鏑木と先生
「てめぇ、いい加減にしろよゴラァ!!」
それはいつものように校舎を抜け、講堂の一階に入った購買の前を横切り、旧校舎のほうに差し掛かった時のことだった。
いきなり聞こえた怒声に、俺は驚いて立ち止まり、声のするほうを反射的に見た。
(おいマジか……鏑木かよ)
俺は思わず目を見張った。
そこにいたのは鏑木と、副担任の松永。
鏑木はやっぱり生きていた。
そして見覚えのあるこのシーン。
そうだ、はじめて俺が鏑木と目があった日だ。
鏑木が松永をボコッてた日。
これは一体なんなんだ。よりにもよって、なんでこの日なんだ?
俺が柄にもなく感傷的になって、鏑木とのうっすい思い出なんかで偲んだりしたからか?
呆然と俺は、鏑木が松永を口汚く罵り、殴り蹴るところを眺めていた。 ――過去の俺がそうしたのと同じように。
「さわんな! てめぇキモいんだよ!」
「ご、ごめん鏑木くん」
頭を抱え、塀によりかかるようにして、鏑木による暴力から逃げる松永。
遠目からでも、松永の口の端から血が垂れているのが見える。先生を生徒が殴るシーンなど2回目とはいえどやっぱり衝撃的で、しばらく立ちすくんで見ていると、鏑木がいきなり俺のほうを振り返った。
そして、鏑木と視線がぶつかる。 大きな目を細めて俺を睨みつけてくる。
ここまでは前と一緒。
あの時は厄介事に巻き込まれたくなかったし、見なかったことにして、さっさと立ち去った。……しかし今回はなぜか、ついその目を見つめ返してしまった。
「――なに見てんだよ」
きれいな顔に刻まれた眉間の皺が、さらに深くなる。
「いや……」
「……」
あっち行けよと言わんばかりに睨みをきかせる鏑木の向こうで、今度は助けを求めるかのように俺を見る松永と目があった。
俺は少しため息を吐き、仕方がねえなとそのまま鏑木たちのほうへ歩き出した。
正直いって、俺は喧嘩で負ける気はしない。とくにこんなガリガリの田舎ヤンキーなんかには絶対負けねえって自信がある。
いろいろあってやめてしまったが、小学校の頃までは空手を習っていて、割といいところまでいった。今は身長も伸びたし、毎日バイトに明け暮れているせいか、それとも体質なのか筋肉も維持できている。だから ――ほら、こうやって鏑木を見下ろせる。
二人の目の前に無言で立つと、俺の影になった鏑木があんぐりと口を開けた。そして苛ついたようにチッと舌打ちした。
直感的に俺には敵わないと思ったのだろう。鏑木は松永のほうに向かってペッと唾を吐くと、そのまま俺の横をすり抜けて行ってしまった。
はぁと盛大なため息が出る。
「……先生、大丈夫っすか」
足元に落ちていたメガネを拾い、松永に差し出すと、メガネをかけながら、きまりが悪そうに俺を見た。
「あ、ああ、ありがとう……木嶋。ごめんな。変なとこ見られちゃったな。あはは」
「血、ついてますけど」
血がついた場所を、自分の口元を指でトントンと指し示してやると、松永はああといった感じで口元をぬぐった。
「ああ、本当だ。はは、ちょっと口の端を切ったみたいだ」
そう言いながら、脳震盪でも起こしているのかふらつく松永に、仕方ねえなと手を貸すことにした。
松永は俺のクラスの副担任であり、美術の教師でもある。 まだ若く小柄で童顔の松永は、クラスではまるで友達のように〝まっつん〟というあだ名で呼ばれていて、かわいいと女子に人気があった。
穏やかで誰からも好かれている印象だった松永が、なぜ鏑木とトラブルを起こしていたのか。
「うわー木嶋、本当に背が高いな。部活やってなかったよな。もったいないなー」
「部活する余裕ないんで」
身長差のある俺が片方の脇を支えると、小柄な松永の体は斜めになってしまい、少し歩きにくそうにしている。はたから見ると〝捕獲された宇宙人〟みたいな感じになってるだろうが仕方がない。いくら小柄でも、さすがに先生をおんぶや抱っこする気はない。
「歩けますか。行き先は、職員室でいいっすか」
「あー……、ちょっと今の状況を他の先生方に見られたくないから、美術室の準備室でもいいかな」
まあ確かに、なにかあったとしか思えない姿だ。
あははと申し訳なさそうに生徒に愛想笑いをする松永の、教師としての威厳のない姿に俺は呆れながら、黙って特別教室棟にある美術室まで手を貸した。
「ふう、ごめんな木嶋。助かりました」
「いえ、じゃあ俺、帰るんで」
美術室横にある美術準備室にたどり着くと、もうこれでいいだろうとすぐに踵を返そうとした。だが松永はそんな俺を呼び止めた。
「あ、木嶋木嶋! お礼にコーヒー淹れるから、飲んでいって。ちょうど美術部の子たちと食べようと思ってたクッキーがあるんだ。ほら、そこに座って」
「いえ、俺は――」
もう帰りますと言おうとしたら、腹がぐーっと鳴った。
そういえば今日の俺は、昼飯を食ったことになっているんだろうか。
「ははは、ほら遠慮しなくていいから。座れ座れ」
松永はまだ少しふらつきながらも、笑いながら部屋の隅の棚にあった電気ポットにペットボトルの水を足し、湯を沸かし始めた。
今日美術部は休みなのか、隣の美術室からは誰の声も聞こえず、代わりに遠くから響く吹奏楽部の不調和音が、廊下からこの部屋に流れて聞こえた。
はじめて足を踏み入れた美術準備室はちょっと蒸し暑く、室内にはいろいろな備品が所狭く置いてあって、俺はもの珍しさにぐるりと絵の具の匂いのこもる室内を見回した。
立てかけられたいくつもの画板とイーゼル。誰か分からない彫りの深い外国人の石膏像。でかい紙の束。汚れて複雑な色味に染まったたくさんのエプロン。いろんな種類の絵の具や筆。いつ描かれたのかも分からない古い誰かの作品。そして奥には教員用の机が置いてあり、横に立つ一台のイーゼルには、大きなキャンバスの形に布が被せてあった。
「あれ絵ですか? 先生が描いてるんですか」
「ん? ――ああ、イーゼルの? そう。でも見るなよ。描きかけだから」
シュンシュンと温かい湯の沸く音。
コーヒーのいい匂いが部屋に広がり、松永が俺に声をかけた。
「はい、お待たせ。木嶋、コーヒーとクッキーどうぞ」
松永はコーヒーを机に置くと、缶に入ったクッキーをそのまま俺の前に出し、食べるよう促した。
「……っす」
甘いものも久々だ。苦いコーヒーと甘いクッキーは相性がよく、俺の空っぽの腹によくしみた。
「――それで木嶋、今日のことはちょっと内緒にしていてくれると嬉しいんだけど……頼めるかな」
「……誰にも言うつもりはありませんよ。つか、何があったかくらいは聞いていいですか」
口止めされると分かっててここに残った理由は、これしかない。
二人に何があったのかを知るためだ。
俺が過去に戻った早々、死んだはずの鏑木と出会ったのは偶然とは思い難い。時間が戻った理由が鏑木にあるのか、何かヒントが欲しかった。
「……ああ、そうだよな。うーん、これも人に言わないって約束してくれるか」
「はい」
「……実は、先生、鏑木に絵のモデルをお願いしたことがあってな。ほら、鏑木は独特な雰囲気があるだろう。だから個人的にお願いしたんだけど、どうもそれが気に入らなかったようでね、はは」
確かにあの顔はモデル向きかもしれない。しかし普段の素行を見ていたら、モデルを頼もうなんか絶対思わないだろう。それなのにわざわざ気性の荒い鏑木に頼むとは……。命知らずというか、芸術家っていうのは自分の作品のためなら見境ねえなって驚いてしまう。
まあ、でも鏑木が怒った理由に納得がいった。
ヤンキーに絵のモデルしろだなんて、バカにしてると思われても仕方がないだろうし、しかも相手が教師となると、そりゃあキモいと思うわな。
「それで鏑木の〝キモい〟だったんすね」
「あ、聞いてた? はは。でもヌードとかそんな法にひっかかるようなやつじゃないよ!? いや、本当に普通にデッサンモデルにってお願いしただけで……本当だよ!? 木嶋!」
「分かってますよ」
松永の焦り方が逆に怪しさを醸し出しているが、さすがに倫理的な問題はなかったと思いたい。
松永に「絶対誰にも言うなよ」と、残ったクッキーを口止め料代わりに持たされて、俺は帰宅した。
まあ余計なトラブルを背負うつもりもなかったわけだし、俺としては知りたかった松永と鏑木のトラブルの内容が聞けて、スッキリした。
(……だけど鏑木は、なんで死んだんだろうな)
本当に時間が逆行――いわゆるタイムリープ的なことで過去に戻ったのだとして、また来年の今日には鏑木は死ぬのだろうか。
一旦戻ってしまった時間がこの先、元の時間軸に戻るのか、それともこのまま戻ることなく進んでいくのかも分からない。
(俺、脳の病気とかだったら怖えな)
実際問題、俺の脳がバグッている可能性だってある。
(他にもヤベェようなことになったら病院行くか。でも本当にタイムリープしてるんだったら、なんか映画や漫画みたいで面白いかもな)
こういうタイムリープものでよくあるのが、元の時間軸と同じ道を辿らないように、違う行動を取ってみるってやつだ。そう考えると今日の俺の行動は、正しかったといえる。
(鏑木と出会うところからスタートしたってことは、やっぱ鏑木の死が関係してんのかな)
前回はスルーした、松永と鏑木のトラブルに介入して松永を助けたし、2人のトラブルの理由も聞けた。
(鏑木の死を回避させるのがゴールと仮定して、今日のは無意識の行動だったけど、我ながらいい判断だったのかもな)
今日の出来事が未来にどれくらい影響するのかは分からないが、これから少しずつ違う行動をとっていけば、鏑木が死ぬ未来も変わるんじゃないか。
(そう考えると案外簡単かもしれねーな)
何がどう未来に影響するのか分からないわけだし、今日のように偶然の流れで変えていける可能性もあるわけで。
そもそも鏑木が死ぬことに俺に直接の関わりがあるわけでもなし、自分がどうこうする必要があるのだろうか。それにまだあの日まで時間はあるのだから、のんきにやればいい。
俺は古いアパートの一室で、日焼けした畳の上に寝転び、そう目を閉じた。
あれから松永とはちょっと話す仲になり、何度か美術準備室に行ってコーヒーやお茶をご馳走になった。
いつ会っても松永はのんびりと穏やかで、鏑木とはその後小さな衝突はあったようだが、それもじきなくなったようだった。
2人の間にトラブルがなくなったのなら、松永鏑木問題はこれで終結だ。
松永といえば、準備室にあった布がかけられたイーゼルだが、しばらくあったあの絵も、松永が描き終えてしまったのか、いつの間にかあの場所から消えていた。話していくうち松永がどんな絵を描いているのか少し興味が湧いたし、そのうち見せてもらおうと思っていたのに、見れなかったなったのはちょっと残念だった。
あと全然事件でもなんでもないけど、年末に俺にとっては二回目となる期末テストがあった。
普通なら二回目だし余裕だと考えがちだが、俺はこの膨大なテストの内容なんか覚えちゃいないし、ましてや正解の答えなど見てもない。テストの問題が同じだと感動することもなく、勉強する気もなかったから、点数のアップデートはできなかった。
でもそれは鏑木の未来に影響するものでもないだろうし、スルーでいいだろう。
あとは居酒屋でのアルバイトをやめて、物流センターの仕分け作業員の仕事に変えてみたり、自分なりに変化を加えてみた。
ただ肝心の鏑木とは、あの日以降会話をするどころか、教室で目を合わせることもなく、ただなんとなく日々が過ぎていった。
鏑木の家庭事情を聞きたくても、先生からは「個人情報だから」と教えて貰えず、結局何も分からないまま。
そうやって積極的に鏑木に介入することなく、なんとなく及び腰のまま時が過ぎ、俺の時間が元の軸に戻ることなく、この時間軸でも、鏑木はこの世からいなくなった――。
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