八 満月、そして夜の星 ③

 僕の体に取り込んだ星が叫んでいる。嬉しい、楽しい、もっと、もっともっと。星たちはこれが楽しくってしょうがないんだ。僕らも楽しくて声をあげる。もっと、もっと、もっと。

 しかし楽しい時間というのはあっという間で、二度三度と繰り返すごとに星たちの輝きは小さくなっていった。ああ、もう終わりの時間か。そう思うとなんだか寂しかった。僕の中の星も、寂しいと声をあげる。

 最後に地面に落ちたとき、胸の奥から星がそろりと出てきた。口にした時よりは幾分か小さくなった、それでもまだ力強い輝きが僕の周りをくるりと回って離れる。

「ありがとう、楽しかったよ」

 そう呟いたころには星は他のものと紛れて分からなくなってしまった。

「……何でも別れっていうのは寂しいよな」

「星なんて天の国にいくらでもいるだろうがよ」

「うん。でも僕にとっては、あの星が特別な星になったんだ」

「見分けもつかねえのにか?」

「それでも、大切な思い出が僕の中に残ってる」

「……そうかよ」

 そう呟く墨雪の言葉は、やっぱりいつもより変だった。


 ただ静かに空で瞬くようになった星明りの元、僕らは駅舎への道を歩く。

「いいのか? 他に買うもんねえのかよ」

「いまはいいかな。僕は湯滝町で散財しちゃって墨雪に借金してる状態だし」

「私もいまはこのペンとインクだけで十分かな」

「また来たときに楽しむよ」

「そっか」

 そう言ってさっさと歩く墨雪。空にいた星たちも後を追ってくるようだ。天の国にいた時のようにちらちらとまとわりついて道を照らす。列車が来て扉が開いた途端、わっと中へとなだれ込む様子がなんだか愛おしかった。

 席に座れば扉が閉まり、列車が動き始める。来たときよりも柔らかな電球の光の中、僕らはいつものように眠りにつく。起きればいつもの晴天が僕らを向かえるだろう。

 タタンタタン、タタンタタン。列車の揺れが心地よい。

 タタンタタン、タタンタタン。


  +++++


 お母さんが泣いているのが悲しくて、消えてしまえばと言わせてしまったことがつらくて。墨の海に体が沈んでいく。息が苦しくてしょうがない。仕方がない。

 目を開けば教室ではなく、駅のホームだった。気がつけばお母さんもいなくって、墨の海はなくちゃんと両の足で立っている。

 誰もいない駅。いや、違う。葉詰だ。葉詰が僕に背を向けて立っている。

「葉詰」

 思わず駆けだす。と、急に視界がかわる。僕がいたのはホームの端、右足が線路に飛び出していた。

 落ちる。途端に鳴り響く警笛の音。列車が僕に迫る。葉詰はどこだろう。

 

 葉詰が無事なら、それでいい。


  +++++


「……さめ、笹目」

 柔らかい声に起こされた。葉詰の声だ。そっと僕の肩を揺らしている。

「笹目、起きたかい」

 ここはどこだろう。ぼんやりした頭で見渡すと列車の中だった。夜光街から天の国に着いたらしい。

「ああ、起こしてくれたのか、ありがとう」

「笹目、君、どうしたんだい」

「え?」

「泣いているよ」

 自分の顔の紙に手を当ててみると、確かに涙で濡れていた。葉詰がハンカチを差し出して頬の部分にあててくる。

「大丈夫だよ葉詰。墨雪は?」

「扉の所に立ってる。『うっかり地獄まで行っちゃあたまんねえ』って言ってたよ。……笹目、本当に大丈夫かい」

「うん、ちょっと。夢を見てただけだから」

 墨雪を待たせたままでは悪い。自分のハンカチを取り出して顔を拭い、席を立つ。墨雪は扉とホームの間に立っていた。列車が出発しないようにずっと待っていてくれたんだろう。

「遅えよ」

「悪い、墨雪」

「泣いてやんの」

「うるさい」

 軽口をたたきながらホームに降りると扉は閉まり、滑るように走り出した。それを見送る葉詰の姿に、夢の中の光景が重なる。

「葉詰」

「なんだい笹目」

「葉詰は夢を見るか?」

「いや、近ごろはさっぱり見ないね」

「……僕の夢には葉詰が出てくるんだ。それと、多分生きてた頃の夢」

「まあ笹目、部屋に戻ってから話そうか」

 日の当たる方から柔らかな風が吹き抜ける。葉詰の髪が揺れる。僕の髪も。……日の当たる方? ホームには屋根があるから日は当たらないはず。

「笹目」

「葉詰、何か変だ」

 駅の看板を見る「天の国」と書かれているのは間違いない。なのに日が、太陽が、はるか遠くに僕らの目線の少し上で輝いている。いつもは空のてっぺんから動かないのに。おかしい!

「なんで、太陽が……。墨雪、墨雪はっ?」

「笹目、あそこ!」

 葉詰の指さした方を見ると、僕らのいる駅のホームの向かいに、もう一つ線路と駅があった。そっち側のホームに、あの蛍光イエローの、目覚まし時計を首にかけた、ひょっとこ顔の男が立っている。墨雪だ。いつの間にあんなところに行ったのだ?

「墨雪! なにしてる! 戻ってこい!」

 墨雪は何も言わずに立っている。その墨雪の少し離れた所から、誰かが墨雪に近づいて来るのが見えた。黒く長い髪をなびかせた、青い着流しの男。顔に半紙もお面も付けていない神様。ヨキソラノアオシ様だ。神様は墨雪のそばに行くと何か話しているようだった。

「なんで、神様が……」

「それは彼に行くべきところができたからです」

 隣で急に静かな声がした。葉詰も、驚いたようにこっちを見ている。神様が、こっちにも立っているのだ。

「なんで、え? 行くべきところって……」

「ここは列車の終着点。けれどそこで世界が途切れているわけではありません。彼はまた、別の線路へ乗り換えたのです。私たちのいる世界とは、別の世界へ。もう会うことはありません」

 神様は淡々と告げる。その顔は、以前誕生日の宴席で会った時のように柔らかな微笑みを讃えている。

「どういう、ことですか」

 葉詰の声が震えている。

「生まれ変わりです」

「そんな、だって、ずっとここで暮らしている人たちもいるじゃないですか」

「あなたたちが気づいていないだけで、日々ここの住人が増えているように、日々生まれ変わりは行われています。あなたたちが今日気がついたのは、あなたたちが生きていたという記憶を持っているから」

 日がだんだんと沈んでいく。太陽が遠く地平線の彼方から金色の光を放っている。その眩しさに思わず目を細めた。

「笹目さん、葉詰さん」

 神様の声に、また目を開ける。そのほっそりとした眉と切れ長の目がまっすぐこっちを見つめている。

「墨雪さんから伝言です。『もう会えないから借金は帳消し。あとはもう忘れろ』以上です」

 ふざけるなふざけるなふざけるなっ! 最期になって言う言葉がそれか?


 確かにそこにいたのによう、誰にも覚えてもらえなかったら、そりゃ初めっからいないのと同じだと思うか


「忘れるか! 忘れるかよ! なんだよちくしょうっ馬鹿野郎!」

 怒りなのか、悲しみなのか。訳の分からない感情に支配されて頭の中がぐちゃぐちゃになっていく。

「ヨキソラノアオシ様、もう本当に会えないんですか?」

 葉詰が震える声で神様に聞く。神様は少し困ったような、つらいようなそんな顔をしていた。

「さあ、最期のお別れです」

 もう空の色は赤く染まり、完全な夕日の世界だった。墨雪の立つホームを見ると、彼はこっちに向かってお面を外し、へらりと手を振った。

 お面のない彼の顔は、思ったより精悍で、人のよさそうな笑みを浮かべていた。

 向こうの線路から、列車が走る音が聞こえる。列車はホームに入り、墨雪の姿は見えなくなった。そしてまた列車は走り出し、夕日の向こうへと去って行った。ずっと見送っていたはずなのに、気がついたら向かいの駅も、線路も、神様の姿もなく、空はまた青く晴れていた。

 いつも通りの暖かな日差しのはずなのに、なぜか少し冷たく感じた。

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