レクリナの傷心

 深夜4時、ヘラゲラスの部屋にノックが響いた。それに気づいたヘラゲラスは目を覚まし、警戒心を最大限にする。


(こんな夜中に誰だ? まさかカクトの野郎日も昇らないうちに話術を披露しろっていうんじゃないだろうな?)


 ノックの音がどんどん乱暴になる。仕方なくヘラゲラスはベッドから起き上がり、扉を開けた。すると同時に目を丸くする。開いた扉の先に立っていたのはレクリナだった。


 娼婦のような丈の短いスカートを穿いており、肌の露出が多い煽情的な衣服。服のあちこちがズタボロに引き裂かれており、胸元の下着も覗き見える。右の頬は赤く腫れ上がっており、眼も涙で充血していた。


「……どうしたのですか?」


 尋常ならざる事態を察知して、顔色を変えてヘラゲラスは声を掛けた。だがレクリナはそれを無視してヘラゲラスの横を通りすぎる。室内にあった水瓶を勝手に手に取ってごくごくと飲む。口元から水が滴り落ち、テーブルが水浸しになった。もはや今まで見てきた優雅な王妃の仕草はどこにもない。ただ今は野卑な奴隷の小娘に戻っていた。


 そんなすっかり憔悴しきったレクリナの様子にいたたまれなくなり、ヘラゲラスは洋服掛けにかけてあった自分のナイトガウンを持ってくる。


「ひとまずこれを着てください。私のものですが、そんな恰好のままよりはマシでしょう」


 水瓶の持ち手を握りしめたままレクリナは、赤く腫れ上がった目でヘラゲラスを見上げる。黙ってガウンを引っ掴むと、自分のふしだらな恰好を覆い隠すように羽織った。そのまま水瓶をテーブルに戻すと、机の前のソファーに座る。


「レクリナ王妃、一体何があったのです? ……カクトに何かされたのですか?」


「……思い出したくもありませんわ」


 正面のソファーで相対したヘラゲラスに、レクリナは吐き捨てるように呟く。だが気丈に振る舞えど、体の震えは決して収まらなかった。


 ヘラゲラスはほとほと困り果てた。いつも自分が相手をする客は男ばかりであり、女の扱いなど慣れていなかった。まして10歳以上は離れているはずのこんな異民族の小娘など……。


「……とにかくこれをお使いください。化粧が崩れております」


 ヘラゲラスはポケットから無地の白いハンカチと手鏡を渡す。レクリナは差し出された道具類を見ると、黙って受け取った。鏡を見ながら、自分の汚れた顔を拭き取っていく。


「……あなたは、自分の素顔を隠して辛くなったことはありませんの?」


「へっ?」


 レクリナは一通り洗面を終えると鏡を突き返す。だがハンカチはそのまま自分の手に握りしめたままだった。


「……私は、辛くなりましたわ。どれだけ作り笑いを続ければ、この苦しみから逃げられるんだろうって。あの男に乱暴された時、そればかりが頭の中でいっぱいになりましたわ」


「……貴女らしくもない。あの男を殺してやろうと息巻いていた啖呵はどこへ行ったのですか?」


「私は元々こんなものですわ。所詮はただの奴隷の小娘。どれだけ嫌っていようと、どれだけひどい仕打ちを受けようと、誰かに縋ることでしか生きられない弱い人間ですの。首を締められれば簡単に死んでしまうあっけない命……」


 レクリナの瞳からまたポロポロと涙が零れ落ちる。何度ハンカチで拭っても、溢れる涙を止められない。


「とにかく落ち着いてください。あなたは少し気が動転しているのです。召使いを呼び寄せて、何か温かい飲み物でも持ってこさせましょうか?」


「……ヘラゲラス」


 レクリナは上目遣いに潤んだ瞳をヘラゲラスに向ける。身の丈に合わないナイトガウンの腰紐に手をかけた。


「……私を、抱いてくださいまし」


「!!」


 レクリナはガウンをソファーの傍らに脱ぎ捨てると、今度は乱れた衣服の結び紐に指を重ねた。スルスルと一つずつ解いていき、胸元の下着がぱっくりと露わになる。


「私は、誰からも愛されたことがありませんわ。物心ついた時から奴隷として育てられ、売り物になるための訓練ばかり受けてきましたわ。わかってることと言えば、値札につけられた自分の誕生日と年齢くらい。私はお父さんやお母さんが誰なのかすら、全く覚えていないんですの……」


 そして上着の袖から両腕を通して抜くと、スカートだけの姿となった。白い胸下着だけが残った半裸の姿となり、艶やかな黒い肌には光沢が照っている。やがてレクリナは胸下着のホックに手を伸ばした。そのまま締め付けられた胸を解放し、未成熟な肌をさらけようと――


「およしなさい。俺と寝たって、あんたの心の傷が治るわけじゃありませんぜ」


 ヘラゲラスはソファーから立ち上がり、レクリナの手首を掴んだ。レクリナはハッと見開いた目で見上げ、青い瞳を寂しげにうるうると潤ませた。


「そんな目をしたって無駄ですぜ。俺は甘ちゃんな小娘に優しくできるほど人間ができちゃいない。俺も所詮クソったれな民衆ども相手に、クソったれな話をして日銭を稼いできた男だ。そんな下種に慰めなんざ期待しちゃいけねぇ」


「……でも」


「でももへったくれもねぇ。はっきり言うが、俺はあんたみたいにおんぶにだっこされてる身分の癖に、グチグチいう奴が大っ嫌いなんだ。カクトに媚びて生きようって決めたのはあんただし、覚悟の上であの男に近づいたんだろ? 今更そんな風にうじうじされても、そんなもん自分が選んだ道だ」


 ヘラゲラスは厳しくレクリナを突き放す。レクリナの唇がわなわなと震えた。


「……私は、自分で自分の人生を選んだことなんてありませんわ」


「ああそうだろうよ。けどな、そんなもんあんただけに限らず誰だってそうだ。生まれた時から裕福な奴もいれば貧乏な奴だっている。だがそんなことにいちいち悩んでたら何も前に進めねぇ。


『もし生まれが良かったら』だとか『もし周りの環境に恵まれてたら』だとか、そんな言い訳を並べてりゃ誰かが救ってくれるのか? 自分を悲劇のヒロインぶって甘えるな。そんな惨めったらしい女に周りが同情するのは演劇の中だけだぜ」


 ヘラゲラスの容赦のない叱咤に、レクリナは顔を伏せて唇をきつく噛む。


「……言ってくれますわね。私、物凄く傷つきましたわ。初めの頃はもっと紳士的な殿方だと思ってたのに」


「ふん、勘違いも甚だしいな。俺も所詮石っころを投げられる畜生以下の話術師だ。他人をコケにすることでしか日銭も稼げねぇゴミだ。やりたくてやってるわけじゃねぇ。だが、やるしかねぇんだよ。こんな道を選んじまった以上はな」


「……けっきょくあなたは選んでるじゃないですか。さっきまで私のことを散々『悲劇のヒロイン』だとか罵倒した癖に」


「……選べたって同じさ。所詮人生なんてもんは、自分が道を決めたって転ばねぇ保障はどこにもねぇ。それでも這い上がれるって信じるしかねぇんだ。あんただって、敵の喉元を食いちぎるために今を生きてるんだろ?」


「…………」


 レクリナは不貞腐れた瞳でヘラゲラスをじっと見上げる。自分の思い通りに慰めてもらえず、不満を露わにした。それでももう、涙は止まっていた。レクリナはごしごしと目を擦り、改めてヘラゲラスを見据える。


「ねぇ、ヘラゲラス。何か私に話術を披露してくださらない?」


 突然の要望にヘラゲラスは面喰らう。


「な、なんだよ急に……」


「あなたが話術の道を選んだのは、あんな一度聞けばすぐに忘れる馬鹿話をするためじゃなかったのでしょう? なら、本物の話を聞かせてください。あなたは本当はどんな話を語りたかったのですか?」


 衣服の紐を締め直し、レクリナは身なりを整える。ソファーに脱ぎ捨ててあったガウンを羽織り、姿勢も正した。


「……そんなもん聞いてあんたに何の得がある?」


「別に、聞いてみたいから聞きたいだけですわ。初々しかった頃のあなたはさぞ素晴らしいお話を作っていたのでしょうね」


「ケッ、結局は野次馬根性かよ! ……こんな話、長くて退屈なだけだぞ?」


「いいから、さっさと話しなさいな。以前にも私、あなたに『話を聞かせてください』ってお願いしたでしょう?」


 すっかり立場が逆転し、ヘラゲラスはえくぼを作るレクリナにからかわれてしまう。だが傷心の少女がほんの少しだけ元気を取り戻していることだけはわかった。


(そういえば俺が話術師を目指したのも、誰かの生きる糧になりたいと思ったからだったな)


 レクリナの興味津々な眼差しを受けて、ヘラゲラスははぁ、と一つため息をつく。やがてどっかりとソファーに腰かけると、話術を披露し始めた。

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