第24話 人慣れと、自意識過剰
今回は職場の話の詰め合わせバージョンである。
自意識過剰が社会に出てから、「え!?そうだったの!?」と驚いたことについて。
いちばん驚いたのは、やはりこれだろう。普通の人間は「喜びや幸せを分かち合う」ことができる。驚愕。
ある日、自意識過剰は職場の近くのコンビニに行った。当選したライブチケットの入金が目的であったが、そこでうっかり職場の方と遭遇してしまったのである。入金内容に間違いがないか、目を凝らしてレシートを見ていた自意識過剰は焦った(そもそも支払い終わった時点で確認するのは手遅れである)。職場の方は笑って「何買ったの?」と悪意なき詮索。どうにでもなれ!とチケットの支払いに来た旨を話すと、「誰のライブ?」と次なる質問が飛んできた。なんで自意識過剰の私生活に興味があるんだと恐怖におののきながら、恐る恐るアーティスト名を告げると「へぇ〜」と首肯。
「私もね、来月行くのよ、○○のライブ!」
ぴかぴかの笑顔で職場の方は語り、「人生には楽しみがないとね」と格言を残して去っていった。
よくわからないけど心があたたかくなった。
たぶん、お互いによく知らないアーティストのライブに行くということが判明しただけの会話だったけど、「楽しみ」の共有は何となくできた気がして。それは自意識過剰だけかもしれないけど。
先日、その職場の方がライブに行ったと話してくれた。楽しそうな様子を見てるだけで、まったく関係のない自分までポジティブな気持ちになるのは不思議だった。どんな因果関係があるのか。
思い返せば、自分にとってライブに行く=後ろめたい方式が成り立っていた。素直に「行ってらっしゃい」や「楽しんでね」と言われたことのない人生、オアシスのない砂漠みたいだな。みんな普通に楽しみを共有して生きているのなら、そりゃ毎日が楽しくもなるよなぁとしみじみ思う。
と、同時に疑問が頭からこびり付いて離れない。
なぜ自分の人生はこうも否定され続けたのか?
理由はなんとなく輪郭をつかめてきた、でも意地でも認めたくない自分と早く認めて楽になりたい自分が絡まっている。堂々巡り。
ずっと「社会とは厳しいものだ」とか「誰も助けてくれない」とか、「自己責任」の4文字をデカデカと掲げて怒られてきた。それが怖くて怖くて、逃げても逃げきれなくて社会という野に足を踏み入れた自意識過剰。でも実際は全然違った。
自分がこれまでいた環境のほうが、よっぽど厳しくて過酷で突き放されていた。
他にも職場の方々には感謝してもしきれない。
お菓子と共に「頑張りすぎてない?」と声をかけてくださったり、失敗したときに「私も前に同じミスしたの。そういうこともあるよ」と慰めてくださったり。
人間もどきにとって、人間社会には驚きばかりだった。それが最近、テレビで見るアレと同じだと薄々気づき始めた。野良猫や保護犬などが人間に飼育され、いわゆる「人慣れ」訓練を行う企画。当初は人に威嚇したり、極度に怯え端に逃げたりする犬猫がやがて順応していく過程を見る。自分は保護する側の人間ではなく、怯え逃げる犬猫の側に感情移入してしまう。
怖くてたまらない、何をされるかわからない。目の前の「なにか」を恐れる気持ちは、嫌というほど味わってきた。
今も恐れは消えない。
これまでに積み重ねた自分の人生には、「自己責任」の4文字がたっぷりと染み込んでいるから。
初めて社会に出たとき、世の中には優しい人がたくさんいて、世界はそれほど厳しくないとわかった。それでも恐れはなくならない。人の怒声や罵声が聞こえれば反射的に体が強ばるし、いつも顔色をうかがってしまう。
でもまぁ、死ぬ間際には「人生、悪くなかったかもな」と言えるような気はしてきた。
少なくとも人間もどきの自分にとっては、それが最大限の褒め言葉であることは確かだ。
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