昼妻夜妻
佐々井 サイジ
第1話
分厚い布団の中で体を丸めても一向に寒気が取れない。真冬の雪道を薄手のコートのみで歩いているようだった。とにかく体が震え、パジャマとの摩擦に肌が敏感になっている。カーテンの隙間からはきつくなり始めた光が差し込んで布団に頭を埋めた。布団の中でスマホを見るとすでに外の気温は十五度になっている。室内はエアコンで温めているからより温度は高いはずだった。
布団を蹴り上げて体を起こした途端、頭の中から痛みが弾けるように襲った。裏起毛のパーカーを着て一番上までチャックを止め、浮いているような感覚を伴いながらリビングまで移動して、体温計を脇に挟んだ。電子音が鳴って確認すると三十九度と表示されている。でも会社は休めない。最近、新卒のフォローに時間を割きすぎて、自分の業務が遅れていた。
「ねえ、さすがに休んだ方がいいよ」
僕の異常に気付いた妻の真子に言われた。休めない理由を話しているうちに立っていることが厳しくなってソファーに沈み込んだ。
「ほら、その状態じゃ無理だよ。ぐっと休んで短期間で回復させる方がいいって」
真子の言う通りだった。この状態じゃ仕事できない。僕は課長に連絡を入れ、休みを受け入れられた。
「頼んでたマニュアルって大丈夫か?」
頭にずきんとした痛みが走った。そうだ。二週間前に課長から営業ロープレするための新卒用マニュアルを同期の市井美香と協力して作るように頼まれていた。僕が主導で作っていたわけだがここ一週間は新卒のフォローで手を付けられていなかった。
市井さんに頼むしかない……。とはいえ市井さんとはあまり関わりたくない。
市井はずっとどこかコミュニケーションの齟齬が起こり続けて奇妙な感覚になる。市井さんの言っていることはわからなくはない。でも今それを聞いているのではない、という場面が毎回のようにあった。でも僕はそれを指摘することができなかった。市井さんの目はいつも据わっていた。黒目が小さいのに、いつも僕の目玉の動きを追うように動いている。僕は市井さんと目を合わせるのが怖くなって首元を見るようになったのだが、その度に市井さんは膝を曲げて目を合わせようとしてくる。以来、一緒に仕事をしたとしても極力自分だけでするようになった。
しかし、悠長なことを言っていられない。社用携帯で市井さんの番号を探して着信を入れた。まだ始業の一時間前なのにワンコールもしないうちに呼出音が切れた。
「もしもし江本くんどうしたの具合悪い?」
まるで部屋のどこからかあの目で覗かれているような不気味さが身体中に広がってくる。
「熱が出ちゃって……。課長から頼まれてたマニュアルなんだけど、九割完成してて。今日中に仕上げたかったんだけど、代わりにお願いできないかな」
一応、市井さんとはマニュアルの構成は事前に相談していて、共有フォルダにデータを保存しているから定期的に進捗と内容は確認するようにお願いしていたのだった。
「高熱は大変だよね。マニュアルは任せて。心配」
「申し訳ないね」
「心配、心配」
「まあ明日から土日だし、月曜日には出勤できるようにするよ」
「うん、心配心配」
心配しか発さなくなり、僕が話さないと無言の時間が続いたので、適当なことを言って切り上げた。やっぱり不気味だったけど市井さんがいてくれたおかげでマニュアルは問題なく仕上がりそうだった。
真子は僕の電話中に手を振ったあと謝るようなそぶりを見せて玄関へと向かっていった。スマホが震えて確認すると真子からのメッセージだった。
『ごめん、おかゆつくろうと思ったけど、今日早めに出社しないといけなかったの思い出して何もできなかった。今日は何もしなくていいからゆっくり休んでて』
胸が温まるのと同時にピリピリと苛立ちのような波が生まれた。そこまで心配してくれるなら出勤をギリギリにしておかゆつくってくれたらよかったのに。自分勝手な考えなのは重々わかっているから真子に言うことはない。でもこういう思考回路はどうしても改善できない。
真子には適当に選んだスタンプを送っておいてそのまま近所の内科を検索した。結婚してから病院を頼りにするような体調不良になったのはこれが初めてだ。口コミの良さそうなところを選んで診察予約の電話を掛けた。
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