僕の声を聞いてくれ

文学少女

君へ

 大学に入ってから、僕は、ホールデンの言っていた「インチキ」の意味がよくわかるようになった。男女の塊、上辺だけのうすら寒い会話で構成されている気味の悪い空間を見たとき、これが「インチキ」なんだと感じた。思えば、この世の中は「インチキ」なもので溢れていて、「インチキ」な人間が溢れていて、そしてなにより、この世界でうまく生きるためには、「インチキ」にならなきゃいけない。それは、わかっている。けれど、そんな自分が許せないし、そんな世の中が、僕にはまだ、許せない。

 そんなことを考えながら、僕は煙草を吸う。大学の中で、喫煙所が一番落ち着く場所だった。人の多いところから切り離されて、僕らの存在を隠すようにパーテーションで囲まれ、どこか世間から外れた人しか周りにおらず、輝いている人を見ることがない、この喫煙所という場所が、僕は好きだった。ゆっくりと煙を吸って、吐く。銘柄は、ハイライト・メンソール。好きな小説の主人公が、ずっと吸っていた煙草。白い煙は、ゆるやかに空へと昇ってゆく。空は、鮮やかな群青色に染まり、大きな、真っ白な雲が浮かんでいる。もう、夏になろうとしていた。なんとなく過ごしているうちに、いつの間にか、時間は過ぎていて、季節は巡っていて、周りの人は前に進んでいる。僕は、なんとなく、こんなことをしている場合ではないような気がした。僕はハイライトを灰皿に押し付け、逃げるように喫煙所を出た。イヤホンで耳をふさぎ、ナンバーガールの「透明少女」を流す。世界を遮断して、僕だけの世界に逃げる。

 僕は次の授業がある教室に向かっていたが、教室に近づくごとに、どんどん憂鬱になってゆき、授業を受ける気が削がれていった。いつも通り、授業を受けて、一体何になるんだ? それで僕はどうするんだ? 憂鬱と虚無感で体が重い。僕は反対方向に歩き出した。大学のすべての人から目をそらして、一刻も早くこの空間から逃れたくて、僕は足早にキャンパスを抜け出した。そして、僕は息を整えて、ゆっくりと駅に向かって歩き出した。


 僕は池袋駅で降りた。駅から出ると、高いビル群とあまりに多い雑踏が僕の目に入る。僕はなぜだかその光景を見て吐きそうになった。僕は景色をあまり目に映さないように、音楽の音量を上げて周りの音が聞こえないように、ジュンク堂に向かった。こんな気持ちを慰めてくれる本が欲しかった。ジュンク堂に入ると、すぐにエレベーターに乗って上の階を目指した。三階に行き、新潮文庫や岩波文庫の棚を眺め、僕がなんとなく今欲している本を探した。僕の心を滅多打ちにするような、僕を殺してくれるような、そんな本を。だが、どの本のあらすじを見ても、書き出しを読んでも、読みたくなるような本はなかった。なんとなく、今この世界にはそんな本が存在しないような気がした。このまま、本屋にいても無駄な気がして、僕は下の階に降りて行った。一階には、売り上げ上位の本が陳列されている棚がある。そこにはなぜこんな本を読むのか理解できないような、くだらない本が並べられている。こんなしょうもない本を読んで、一体どうするんだ。なぜこんな本が売れているんだ。僕はこの世界がくだらないように感じて、ひどく憂鬱になった。この世界がどんな世界であるのかを、あの棚が示しているように感じた。僕はジュンク堂を出た。もう用はないのだが、なぜだか家に帰る気にもなれず、喫茶店に行った。


 アイスコーヒーを注文して、ハイライトに火をつけた。リュックから何冊かの本を取り出して、机に置いた。太宰治の「晩年」、「永瀬清子詩集」、カフカの「審判」、僕はハイライトを吸いながら、どの本を読もうかとそれらの本を眺めていた。けれど、なぜだか、どれも読む気が起らなかった。試しに「晩年」を手に取って、読み進めようとしてみるけれど、文章がまったく頭に入って来ず、嫌になって僕は本を閉じた。思いっきり煙を吸って、吐いた。また僕の頭に黒い憂鬱が侵食してきて、頭が重くなってゆく。吸えなくなったハイライトを灰皿に捨て、僕は箱から一本取りだし、火をつけた。文章でも書いて気を晴らそうと、僕はリュックからパソコンを取り出した。電源をつけて、wordを開いて、ここに何かを書きなぐろうと思った。何か小説を書こうと思った。この気持ちを晴らすような小説を。けれど、何も文章が浮かんでこなかった。何かを書こうと考えれば考えるほど、僕の頭の中に、あの、黒い憂鬱が入り込んでくる。頭が重くなってゆく。僕は真っ白なwordの画面を眺めながら、ただハイライトを吸っていた。小説について、僕には漠然とした自信があった。くだらない世の中の小説とは違うと、なんとなく思っていた。だが、僕の書いている小説は、すべて誰かの真似事のような気がしてきて、「僕の文章」というものは存在しないような気がしてきて、結局僕は何も生み出せないような気がして、僕はなんでもないような気がしてきて、一字も書けなくなった。

 周りの話し声が聞こえてくる。くだらない映画の話。くだらない音楽の話。なぜそんなもので満足できるのか、僕は不思議でたまらない。僕はただほんとうに「良い」ものが欲しいだけなんだ。なんの欺瞞も打算もない、純粋に「良い」ものが欲しいだけなんだ。その考えは声にならず、僕は黙って、ただ、ハイライトを吸うだけだった。そうして、時間は過ぎていった。何もしないまま、いや、何もできないまま。


 喫茶店を出ると、もう外は暗くなっていた。僕は歩き出したが、なにをする気にもなれなかった。どこかに寄っていこうとも思えないし、帰ろうとも思えない。ただ、僕は歩くだけだ。目的地はない。音楽を聴こうと思ったが、なんだかそれも嫌になった。僕はこの世界のすべてが嫌になった。この人混みも、この街並みも、好きな音楽も、好きな本も、そして、この自分も、僕は、嫌で嫌でたまらなくなった。どんどん、黒い憂鬱は僕の頭を侵食していく。体が重くなる。莫大な虚無感が僕を襲う。大通りは綺麗に見えても、小さな路地を見れば、道端に吸い殻が溢れていて、結局これがこの世界なのだと思った。クソみたいな世界だ。くたばりやがれ。どいつもこいつもしょうもない。何もかもがくだらない。僕の頭の中を黒い憂鬱が支配していく。僕はとにかくこの憂鬱が嫌で、コンビニで酒を買って、浴びるように飲んだ。アルコールで僕を壊したかった。ただ酔いたくて、この憂鬱が嫌で、僕は酒を飲む。9%の酒を何も考えずに何本か飲めば、がんがんとアルコールが僕の脳をかき乱してゆくのを感じる。脳味噌の中を液体がぐるぐると回っている感覚になり、足がふらついてくる。静かな理性はまだあるが、体は言うことを聞かない。僕はアスファルトの地面に倒れ込む。仰向けになって、ぼんやりとした頭で、ただ夜空を眺めていた。僕は、たまらなく、寂しくなった。通行人は僕をゴミを見るような目で眺めながら通り過ぎていく。


 僕はみじめだ。ほんとうに、僕はみじめだ。僕はさ、思うんだよ。なんて言えばいいのか、僕にはわからないけれど、なんだかうまく、言葉にできないけれど、僕は、みんなに幸せになってほしいんだ。辛くて、頑張っていて、でも報われなくて、苦しくて、そんな君に、僕は幸せになってほしいんだよ。これで伝わるのかな。よくわかんないや。僕も、この言葉ですべてを伝えられているとは思わない。ただただ、みんなに、幸せになってほしいんだ。いや、なんだろう、僕が幸せになりたいんだと思う。幸せに、なりたいよ、僕は。そして、みんなに、幸せになってほしいんだ。


 僕は、そんなことを考えながら、道端で倒れていた。都会の、狭い漆黒の夜空に、たったひとつ、白く輝く美しい星が浮かんでいた。僕はただ、その星を眺めていた。

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僕の声を聞いてくれ 文学少女 @asao22

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