間諜皇女 ~スパイ・プリンセス~
藤花チヱリ
プロローグ
思い返せば、その日は朝から不穏な空気が漂っていた。
雨上がりの朝は雲一つなく晴れ上がるはずなのに、一面雲で覆われた空は、生温い風を吹かせ、まるで不吉な予感を表すかのようだった。
「伝令!伝令!」
馬の鳴く声と共に響いたその声は、火急の事態を知らせるものだった。
「
伝令を聞いた従者が低い声で話しかける。
「どうした」
いつにも増して眉間に皺を寄せ、険しい顔つきをする従者に問う。
「たった今、知らせが入りました。直ぐに後宮にお越し下さるように、と主上からのお達しです」
何事か、と問いたかったが、その次の句を告げることはできなかった。従者の表情と、馬車が既に準備されていたことが事の重大さを指し示していた。
〇●〇
あれから二日が過ぎた。二日間は本当に忙しなく、今になってようやくその事実と向き合えている。
「まさか本当に皇后がお亡くなりになられるとは・・・」
後ろに控えていた従者がぼやくように口を開く。忙しなかったのは、なにも自分だけではない。
火急の知らせ、それは、現帝の正室である
「原因は分かっているのか」
もっと悲しみに浸るものなのかもしれないが、どうも実感が湧かない。ゆえに、そんな言葉しか出てこなかった。
「はい。后に直接毒を渡した者がおりまして。その場で捕らえられ、実刑が確定しております。」
后を死に追いやるのは死刑に値する。恐らく数日中に執り行われるだろう。
「何故后に直接接触できたのだ?」
「商人に変装して潜り込んだようです。ただ・・・」
従者が口ごもる。言葉を選んでいるのか、もごもごとしている。
「なんだ?」
「その者は渡したものが毒であるとは知らなかったと言っているのです。毒も自分で用意したものではなく、偶然市井で話しかけて来た者に渡されたと。」
「信用できるのか?」
こちらの目をかく乱させるための偽りと捉えることもできる。
だが、従者の目は何時になく真剣だった。
「では、その毒を渡した者は今どこに?」
「捜索中です」
従者は険しい表情をする。
知っている。この従者が険しい顔つきをする時は、殆ど手掛かりがないときだということを。
「后に毒を渡した者の証言によると、その男は后に毒を渡す報酬として莫大な資金を約束すると話した後、毒と折りたたまれた紙を渡してきたと。その後、花街へと姿を消したそうです。ちなみに、その紙とやらは見つかっておらず、捜索中です。」
「その紙に何か書かれていたのか?」
「いえ、中は見るなと念押しされていたようです。まあ、初めから中身を見られても問題はなかったようですが」
「どういうことだ?」
「文字が書けず、読むこともできない者でしたので」
なるほど、といった風に紫水は頷く。後気になる事といえば。
「花街に姿を消した?」
せめてどこの店に入ったか分かれば絞られるのに。
そんな自分の考えを読んだかのように、従者は口を開く。
「調べた結果、蝶天閣を利用したのではないかという結論に至りました。」
(蝶天閣・・・)
言わずと知れた、花街一の高級妓楼だ。ゆえに、集う客も上流階級の身分の者が多い。
「つまり、有力貴族の可能性も否めないということか」
小さな声で呟く。后との間には皇子が一人いるが、后の座を奪ってしまえば、必然的に別の妃を后に召し上げることになる。うまくすれば東宮の座を奪うことができなくもない。
現に、后の崩御の知らせが出回った後、高官たちからの釣書が増えてきている。
全くもって不謹慎だ。
「蝶天閣で探りを入れることはできないのか」
そこまで分かっているのなら、特定できそうなものだが。
従者は険しい表情を浮かべたまま、重い口を開く。
「では仮に、蝶天閣に探りを入れたとしましょう。もしも犯人が本当に有力な貴族などであった場合、勘づかれると厄介ではありませんか?」
確かにそうだ。
逃亡されるのも厄介だが、逆に小賢しいことをされるのももっと厄介だ。
「いきなり突撃するわけにはいかないな。慎重に事を運ばねばならない」
ふう、と大きな息をつく。
従者の眉間にも皺が寄っている。
「なんとかして情報を得られないだろうか」
ぼやくように呟く。
すると、突然あっと閃いた。
「そうか、外側から攻めるから難しいんだ。内側から探りを入れれば良いのか」
その閃きに、従者も眉間の皺を緩める。
「そうは言ってもどうやって・・・」
「私には優秀な諜報員たちがいるからな」
そう言って紫水は意地悪な笑みを浮かべる。
「して、誰にその役目を?」
意地悪な笑みを従者に向かって投げかける。
従者は知っていた。こんな時のこの顔は、ろくでもないことを考えているときの顔だと。
「そうだな・・・あいつにしよう。一番の才女だからな、器用な奴だ。上手くやってくれるだろう」
〇●〇
「おい、聞いたか、蝶天閣の新入りの妓女のこと」
「ああ、知ってるさ。まだ入って三月程しか経っていないというのに、蝶天閣の最上級妓女になったっていう妓女のことだろう?」
「それはそれは賢いというじゃないか。先日、客が持って来た謎を易々と解いちまったんだとか」
「へええ、そいつは気になるねえ」
〇●〇
「小姐、旦那様がいらっしゃいました」
禿が戸を叩くと、中からはいはい、という声が響いた。
唇に紅をのせ、軽く紙を食んで紅を移す。
鏡に向かって軽く微笑みかけてみる。そこには、丹念に化粧を施した最上級妓女の姿があった。
女はおもむろに立ち上がると、扉に手をかけ、渡り廊下に出る。
「待たせたね、行こうか」
色艶を抑えた落ち着いた声や、洗練された仕草は、凛とした大人の女を彷彿とさせる。齢十九というにはいささか大人過ぎるくらいだ。
女には使命があった。
この国の御后様を殺した真犯人を炙り出すこと。故に、唯一の手掛かりである蝶天閣へ潜入することである。
彼女の
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