叶わなかったif-翻訳者のジレンマ-

ラム

通訳者の矜恃

 世界は些細なことから大きく変わることがある。

 もしクレオパトラの鼻が低ければ、アレクサンダー大王が蚊に刺されなければ、ヒトラーが画家になっていれば……そうすれば世界は大きく変わっていた。

 そしてここにも「もし」が叶えば世界を変える男がいた。


「We need to work together to solve the problem」

『我々は協力して問題に取り組む必要があります』

「我們有共同的認識」

『私も共通の認識を持っています』

「I hope for friendly relations with your country」

『そのため貴国との友好関係を望みます』

「我们也一样,我们合作吧」

『私も同じ気持ちです、協力しましょう』


 米中首脳会談は笑顔での握手で幕を閉じた。


「いや、君、ご苦労だったね。君みたいな優秀な通訳がいると会話が捗る」

「勿体ないお言葉感謝いたします、大統領」

「日本人なのに英語のみならず中国語も堪能だからね。貴重な人材だ」

「またお声がけください」


 男は帰宅するとシャワーを浴びる。

 温水を浴びつつ考えたのは今日の首脳会談だった。


(協力しましょう、か……)


 ネイティブ以上に中国語に堪能だからこそ、細かいニュアンスからその意思が薄いことは明白であった。

 しかしそう訳す以外に道はない。

 通訳という仕事は単に言語を置き換えるだけでなく、その背景や文化の違いなども考慮して訳す必要がある。

 Google翻訳などとはわけの違う翻訳が要求されるのだ。

 通訳者にあるべきは完全な伝達。

 自分の意志で内容を曲げるなどあってはならない。


(言語の壁は厚いな……)


 彼は通訳という仕事がいずれ無くなることを、自分の首を絞めるとはいえ望んでいた。

 意思は直接確認し合えるべきだと。

 彼が通訳者になったのには、過去が由来する。

 日本人と中国人のハーフの彼は子供の時から両国が分かりあえない事を疑問視していた。

 それは両親に至ってもそうであった。

 日本人の父親と中国人の母親は幼い時に酷く喧嘩をして別れてしまった。

 その背景にあるのは文化、言語の食い違いであると彼は確信した。


(国が違えど俺たちは同じ人間だ。きっと分かりあえる)


 彼はベッドに入ると、夢も見ない深い眠りにつく。

 翌日、2倍多めに豆を入れたコーヒーを飲み干し、職場へ向かう。


「君、さっそく仕事だ。今度某国の主席と会談することになってね。是非通訳を頼みたい」

「かしこまりました」


 彼が話せるのは日本語、中国語、韓国語、ロシア語と4つの言語に渡る。

 それは彼の優秀さを物語っている。

 しかし某国との首脳会談での通訳はこれが初であった。

 彼はプレッシャーを感じつつ臨む。

 某国の主席は笑顔でこう述べる。


『かの世界の警察と対談出来て光栄です』


 主席は皮肉気にそう言うも、男は大統領にそのまま伝えた。


(この国との対談は極めて貴重で稀有な意義がある。失敗は許されない)


 男の翻訳は完璧で、その意思をほぼ100%伝達した。


『私も光栄です。今日の主題は平和への取り組みについてです』

『平和には我が国も大きく貢献していますよ』

『ですが、国際的な協調体制を我々は期待しています』

『国際的? グローバリゼーションならぬアメリカ二ゼーションでなく?』

『世界の西洋化は確かに進みましたがアジアも頭角を表しています。ですがミサイルの発射などは辞めていただきたい』

『あなたの傘下の島国はいい財布だからそうでしょうね』

『財布ではありません、パートナーです』

『どうだか。あなたの国は軍事力を背景にぶいぶい言わせていますが核はヨーロッパやアメリカだけのものではありませんよ』

『どういう意味です?』

『中国はもちろん、インドやパキスタンも保有していることはご存知でしょう。あなたの首は脅かされていますよ』

『脅しですか?』

『いえ、だからこそ我が国と貴国との協力関係が必要だと思うのです』

『そうですね。タッグを組むことを望んでいます』

『えぇ、ですが条件があります。それは……』


 ここで初めて通訳が止まった。

 その内容があまりにも衝撃的だったからだ。

 もしこれをそのまま伝えたら関係は悪化……いや、戦争すら十分にあり得る。

 それほどまでに某国は理不尽な要求と、背筋の凍る脅しと、血が煮えくり返る侮辱をしたのだ。

 男は1秒間思考する。


(通訳の仕事は完璧にその意思を相手に伝えること。しかしこれを伝えれば世界は……! この国との衝突は大国を招き、やがて第三次世界大戦に発展しかねない。そのために俺が出来ることは──)



 男は躊躇いつつ、こう言った。

 


『……それは、追々話しましょう』

『分かりました。では本日はここまでですね』


 某国の主席は自分が用意した最上級の脅迫を軽くあしらわれ、「何故動じない?」とでも言いたげに茫然としていた。

 こうして首脳会談は終わりを告げる。


「ふう、緊張した。下手したらあの国とは戦争になりかねないからね」

「そうですね……」

「しかし今日は珍しく言い淀んでいたな」

「はは、調子が悪かったもので」

「帰ったらワインでも開けようか。シャンパンは好きかな?」

「……いただきます」


 後日男は突然失踪したとされ、後に変死体として発見された。

 しかし誰も知る由も無いが、男がそのまま翻訳しなかったことで平和は守られた。

 もし男がそのまま翻訳して伝えていれば、世界は大きく異なっていただろう。

 その「もし」が叶わなかったのは幸い以外の何物でも無い。

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叶わなかったif-翻訳者のジレンマ- ラム @ram_25

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