第2話 悪役転生(2)
さて。
これは、異世界転生の話である。
転生後の物語がスタートしているのに、現代の日本で生きていた普通のサラリーマンのことを、わざわざ振り返って説明するのは、たぶん野暮ってものなんだろう。
誰も、そんな話には興味がない。俺自身だって、積極的に語りたいと思っているわけではないんだ。
トラックに轢かれて死んだのかと訊かれたら、まあ、そうなのさ。異世界転生ならば、それだけの情報があれば十分だろうって? まあ確かに。夢と希望がサンドバッグみたいに詰まった異世界ファンタジーには、現実の話なんてノイズにしかならない。
わかっている。
だから、この一度だけだ。
かつての【俺】について語るのは、この一度だけにしておく。だから、ほんの少しだけ説明することを許してほしい。
あるいは、懺悔するのを許してほしい。
……。
……。
……ただの、平凡な家庭だった。
両親と10歳の俺、8歳の妹による四人家族。金持ちではなく、だからといって貧乏でもない。俺や妹が、勉強やスポーツで漫画みたいな活躍をするわけでもなく、誰かの誕生日は家族全員で祝うのが当然だって、その程度に仲が良いだけの家族だった。
ある夜。
ジュースを飲み過ぎていたので、夜中に目が覚めてしまった10歳の俺は、寝室のある二階から、トイレのある一階に降りていった。
トイレを済ませて、洗面所で手を洗っているときに、なにか変だなと気づいた。廊下で振り返ると、リビングのドアに付いているガラス窓が真っ白である。
なんだろうと思いながら、ドアを開けようとすると、取っ手が熱い。
ドアが開いた次の瞬間には、津波のように分厚い煙が押し寄せた。
もみくちゃにされている気分で、廊下を逃げて、玄関から外に飛び出した。裏庭の方で何かが起きている。キッチンの隅っこにある勝手口のあたりで、たぶん何かが――。ガレージの脇を通って、自転車を押しのけ、家の裏手に行き着いてみれば、林間学校で見たキャンプファイヤーみたいな炎が夜空に伸びていた。
玄関までゼーゼー云いながら走って戻り、お父さんとお母さんと、
でも、玄関の入り口からは、二階に上がるための階段はもう見えなかった。コンクリートの壁みたいな真っ黒の煙が、玄関のドアの代わりみたいに立ち塞がっていたからだ。
10歳の俺は……。
それ以上、進めなかった。
たぶん、黒い煙の中に突っ込んだら、大人でも死ぬ。
進まなかった判断は、客観的には正しいだろう。
それでも。
それでも、だった。
俺は玄関の前で、しばらく立ち止まったままで何も考えられず、一生分の時間を使い果たしたような感覚に襲われた後、我に返った。その途端、全身の血が噴き出したと錯覚するぐらい、涙がザーザーと流れ出して、「ギャー」とか「ワー」とか怪獣みたいに叫びながら、隣の家や向かいのアパートのインターホンを何度も何度も叩きながら走り回った。
10歳で、父親と母親と妹は別れを告げる暇もなく、いなくなった。
それからの日々が不幸だったかと云えば、別にそんなことはない。
10歳の俺は、唯一の身寄りだった父方の祖母に引き取られた。家事を積極的に手伝う孫と、穏やかな祖母の二人暮らしは、春の縁側に延々と寝そべっているような毎日が続いた。
頭が良いと褒められる高校に進んで、部活にも打ち込んで、彼女ができたり、別れたり、もしかしたら漫画に描かれるような青春を送っていたかも知れない。
高校を卒業したら働くつもりだったが、祖母からは大学進学を勧められた。学費は、両親の保険金があるから大丈夫と説得された。
亡き両親に支えられているというセンチメンタリズムで、俺は進学を決めた。国立大学に合格して、やはり人並みにキャンパスライフを楽しみ、グローバルな大企業に就職した。
社会人になった途端、まるで肩の荷が降りたと云わんばかり、祖母が亡くなってしまった。俺は今度こそ天涯孤独の身になったけれど、感傷に浸っている暇もないぐらい、社会人としての毎日は忙しない。
いつの間にか、アラサーと呼ばれる年齢まで足を踏み入れている。
大学時代から付き合っている彼女とは、別れたり戻ったりのグダグダを経て、さすがに結婚という雰囲気も出始めていた。まあ、俺がビビッて結論を先延ばしにするから、小さな喧嘩も増えているけれど。
俺の人生は、不幸なものだろうか?
たぶん、そんなことはない。
どちらかと云えば、幸せに満ちている。10歳の時に起こった不幸にだけ目をつむれば、むしろ、完璧なぐらいに。
だから、やっぱりそうなのだ。
誰のせいでもない。
何かのせいでもない。
俺は、みずから、道を踏み外した。
ある日、見つけた。
SNSで。
俺よりも、ちょっと年上ぐらいの男。
タトゥーを入れたという自撮り写真。社会がどれだけ自分ばかりを悪者にするかというポエム。思想と、自己顕示欲が強そうであることは、いくつかの投稿を見ただけで胸焼けするぐらいに味わうことができた。
少年院に入っていたことを、なぜか自慢として語る。
半生を再現VTRにしたいテレビ局は応相談らしい。
ハッシュタグに、放火、殺人、一家皆殺し。
俺は無意識に、スマホを壁に投げつけていた。しばらく経った後で、スマホを拾い直した。割れた画面を永遠にスクロールしていく。食事を忘れて、代わりに何度かトイレで吐き、投稿内容から居場所のヒントになりそうな情報があればメモにまとめた。
わずかに半日足らずで、居場所は特定できてしまった。
10歳の、あの夜――。
俺は、黒い煙の向こうには踏み込めなかった。
燃え尽きることのなかった、俺の中の何かが。
今度こそ、踏み出すための覚悟を――。
自炊をしないため、家には包丁がない。
買いに出かけるという考えにも至らず、工具箱からトンカチを手にしていた。
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