孤児院のエルザと新入りの先生【劇中作】

 とある小さな王国の孤児院にエルザという13歳の少女がいました。彼女は母親に捨てられた心の傷のせいで、誰とも関わりを持とうとせず、いつも心を閉ざした不愛想な子供でした。


 事あるごとに反抗的な態度を見せるエルザは、孤児院の老婆の先生たちからも疎まれ、友達も一人もおりませんでした。そして一年後の14歳の誕生日には、彼女は孤児院を出ていかなければなりませんでした。


 そんな折に孤児院には新しい先生が入ってきます。18歳ぐらいの若い女性で、明るくて屈託のない笑顔が似合います。でもときどき過去にあった古臭い歴史のことをお喋りします。50年前の戦争のことや30年前に流行った流行歌など、その若さとは思えぬほど彼女は昔の出来事に詳しかったのです。


 そしてエルザに対してもよくお喋りを持ちかけました。何かと一人でいるエルザを見かけては、長い長い昔話を語り始めるのです。そんな新人の先生をエルザは疎んじていました。何度何度無視しても、しきりに自分にニコニコしながらお節介ばかり焼いてくるのです。やがて痺れを切らしたエルザは、とうとう苛立ちの声を荒げました。


「どうして私にばっかり構うの!?」


 エルザは不思議でなりませんでした。先生は他の子供たちにだって人気があるし、ひねくれ者の自分なんかに何故わざわざ構うのか理解できません。エルザの怒鳴り声を聞くと、先生は少し寂しげな表情を見せました。


「私を忘れないでくれる人がいてほしいから」


 そういうと、いつもお喋りだった先生が口を噤んでしまいます。それ以上の事は何も語ってくれません。エルザは先生の言葉の意味がわかりませんでした。それでもエルザは、先生に少しだけ興味を持ち始めました。



*****



 やがて半年が経ちました。相変わらず先生は、独りぼっちのエルザを見つけては長話をしてきます。ですがその頃には、エルザも少しだけ心を開いていました。ある日エルザは、先生に自分の過去の話を打ち明けます。


「私は5歳の時に、この孤児院の前でお母さんに捨てられたの。お母さんは、もうどこにいるのかもわからない。それでも、私はお母さんから必要とされてないってことだけはわかった。


 ……私は、お母さんのことが嫌い。私を愛してくれなかったお母さんが嫌い。私のことなんて、誰も愛してくれないからみんな嫌い。どうせ私がこの孤児院を出ていったって、私のことなんてきっと誰からも忘れられる。私はもう、永遠に独りぼっちなの……」


 それを聞いた先生は答えます。


「そっか……忘れられるって辛いことだよね」


 そしてエルザの頭を優しく撫でます。


「だったら、私があなたのお母さんになってあげる。私はあなたのこと忘れたりしないから」


 エルザはハッと驚いた顔を上げます。いきなりこの人は何を言ってるのだろう? だんだん疑う気持ちすらも膨れ上がってきました。


「な、何でいきなりそんなこと言うの? あと半年しか私はこの孤児院にいないのに、私のことなんて、先生もすぐ忘れるよ……」


 エルザは信じきれず顔を俯けます。ですが先生は無邪気に答えます。


「その半年でいっぱい思い出を作ればいいんだよ! 私があなたのお母さんになって、忘れられないぐらい一緒に思い出を作るから! ……だから、私のことも忘れないでほしい。二人で一生の思い出を作ろう。……ね、エルザ?」


 ふいに名前を呼ばれ、エルザは顔を赤らめます。なんだか押しつけがましくて、けれどくすぐったい気持ちになります。


 ですが、そんな先生の屈託のない笑顔を見せられると、断りの返事などできませんでした。何より自分の寂しさを隠せるほど、エルザは器用ではありません。おそるおそるコクリと小さく頷くと、やがて二人は握手を交わしました。


 その時から、孤児院で二人の仲睦まじい関係が始まりました。エルザは先生から料理を教えてもらったり、苦手だった勉強を教えてもらったり、そして悪いことをした時は叱られたりもしました。


 いつもいつも、二人は一緒です。まるでそれは、本当の親子のように。やがてエルザは先生にだけ笑顔を見せるようになりました。


 ですがそれからまた半年が経ち、運命の時が訪れます。エルザが孤児院を旅立つ日、二人の別れの時がとうとうやってきたのです。



*****



 エルザが簡素な荷物をまとめて孤児院の扉を開けると、老婆の先生や子供たちは、冷たい視線で彼女を見送りました。


 けれど彼女のお母さんとなった先生だけは違います。先生はそっとエルザの傍まで駆け寄ると、そのままエルザを強く抱きしめました。先生の身体は震えています。エルザは先生が泣いているのだと気づき、エルザ自身も涙が零れてきました。


(私に優しくしてくれる人なんて、きっとこの先もう二度と会えない。私を捨てたお母さんなんかより、私にとって先生は本当のお母さんだった)


 自分の気持ちにやっと気づいた瞬間、エルザは先生を抱きしめ返しました。背中の温もりがエルザの手のひらに伝わってきます。


 でもその時、不思議な違和感を覚えます。先生の身体が、以前よりも一回り小さくなっているような気がしたのです。


「エルザのことを、ずっと忘れない」


 先生が耳元で約束を交わすと、やがてエルザからそっと離れました。



*****



 そして4年の月日が経ちました。エルザは孤児院を出てから一生懸命文字を習い、製本屋で写本の仕事をするようになりました。先生に家事や勉強を教えてもらったおかげで、エルザは一人立ちできるようになったのです。


 それほど稼ぎこそ多くありませんでしたが、それでも彼女は立派な大人になりました。毎日真面目に働いて、文字の勉強も続けます。そして18歳の誕生日を迎えた時、エルザはとうとう決心しました。


〝先生に会いに行こう〟


 自分のお母さんになってくれた先生を忘れたことなど、孤児院を卒業してから一度もありません。


〝会いたい。会いたい!〟


 その気持ちを胸に宿しながら、エルザはずっと夢見てきました。


〝私が大人になったら、先生に会いに行こう〟


 そして今、エルザはすっかり自分自身に自信を持てるようになりました。だから製本屋から少しだけ休暇をもらって、自分が育ってきた孤児院へ訪れます。


(先生はまだ、孤児院にいるのだろうか? それとももう、他の場所に引っ越してしまったのだろうか?)


 期待と不安を抱きながら、エルザは孤児院の扉を叩きます。心臓をドキドキさせながら開かれるのを待つと、そこには見覚えのある老婆の先生たちがいました。皆4年分の歳を取って老けており、けれどそれほど変わり映えはありません。その老婆の先生たちはいつも、不愛想なエルザのことを冷たくあしらっていました。


 そんな過去の嫌な記憶をおくびにも出さないようにしながら、エルザは老婆の先生たちに自分の正体を打ち明けました。


〝私はこの孤児院で育ったエルザです〟


 老婆の先生たちはしばらく顔を見合わせると、ああ、と思い出します。「あの可愛げのなかった子」と声を漏らします。けれど、誰もエルザに関心を示しません。4年ぶりの再会だというのに、まるで赤の他人のように扱われます。


 それでもエルザは、逸る気持ちを抑えながら尋ねます。


〝5年前に新しく入った先生は今どこにいますか?〟


 すると老婆の先生たちはまた顔を見合わせた後、そっけなく視線を横に流します。


 その方角には、子供たちが元気よくはしゃぎ回る姿がありました。廊下をバタバタと走り回り、そしてエルザたちがいる玄関の前までやってきました。


 その子供の群れを見て、エルザははっと目を見開きます。信じられない気持ちで、一人の女の子に視線を吸い込まれました。年齢は12歳ぐらいで、明るくて屈託のない笑顔が似合う女の子でした。誰よりも無邪気であどけない様子で、こちらまで駆け寄ってきます。


 けれどその子は、エルザに勢い余ってぶつかってしまいました。強かに鼻を打つと、途端に笑い声を止め、おずおずとエルザを見上げます。


「……お姉さん、誰?」


 警戒心を露わにした舌足らずな声は、懐かしい声音色でした。その子は先生に瓜二つだったのです。



*****



 別室で先ほど出会った女の子についてエルザが尋ねると、老婆の先生たちは事情を打ち明けました。その子は間違いなく、エルザのお母さんになってくれた先生だったのです。


 エルザは衝撃の事実に椅子の上で固まります。そんな困惑して口を閉ざすエルザに、老婆たちは淡々と話を続けます。すると次々と信じられない事実が明かされたのです。


〝先生は生まれたばかりの頃は老人の姿だった〟

〝歳を取るにつれ若くなっていく、名前もわからない奇病の持ち主だった〟

〝ここ数年はどんどん体も縮んで子供の姿になっていき、やむなくこの孤児院で引き取ることにした〟

〝そして今ではすっかり昔のことも忘れ、どんどん記憶も失われている様子だった〟

〝だからもう、エルザのことも覚えていない〟


 エルザは胸に大砲を撃ち抜かれたように放心しました。その話が本当なら、先生はエルザが孤児院を旅立つ日、二人で誓い合った言葉も忘れてしまったことになります。


『エルザのことを、ずっと忘れない』


 先生はエルザとの約束を破っていたのです。エルザは怒りと悔しさで胸が張り裂けそうになりました。


(あの人はきっと、自分が子供になれば記憶を忘れてしまうことも知ってて、私とあんな約束をしたんだ。あの人は最初から私を裏切っていたんだ!)


 お母さんに捨てられた時の記憶がまた蘇ります。エルザは椅子の上で拳を握りしめたまま、目から涙を溢れさせます。エルザはまたお母さんから見捨てられたのです。先生に対する憎しみすら湧いてきました。


 それでも、その激しい感情の狭間には、先生と孤児院で過ごした思い出ばかりが浮かび上がってきました。ずっと私の傍にいてくれて、何があっても私を離さないでくれた先生。その人の存在が自分の胸の中で膨らみすぎて、記憶の奥にまで温もりが刻まれてしまっていました。


 だからエルザは乱暴に涙を拭き払って、老婆の先生たちにお願いをしました。


「私にあの子を、引き取らせてください」



*****



 孤児院からはすぐに許可が下りました。エルザは先生の手を引いて、孤児院から出ていきます。けれど先生は友達のみんなと別れるのを嫌がって、泣き喚いて暴れます。それでもエルザは強引に手を引っ張って、自分の家まで連れて帰りました。大人と子供の立場が逆転した二人の生活が始まります。


 けれど先生からはすっかり笑顔が消えてしまい、そして不愛想な子供になってしまいました。エルザが先生に何を語りかけても、口を利いてはくれません。


 それでもエルザは先生のことを懸命に世話しました。自分に子供ができたことで、エルザは二人分の生活費を稼がなくてはなりません。だから写本の仕事も人一倍こなすようになりました。食事を作り、家事を教え、先生が悪いことをしたら叱りつけることもありました。


 けれど毎日慣れない子育てに追われたせいで、エルザはすっかり身体が疲れ切ってしまいました。その日も先生が無愛想な態度を見せ、言うことを聞かなかったので叱りつけます。けれど喧嘩は深夜まで続き、やっとのことで先生をベッドに寝かしつけました。


 しばらくすると、先生の閉じた瞼から涙が零れ落ちました。眠ったまま何度も唸り声を上げ、孤児院にいた友達の名前を呟いていました。その姿を見て、エルザは悩み入ります。


(こんな風に先生を孤児院から無理矢理連れてきて、本当によかったの? 私のやってることは、ただの身勝手な自己満足でしかないんじゃないの? ただ自分が寂しかったから、先生の気持ちも考えないでここまで連れてきただけ。先生はもう私のことなんて記憶にすら残っていないのに、私と一緒にいて本当に幸せなの?)


 涙で頬を濡らす先生の寝顔を見ながら、エルザは何度も葛藤します。やがてうつらうつらと瞼が重くなり、先生が眠るベッドの傍らに腕枕しながら眠ってしまいます。


 目が覚めた時には朝になっていました。エルザは壁に掛けられた時計を慌てて見上げます。すぐさま仕事に遅刻してしまったことに気づき、大急ぎでベッドの傍らから飛び起きます。


 けれどその時、両肩から薄くて幅の広いものがハラリと落ちました。床に視線を落とすと、それは先生が眠っていた時に被っていた毛布でした。



*****



 それからまた4年の月日が経ちました。先生はすっかり体が縮んでしまい、5歳ぐらいの幼い子供になっていました。孤児院にいた頃の記憶ももうほとんどありません。友達のことだって忘れてしまっています。


 それでもエルザのことを追いかけまわし、「ママ、ママ」とエルザの足に抱きつき頬ずりをしてきました。エルザはくすぐったい気持ちになりながらも、それでも仕事にいかなければなりません。


 準備をして玄関の前まで行くと、エルザは先生に小指を差し出しました。


「ちゃんとお留守番しててね」


「うん!」


 先生は明るい屈託のない笑顔で、エルザと小指を結びました。そして毎日手を振っては、「いってらっしゃいママ!」とエルザを元気な声で見送りました。


 その愛らしい姿を見る度に、エルザは先生と一緒に過ごしてきた思い出を振り返りました。自分が先生に叱られた記憶も、自分が先生を叱りつけた記憶も、今となってはどちらも大切な思い出です。


 けれどエルザはもう気づいていました。先生の命はもう残り少ないのだと。最近は自分が教えた料理のやり方や、文字の読み書きもすっかり忘れてしまい、先生はもはやエルザの世話がなくては生きられなくなっていました。


 それでもエルザは先生に愛情を注ぎ続けます。


〝先生がずっと私の傍にいてくれたように、私もずっと先生の傍にいよう〟


 ただその一途な思いが、エルザと先生の関係を繋ぎとめていました。



*****



 そして一年の月日が経ちました。先生はすっかり赤ちゃんの姿になっていました。エルザは写本の仕事もやめてしまい、つきっきりで先生の傍にいました。


 先生の体はどんどん弱っていき、高熱さえ出し始めました。医者の見立てによれば、心臓の病気を患っているのだと言います。そしてもう、この病気は治らないだろうと。


 その宣告を聞き、エルザはやはり涙してしまいました。覚悟はしていたはずなのに、いざその時が来たら、全然心の整理なんてできませんでした。


 それでもエルザは涙を拭って先生の世話を続けます。

『一秒でも長く、先生の傍にいたい』

その気持ちが、エルザの大変な介護を支え続けたのです。


(先生はもう私のことなんて覚えていない。先生はもう私のお母さんになってくれない。……それでも、私は先生を愛している。だから私は、最後まで先生と一緒にいたい!)


 エルザは先生の汗ばんだ小さな手を握りしめ、自分の額にそっと近づけます。ベッドの傍らで跪くエルザの脳裡には、先生と一緒に過ごしてきた思い出ばかりが溢れてきました。先生と初めてお喋りした思い出も、先生と抱きしめ合って泣いた思い出も、先生にご飯を作って食べさせてあげた思い出も、全部心の中で宿り続けていました。


 だからずっと、エルザは先生の傍に居続けました。奇跡が起こってほしいと何度も願いました。


 けれど先生はどんどん呼吸を荒くしていき、泣き声すらあげなくなりました。先生の身体は高熱で浮かされ、エルザが握る手も握り返さなくなりました。


 それでもエルザは先生の小さな手のひらを離しません。その時が来るのをひたすら待ち続けました。胸が張り裂けそうなほど辛くても、最期まで先生の傍にいたい。その想いだけがエルザを献身へと突き動かしました。


(私はもう、先生の「ママ」ではないのかもしれない。私が傍にいても、何の意味もないのかもしれない。それでも先生は私にとって、最初で最後にできたお母さんだから。


 だから、祈らせて。私とあなたがお互いに、ずっと忘れられないほど愛し合っていたのだと、最後の時まで信じさせて。


 私は先生と出会えて、本当によかった……先生のお母さんになれて、本当によかった……ッ!)


 その時、先生の唇から吐息のような声が漏れます。消え入りそうな、舌足らずな、3つの発音。


『エ……ル……ザ……』


 ハッとなって顔を上げ、エルザはベッドの先生を見つめました。先生が首を横に傾け、エルザの瞳を見つめ返していました。けれどすぐに瞼は重く閉ざされ、握られていた小さな手のひらが、エルザの手から滑り落ちました。


「お母さんッ!? お母さんッ!!」


 叫びながら先生の胸に耳を当てると、もう心臓の鼓動は聞こえなくなっていました。エルザはベッドに顔を突っ伏し、泣いて、泣いて、泣き叫びました。先生はもう二度と、屈託のない笑顔を見せてくれなくなったのです。


 それでもエルザは、幸せを噛みしめていました。先生が最後に残してくれた言葉が、ずっと胸の奥で響いていました。先生は最期の瞬間まで、約束を守ってくれていたのです。



『エルザのことを、ずっと忘れない』

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