序章



 大帝国エイリッヒ。

 何よりも民を気遣い、国民たちの支持が厚い皇族のなかでも、皇女ニーナを崇める声は別格だ。


 コルセットを最大限引き締められた細身で美しい姿が流行している時代だが、皇女は同年代の彼女たちと比べ、豊満ぽっちゃりな身体付きをしていた。

 優しく朗らか。

 そんな彼女の包容力を表したような体躯は、餅のような柔肌につるんとしたきめ細やかさがあり、熱狂的なファンの間では密かにあられもない想像をされているのだとか。加えて、桃色味のある白い皮質に映える蜂蜜のような豊かな髪はウェーブがかっており、大国の美妃と名高い皇后と同じ髪質で良く似ていた。

 実を言うと現皇后は後妻として選ばれた方で、皇帝である父と比べると娘のニーナとの方が年齢が近い。皇女が物心つかない頃に実母は流行病で亡くなっているらしいのだが、まだ幼かった頃の記憶は曖昧で。ニーナにとっては彼女こそ母であった。

 姉妹のような年齢差のために異母弟である双子の弟、ジーニアスとベルナーニとは十歳以上年齢が離れている。正直なところ皇太子である弟が生まれれば宮廷内で肩身が狭くなるかと内心思っていた。

 継母も含め義弟やもちろん父も、賢く優艶なニーナを溺愛してやまず。

 皇女が成人を迎えても「半端な男には嫁にはやれない」と、皇帝は頑なに縁談の申し込みを突っぱねていたらしい。

 それ故に、適齢期である二十四歳を過ぎても婚約者の一人も彼女には存在しなかった。



 貴族の友人令嬢たちが嫁ぎ、離れた土地からの絵葉書を送ってくるたびに「恋とはどんなものなのかしら」と思いを馳せていたニーナは、宮廷の自室から鮮やかに広がる園庭を眺めては溜息を吐く日常をおくっている。

 そんなある日のこと。

 宮廷使用人にある人物からの手紙を受け取ったニーナは記してあった名前に驚き、温厚な彼女には珍しく大きな声をあげていた。


「……まさか、リサから手紙が来るだなんてっ!」


 整えられた机の引き出しからペーパーナイフを取り出すと早急に封を切る。興奮のあまり封筒がよれてしまったが中身には問題なさそうだった。

 リサ・マークイン伯爵令嬢。

 彼女は皇女が貴族女子学院生の時に隣国から転入してきた友人だ。なんでも、鉱山業を営むマークイン伯爵の一人娘であったリサは幼少期に発症した喘息のせいで帝都にある伯爵邸から遠く離れたイヴェルムルという王国で長い間養生していたらしく。身体が成長するにつれて病状も安定した十三歳の時にエイリッヒへ帰郷したのだという。

 都の貴族が通う学院では転入生は珍しい。病弱な少女を遠巻きに見ているだけだった貴族の娘たちに代わり、当時から分け隔てなく立ち回っていた皇女が一番先に声をかけたことから自分たちの友情ははじまった。

 かれこれ十一年の付き合いなのだが、残念なことに卒業間近というところで在学中に酷い発作を起こし、再び隣国へ戻ってしまったリサとはそれ以来手紙のやり取りがなかったのだ。

 というのも、イヴェルムル王国とエイリッヒ帝国は極めて仲が悪く。

 両者ともに争いを避けたい国民性なのが幸いしているのか、大きな戦争にはならずにここまできているのだが……特に今代の皇帝陛下とあちらの国王陛下は犬猿の仲で。同い年、国民からの支持も厚く見目も麗しいとなれば太子の時代より比較されるのは当然だった。

 イヴェルムル国王は王国騎士団長兼、大公たいこうの娘……というにはやや歳を食った歳上の姫をめとったのに対して、我が国の皇帝は二度も美しく若き令嬢を妻とした。それも、皇族では稀な恋愛結婚でだ。

 別に姉女房が嫌なわけでも、国一の美貌と言われる姫でなかったことが気に食わないのではない。単純に隣国の腐れ縁が「自分よりも相当若い婦女子を娶った」という事実を羨ましがっていた。

 つまるところ、個人的な逆恨みなのだが両国の諍いは年々増していき、今では外交条約まで破綻寸前という危機的状況にまで陥っている。

 そんな仲なので、国を跨いでの物流が滞っており手紙一枚まともに送ることもできなくなっていたのだ。


 ――お父様も、もう少し大人になってくれると良いのだけれど。


 売り言葉に買い言葉。奴に売られた喧嘩は買ってやる精神なのは今となっても変わらず。他国とは冷静に外交をしているというのに、何故だかイヴェルムル王国とはそれが不可能で。


 ――困るのは王国側なのに。お父様もそれを理解していて、ああいう態度を取るのだから厄介だわ。


 中央大陸で富国ふこく、といえばエイリッヒの名が上がるだろう。

 豊富な資源と大海原に面した土地、気候にも恵まれたために農作物業も盛んに行われている。おまけに世界的に希少価値の高い鉱石まで採掘できる帝国に、財政で勝てる国はまず大陸にはない。

 イヴェルムル王国も貧しいわけではないのだが、寒気の強く入ってくる北に位置するせいで冬の間は全くと言って良いほど農作が不可能になる。一年を通して氷点下を下回る日の多い国では、食物を他国に頼るほかなく。

 その多くを担っていたのが帝国だったのだが。

 旧友の手紙にもあるように、一昨年、昨年は特に寒さが厳しく一部の貧困スラム街では飢餓に苦しむ一般人もいるのではないかとニーナ皇女は心を傷ませた。


 ――確か、王太子はその辺りが冷静な人だと噂に聞くわ。喧嘩腰になってしまう父達でなく彼が外交業務に手を入れられれば状況は変わるのかしら。ただ……。


 大陸の北に位置する雪国イヴェルムルの王太子は国内外問わず、その見目秀麗な姿形から存在を知らしめている。また、王国が抱えている騎士団に所属していて、そこで鍛え抜かれた体貌は純朴な乙女が見れば失神してしまうほどに美しいというのだから恐ろしい。女人顔負けの容姿に反し、精悍せいかんな出立ちも相まって国境を超えて人気を博している殿方なのは間違いないのだが。


 ――わたしと比べるのは少し違うのかも知れないけれど。彼も、まだ独身なのよね。


 王太子は自分よりも二つ歳が上だと聞いている。王族で、目鼻顔立ちが整っていて、腕っぷしもあって頭も良い。そんな彼が二十六にもなって恋人の噂一つも立たないのには、とんでもない理由があった。

 実際に目にしたわけではないのだが、言い寄る淑女を片っ端から無惨に断り、あまつさえ許嫁であった貴族の娘に剣を抜いたことがあるというのだ。

 エイリッヒでは銃刀法が制定されており、貴族や皇族であっても簡単に武器を携帯することはできない。猟師や治安維持のための帝国軍人だけが所持を認められているのもあり、生まれてこの方、ニーナは鞘から抜かれた刀身を見たこともなかった。

 故に、面前に鋭い剣を突きつけられた想像をするだけで身の毛が弥立よだつ。


 ――本人が不在のところでの噂が信じるに値はしないけれど。これだけ多くの逸話が語られているのには必ず理由があるはずだわ。


 手紙の内容と脳内が脱線したのを思い出した皇女は、まだ読み終えていない部分へ視線を動かした。


「まぁ、リサったら。来週帰国するなら、はじめに書いてくれればいいのにっ」


 気丈な彼女らしい走り書きで綴られた紙面には、僅か五日後に帰国するあまが書かれていて。喜びから手紙を握りしめるニーナは、再会を前に踊り出しそうな勢いでくるくるとその場で旋回すると寝台へ寝転んだ。


「…………あら?」


 片手に所持したままとなっていた封筒の開いた部分から、カードのような硬質紙がひらりとシーツの上に舞い落ちる。


 ――仮面、舞踏会?


 どうやら一週間後に公爵夫人の屋敷で行われる催しの招待状のようだった。

 未婚の紳士淑女を集めた、所謂“婚約パーティー”は世話好きと有名な夫人が良く開いているのをニーナも存じていたが“仮面を身につけて”というものは初めてである。

 父がまだ皇太子だった古き時代に流行していたというが、もう五十年近く前のこと。


 ――そういえば、公爵夫人はお父様と歳が近いのよね。


 若年だった頃に流行していた舞踏会は今ではめっきり行われていないのもあって新鮮味があった。

 友人からの手紙には「結婚にはまだ乗り気じゃないけれど、楽しそうだから一緒に行きましょうよ」との誘い文句が綴られていて。


「面白いものが好きだものね、リサは」


 ちょっぴり学生時代を思い出し感傷に浸りながらも皇女自身“仮面舞踏会”というものに興味が湧いてきた。


 ――公爵夫人の主催なら、お父様もお義母様にもお許しをいただけるだろうし。……仮面、ってどんなものでもいいのかしら?


 すっかり行く気が満々になっている皇女は当日のドレスや仮面の装飾で頭がいっぱいになっていく。

 実のところ、最近はそういった会に出席をしていなかったニーナ。彼女の内面を知っている者であれば、見かけだけで判断する人はまずこの国にはいないだろう。豊満なのは富の証。それを蔑むなど卑しいもののすることだとエイリッヒ国民はみんな思っている。

 しかし、中には“女性は細身でいるのが正しい”と傲慢に決めつける輩もいないわけではなく。

 その多くが諸外国から観光目的できた貴族たちで。

 とある茶会へ参加した時。来訪していた親交国の貴族に言われた言葉によって、社交界への足が遠ざかっていたのであった。



「ニーナ皇女様は狸のようですね」

「……たぬき、ですか? 我が国では見ることができないので、実物は知らないのですが……あの、丸くて可愛らしい動物のことですよね。わたしにそこまでの愛嬌があるかどうか」

「ハッ……ハハハッ! それ、本気です?」

「え?」

「ああ、すみません。皇女だからと婉曲的にお伝えしたのが良くなかったのかな、本国では太った貴婦人などいませんのでね。ご忠告になるかと思って発言したのですが。いやはや、糖分の摂りすぎで頭の中まで侵食なされておいでだ」



 事の詳細を耳にした皇帝陛下によって子息は即刻強制帰国及び永久入国不可となったのだが……。

 “豊満ぽっちゃり”だと言われるのは褒め言葉ではないのだと。その日、生まれてはじめて皇女は胸に深い傷を負った。

 一年あまり経過したところで、ニーナは以前よりも十キロ程痩せていた。それでも、街を歩く娘やコルセットをキツく縛り上げている令嬢などと並べば違いは瞭然で。決して、痩せたいと思っているわけではないのだが、どこかあの子息の言葉が耳にこびり付いて離れなかった。

 毎日のように楽しげに食事を摂る姿を“愛くるしい”と見つめていた両親と義弟は、皇女の前に並んだ小さな野菜ボウルに涙していたことは記憶に新しい。


「姉様の魅力は身体じゃないのに! わかっていないんだ、そのボンクレ貴族は」

「そうだよ、姉様は今のままで素敵なんだから。僕たちはニーナ姉様の柔らかい腕の中でお昼寝するのが大好きだよ」


 ……これもこれで、双子の義弟の将来が不安になる癖にならなければいいと皇女は思っていたが、彼女は素直に愛する弟たちの言葉を受け入れることに決めた。

 それからは、適度な運動とバランスの良い食事を心がけている。体重は痩せてからのものを維持しているが、自分にはこの体型が合っているのだと自信を取り戻した。


 ――お父様はまだ結婚には早いと思われているけれど、わたしは、みんなが素敵だという“恋”をしてみたい。


 そのキッカケ作りになれば良いな、とニーナは密かに舞踏会の来る日を楽しみにしていたのであった。

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