商業主義者は創作慾求を抱いているか
森下 巻々
(1)
純音楽について考えた。
Yahoo!ニュースとしても掲載されている、小室哲哉さんを取材した記事を見た。それで、その流れで、Yahoo!知恵袋の問答が幾つか僕の視界に入ることとなった。小室さんの音楽作品についての評価が話題となっており、売れるものを作ったという意味ではスゴいでしょうけれどなどと、要は商業主義音楽と批判的に意見されたりしていた。
商業主義であるとは、音楽の話題でときどき目にする言説である。僕は、この言葉の意味がよく分からない。無料で聴けるようにセッティングされている場合を除けば、音楽作品も皆マネタイズされているのであって、それを商業的と呼ぶなら変えることのできない性質をそのまま言っているだけではないか、などと思ってしまう。
例えば、CDをリリースした経費を賄える程度の売り上げを志向して制作する分には商業主義ではない、ということになるのだろうか。よく分からない。
しかし、僕にも、かれらが商業的な成功を志向して音楽作品が制作されることに嫌悪感を覚えていることは、伝わってくる。
もしかして、かれらが求めているのは、文学で言えば純文学ということになるのだろうか。
音楽と文学は異なる点がある。音楽には演奏会というものがある。文学でも音読のパフォーマンスを行おうと思えばできるのだが、意味が異なると思う。文学では印刷された活字の羅列が本来的であるからだ。音楽で純文学に当たるもの(純音楽?)は、クラシック系のコンサートなのだと思う。その様子をレコーディングしたものは別の作品であって本来的ではない。
何を言いたいかというと、音楽の領域内は文学の領域内以上に、大衆的な範囲が占める割合が広いということである。図書館に行けば、かなりの確率で純文学に触れている人に出会えるであろう。しかし、純音楽に触れている人に出会うのはなかなか難しいのである。田舎にクラシック系のコンサートにたびたび行っている人は極くごく僅かだ。多くの人が接することのある音楽というのは、テレビでやっているJ-POPとか歌謡曲。
或る音楽を商業主義と批判する人だって、普段触れている音楽は純音楽ではないのではないだろうか。昔の海外のロック・ミュージックだって、大衆音楽だと思うし。
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