十 夕日、そして愛の証 ①

 昨日は雨降ら師が来た。貝火さんも一応大きな拍手で翁の面の雨降ら師を迎えたものの、ずっと晴れの続く天の国に慣れてしまったせいか、雨を見ると落ち着かない気持ちになるようだ。


「不思議だわ、生きていた頃はいっつも見ていたはずなのに、なんだかそわそわしてくる」


 だんだん地面に溜まってくる雨水を眺めながら、貝火さんは溜息をつく。


「そういうもんですよ。僕だって初めて雨降ら師が来たときには気が沈んでしょうがなくって、一日中寝ていたときもあったんですよ」

「そうだったね。外から呼んでも返事すらしなくって、どれだけ心配したか」

「悪かったって」


 瓶を沈めて飲み物を釣るにはまだ水が溜まり切っていない。僕たちは初めて雨降ら師が来たときと同じようにトランプに興じてみたり、戯れに雨に打たれてみたりする日々だ。

 貝火さんは茶色にタータンチェックの傘を、僕と葉詰は前と同じ透明なビニール傘を選んだ。それを差して雨の中で空を見あげると、雨粒のひとつひとつが連なり、重なり、ひとつの流れが出来上がって他の雨粒を巻き込みながらしたたっていくのが見える。そしてそんな流れすらも、足元の水の中に消えていく。じっとしていると、なんだか切ないような、無常感とでもいうものが、胸の内に溢れてくる。前もこうしているうちに気鬱に悩まされたのだろうか。


「でも、こうして雨をはじく音がするの、好きだわ」


 うん、僕も好きだ。

 貝火さんの真新しい張りのよい傘がぱらぱらと雨音を響かせる。それを聞いていると墨雪のことを思いだした。あいつの番傘はもっと力強い音が出ていた。日々の生活の中で、こうしてふと墨雪のことを思いだすときがあって、懐かしく思う。けれどこういう、“ふと”した時にしか思い出さなくなっているのも感じる。忘れたくない。忘れないと言ったのに、忘れてしまうものなのだろうか。少し気がふさぎ込むのを感じる。

 だめだ、このままでは前回の二の舞だ。いまはただ、この雨を楽しもう。


「貝火さん、僕は酒屋まで行って瓶を借りてこようと思います。もっと雨水が貯まったら、おもしろいことができますから」

「笹目、私も行こうか?」

「うん、ありがとう。じゃあ釣竿も一緒に買ってこようかな」

「いってらっしゃい」


 ざぶざぶざぶ。脛まで溜まった水をかき分けながら大通りを歩く。水の中では星たちがきらきらと泳ぎ回っていて、まるで魚のようだと思った。たとえ空が暗くても、雨雲で覆われているばかりではやはり天に行くつもりも起きないのだろう。


「葉詰、僕、墨雪のこと思い出したよ」

「そうかい」

「でも、思い出したって言うことは忘れていたって言うことになるだろう」

「でも彼は忘れろって言った」

「忘れたくない」

「しょうがないよ、人は忘れるものだから。つらいことも、楽しいことも、いつかは忘れてしまうから」

「……葉詰は、寂しくないか」

「寂しいよ。でも、君が寂しいのがもっと寂しい」

「…………」

「笹目、楽しいと思うことは悪いことじゃないんだ。忘れたくないという思いにとらわれて、寂しい思いをするのは、彼はきっと望んでないよ。だから多分、墨雪も忘れろって言ったんだと思う」

「そうかな」

「私が勝手に代弁できることじゃないけれどね。でも、私だったらそうだと思うから」


 酒屋に着いて瓶を借り、福丸雑貨店で釣竿を買う。雨はまだまだ降り続ける。




 雨が上がった。今回は、何とかふさぎ込むことはなかった。貝火さんも、元気そうに見える。傘屋で借りた屋根船に乗って、僕らは裏の原っぱの上を漕ぎ出だす。


「綺麗だわ」


 そう言って貝火さんは水の中の花を眺める。水の中に入れると教えると、さっそく飛び込んでいった。楽しそうで何よりだ。

 葉詰と二人、舟に揺られながら七日ぶりの日光浴をする。


「やっぱり日の光はいいね」


 そう言う彼の髪はさらさらと風になびいている。そして、僕の髪も。ここしばらくは、顔に落ちてくるのがうっとおしくって後ろで一つにくくっている。ずいぶん伸びたものだ。けれど葉詰は変わらない。


「葉詰……」

「なんだい?」

「どうして僕の髪は伸びるんだろう」

「前にも話していたね」

「うん、忘れていたことを思いだしたら教えてくれるって言ってた。でも、何を忘れているのか分からない」

「うん」

「でも君は。……君は、笹目木塔子に似てると思う」

「……どうしてそう思うんだい」

「わからない。前に夢を見て、そう思ったんだ。ねえ、君は」


 ぷくん、ぷくん。水が空へと帰っていく。


「君は、笹目木塔子なのかい……?」


 遠くで貝火さんが水面に顔を出すのが見えた。


「……笹目。それは夢なんだよ」

「そうなのかな」

「そうだよ」


 あれは、思い出したことじゃあなくって、ただの思い付きなのだろうか。そうだ、葉詰は笹目木塔子に似ているなんて、本当だろうか。僕は、生きていた頃の笹目木塔子のことを何も覚えていない。覚えているのは、列車に向かう長い髪。


「……どうして僕はこんなに必死に笹目木塔子のことを探しているんだろう」

「それも、君が思い出すことだね」

「葉詰は知っているんだろう」

「少しね。でも、君が思い出さないと意味がない」

「意地悪だ」

「意地悪なもんさ」


 ぷくん、ぷくん。ぷくん、ぷくん。水は空へ、花は地へ。僕らは舟を下りる。貝火さんが笑いながら摘み取った花を手にこちらに駆けてくる。笹目木塔子も、あんな風に笑っただろうか。笑っていれば、いいと思う。




 僕と葉詰で駅のホームに行ってみれば、看板に行き先が書かれていた。けれど、それは僕らを不安にさせるものだった。


「『夕日の崖』……」

「夕日、か」


 それは、生まれ変わりの合図。別の線路へと言ってしまった墨雪を見送る西日を思いだす。


「どうする? 貝火さんに言うか?」

「いや。……うん。どうだろう。貝火さんはあの生まれ変わりの夕日について何も知らない訳だし……」


 珍しく、深く悩んだまま結論を口に出さない。


「……葉詰、何も言わないで、一緒に連れて行ってみようか」

「え……」

「ほら、僕らだって何があるか分からないし。それに、何も知らなかった僕だったらとりあえずは行ってみたいと思うし」

「そうだね。うん。そうしよう」


 そうして僕らは長屋に戻って貝火さんを誘うことにした。部屋の戸を叩くと返事が返ってきて、彼女が顔をのぞかせる。

 僕らは駅に新しい場所の名前が書かれていることを告げた。


「夕日の崖?」

「また、何が起きるか分からないですけれど……。『海』みたいなことになるかも知れませんし」

「でもあたし、行ってみたいわ。ここはずっと真昼なんだもの。夕日が見れるのなら行きたいわ」


 貝火さんは無邪気に笑う。彼女は生まれ変わりのことを知ったらどう思うんだろう。もし、僕らのうち誰かが生まれ変わりでいなくなったとして、悲しむのだろうか。笑って見送るのだろうか。分からない。けれど僕らは、墨雪が何も言わなかったのと同じように、言わないでおこうと思った。これはきっと、代償行動だ。墨雪がいないことの悲しみを、墨雪と同じことをすることで晴らそうとしている。

 僕はそれを、葉詰には言わなかったけれど、彼もきっとわかっているだろう。


「じゃあ、行こうか」


 こうして僕らは駅へと向かった。駅への道すがらも、貝火さんは話し続ける。


「夕日が見えるって、とても素晴らしいと思うの。ここはずっといい天気でいいところだし、この間の雨もなんだかんだで楽しかったわ。でもあたし、夕日を見るのとても好きだったの。あたし、きっとその場所気に入ると思うわ」

「そうですか。いい場所だといいですね」


 葉詰は当たり障りのない返事をしている。夕日。僕も、何も知らないまま見ることができたらどれだけ良かっただろう。墨雪は、そこに行ったことがあるんだろうか。あったとして、それは生まれ変わりを知る前だったのか、後だったのか。


「笹目さん?」


 貝火さんに話しかけられてはっとする。また、思考の渦に落ちていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る