第6話
***
思い返しても自分のやったことに矜持があったとは、今でも思えない。冤罪がかけられたとて弁明できるほどの人間でもなかったのも事実。
ならば全ての罪を背負いせめて家名が潰れることを防いだ。それならば幸運なほどだったと考えた方がいい。
しかしそれでも、反省も後悔も足りていなかったようだと考えてしまう。真後ろから自分を抱きしめ肌を撫でるか匂いを嗅ぐかして勝手にリリーナという人間を堪能してる人間がいる以上は。
「はぁ…」
後頭部やや上から聴こえてくるため息はそれはもう耽美と言えて、何も知らない婦女子の方々が聴いたら黄色い悲鳴が飛んでくる景色が見えるほど…なのだが。
「あぁ…リリーナ…香水なんてつけなくてもいい香りなのに、どうしてあんなものをつけてたの? 照れ隠し?」
「…」
やってることは言葉を返すことさえ、いや関わることさえ躊躇う狂気と言うよりない。相手が質問してこようが返すのを躊躇うのではなくて返したくないと心が言っている。
(香水は照れ隠しではなくてマナーですわ…)
しかし言わなくてもそんな社交常識を知らない男ではあるまいと考えると、むしろ殺意すら湧いてきた。
「でもまだ知らない石鹸の香りが残ってる気がする…牢で出るような粗末な石鹸じゃなくて、リリーナはうちの綺麗な石鹸を使うからすぐ僕と似た香りになるよ」
「知りませんわよ…」
そんなことより解放してほしい。
「え、まって、このままいけばリリーナと僕似た匂いになるの…? それって夫婦…?」
「…」
後ろから聞こえる声はときめいて弾んでいる。恋愛話をする社交デビューの令嬢みたいな態度だがやってるのはもうそんな初々しい時期などとうに過ぎた男だし、発言の中身は変態極まりない。
自分と相手の温度差が恐ろしすぎる。
「考えただけで心臓が爆発しそう。でも肌はとっても良くなったね…すべすべ、柔らかいし綺麗」
うっとりとディードリヒはリリーナが着せられたドレスから伸びる脛を撫でた。また背筋が少しぞわりとしたが、逆らって恐ろしい目に遭うかもしれないとまだ警戒してる自分がいて動けない。
「…」
本当に、恐ろしくてため息が出る。
これだけの状況なのに、用意されている状況以外の全ては断罪前のものにそっくりで。
今着ているドレスも、ここまで着せられたドレスにも言えるが、生地も仕立ても素晴らしいものなのがわかる。デザインはシンプルだし社交向きのものでなく普段使いするようなものだが、最高級と言わざるを得ない絹をふんだんに使い、細やかなレースにフリルも欠かしていない。サイズは寸分違わずぴったりで、ある程度動きやすいよう型紙も余裕を持って作られている。
触れば、着れば全部わかってしまうのだ、特に生地はリリーナが絹をよく好むゆえに。彼女は布が良くないと肌が荒れやすく、投獄前は着ているものに気を使っていた。相手はそれを知っていると言わんばかりにドレスもネグリジェも下着ですら、繊細に加工された絹を使用しているものばかり用意してくる。金額に換算したら一体いくらになってしまうのか、今考えれば目が眩んでしまいそうだ。
ディードリヒの言う通り石鹸やシャンプーも質が良く、毎日メイドをつけて風呂に入れてもらえる。食事は三食、夕食はデザートまでついて、しっかりマナーを求められるコース料理が用意され…本当に、本当に、この状況でなければ夢のようだ。
(監禁生活に変態野郎という組み合わせが悪夢だと思い出させますけれど)
そう思ってしまうと途端に虚しくなってしまうのがいっそ悲しいが、これも王太子の財力がなせる技なのだろう。少なくとも故郷の元許嫁は“国家運営の勉強”と称した個人資産を持ち合わせていたので、似たようなことか、本当に個人で獲得した資産があってもおかしくはない。
なんであれ、本当に恐ろしい限りだ。
見た目も良く立場も確約して、かつての自分のような立場の人間だっているだろうに、なぜ自分はその男が自分の後ろで髪の匂いを吸っているような状況で監禁されているのだろうか。これ以外にもやられていることが大体不快なのも含めて。
数日しか経っていないというのに、なんだかんだ発言を無視しても危険がないことに気づいてしまった自分が憎い。
(こうやって一つ一つ慣れていってしまうのでしょうか…)
遠くを眺めてこの場をやり過ごそうと考えていたら、相手の指が内腿に伸びているのを感じた。一瞬気のせいと思いたかったが、長い指は確実にドレスの裾を捲りながら内腿へ向かっている。
「ひっ!」
思わず声が出て飛び退いた。若干脚が開いていて自衛していなかった自分も悪いが、気持ち悪いし不快でしかないので体が勝手に動く。
その時後ろで「ぐはっ」と声が聞こえた。反応してしまって振り向くと、ディードリヒが鼻を抑えて俯いている。
「…っ」
“自業自得だ”と言いかけてやめた。言って煽ってしまっても怖い。
しかし相手が顔を上げた時、あまりの表情に言葉を失う。
「…っはぁ、最高」
そう最初に言ったディードリヒは、満面の笑みと言ってよかった。
「初めて感じたリリーナの頭蓋の硬さ…思ったより痛くなかったのは体重の問題かな? でもしっかり硬くて人間なんだなって…なんとかして再現できないかな、毎日撫でるのに」
「気持ちわるいですわ…」
もう言葉が抑えられそうにない。
正直言って、ほんの一瞬だけ申し訳ないと思わないこともなかったとは言える。本能的な不快感からくる行動だったとはいえ、他人に頭突きをしてしまうなどとは。
しかし相手の笑顔を見たらもう風が吹いたように吹き飛んで、長い感想のようななにかを聴いて微塵ほども申し訳ないと思えなくなった。
そろそろ精神が恐怖の域を超えてしまいそうとさえ思える。
「リリーナは頭が小さくて可愛いから頭蓋も小さいんだろうな…可愛いな…」
「本人を目の前にして言うことではなくってよ…!」
相手がうっとりと一人の世界に旅立っている間に距離をとった。できうる限り今あの状態の相手に触られたくない。
この場所逃げられないのだとわかっていても、できうる限り距離は取りたいと思ってしまう。
「あぁっ、リリーナ行かないで。大丈夫、大丈夫だから」
「なんですのその犬を宥めるような扱いは!」
「安全だよ、愛してるよ、リリーナが僕を嫌いでも僕はリリーナが大好きだよ」
「嫌いってわかってるならご自身の行動を見直してくださる!?」
「それは無理」
「即答とはどういうことなんですの!?」
絶対に近寄りたくない、リリーナは心の底から感じた。
しかし所詮逃げたところで手錠が外れたわけではなく、鎖を引っ張られてしまえば簡単に捕まってしまう。
「いやぁぁ…!」
結局泣いても叫んでもわかっていても逃げられない。ご満悦な相手に対して無意味な悲鳴しかあげられないでいる。
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