になった私は、女性に尋ねました。

「ヒトシ君が亡くなったんですか?」


「あら、ご存じなかったの?今日がお通夜なのよ」

その言葉がどうしても気になった私は、女性に通夜の会場を訊き、出掛けることにしたのです。

会場は、すぐ近くの公民館でした。


公民館に向かう途中、私はコンビニエンスストアに立ち寄り、缶コーヒーを購入しました。

そしてその時もらったレシートを見て、私は著しく混乱してしまったのです。

何故なら、レシートの日付が二十数年前のものだったからです。


恐怖を覚えた私は、通夜の会場には行かずに、あの橋に戻ろうかと思いました。

しかしどうしても、亡くなった『シノヅカヒトシ』という子のことを、確かめずにはいられなかったので、意を決して公民館に向かったのです。


中に入る訳にはいかなかったので、公民館の外から中の様子を伺うと、正面に祭壇が設けられ、中心に故人の遺影が掲げられていました。

そしてそこに写っていたのは、紛れもない、子供時代の私でした。


亡くなった『シノヅカヒトシ』とは、私のことだったのです。

そしてその日は、二十数年前の過去だったのです。


恐怖のあまり、元来た道を引き返しながら、私は自分の子供時代の出来事を思い出していました。

確かにあの頃、あの橋から用水路に転落して、亡くなった子がいました。


私の目の前で、見ず知らずの男性に突き落とされたのです。

その子は私ではなく、確かヒロセ君という同級生でした。

亡くなったのは、私ではなく、その子の筈です。


なのに何故、自分が死んだことになっているのか?

ここは本当に、自分が生きていた過去なのか?


そんなことを考えながら、私はいつに間にか、私設橋を渡っていました。

そしてそこは、私が元居た世界でした。

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