文月の訪問者

若月 はるか

Day1 夕涼み


「日が暮れた言うに、いつまでも暑うて、いけんですのぉ」


 濡れ縁で湯上りの身体を冷ましていれば、ぬるり…やたらと馴れ馴れしい声が、ほんのすぐ隣へと滑り込む。

 視線を向ければ、宿が温泉利用のみの客に貸し出しているの甚兵衛を纏った禿頭の男が、首周りをタオルで拭きながら、ニコニコと絵に描いたように人の好い笑みを浮かべていた。

「兄さんは、泊りですかの? わしらぁ、時どきここに浸かりにこさせてもらいよりますわ」

 別段、連れのだれそれと間違われたわけでないようだ――体験するのは初めてだったが、鄙びた温泉宿を贔屓にする地元の住人にままいる、気さくで面倒見の良い性質の人物であるらしい。

「若ぁ時分に、腰を傷めて往生しよったですが……ここの湯が、はぁ具合がええんですわなぁ」

 わはは…豪快に笑う様子は、なにやら無邪気にすら感じられ――兄さんは、スポーツでもやりよっちゃったかな?……問われるままに、実業団チームのマラソンランナーであったこと、交通事故で足首を傷めてしまい、現在、療養中であることを答えていた。


「そりゃぁ、兄さん――悪かったなぁ」


 心の底からの同情を孕む声。

 しかし、瞬間――ぞくり…とした。

 打ち明け話に勢い俯きがちになる顔を覗き込んだ、男の瞳に……見たそれは、虚。

 しんどかろうなぁ……思い遣り深い口調だけはそのままに、先ほどまでの人懐こくさえ思われた目の輝きが消えていて。

「そんで、兄さん――この先のこたぁ、考えとってんかね? まぁ、ちぃと先…いうとこかの」

 ぬっ…灯りといえば、背後の室内のそれとそろそろ瞬き始めた星明りほどしかないというのに、妙に真っ白く浮かび上がって見える間近に突きつけられた男の顔。湯上りの襟周りを葺いていたタオルの影、咽喉から耳の後ろに向けて、顔色と真反対の赤黒い筋のような痣が見えた。


「さすがに、もう走れませんが――他にやってみたかったことがあって、友達が誘ってくれているので、乗ってみるつもりです」


 正直、その瞬間までは、ランナーとしてのキャリアへの未練も全く違う職種に踏み込む迷いもあったのだけれども――。

 ほとんどとっさに、宣言していた。

 瞬きもしない男の視線に耐えかねて、覚えず固く目を瞑る。


「そうかー……」


 感心するでも悔しがるでもない、ただ納得したとばかりの応えが、遠くに聞こえた。



 声の余韻を追って目を開けたときには、既に男の姿はなく――ただ、縁台がひとひとり座ったほどの大きさに、濡れて色を変えていた。





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