或るぬいぐるみの話
日暮
或るぬいぐるみの話
ここに一体のくまのぬいぐるみがある。
彼(性別不詳ではあるが、この話においては便宜上彼と呼ぶ)こそがこの物語の主役である。
はて、くまのぬいぐるみが主役?と首を傾げた読者もおられた事だろうが、彼には主役足り得る充分な資質があった。
彼には魂が宿っていた。
心が、意識が、感情が、あったのである。
何故かは分からない。気付いた時にはすでに彼の主観は始まっていた。
いずれにせよ、この魂ある彼こそがこの物語の主役である。
彼は愛されて過ごした。
ハンドメイドのぬいぐるみである彼は、作り手から愛情に満ちて作られた。
よく抱きしめられ、どうか愛ある人の元に迎えられるように、と祈られて過ごした。
彼もまた、作り手を愛していた。
いつか、他の誰かの元へ行く。作り手の元を離れて。
寂しかったが、彼の心はそれ以上に夢に満ちていた。
作り手から受け取った愛情を、今度は自分が誰かに渡すのだ。今度は自分が誰かを抱きしめ、愛するのだ。
今は動けなくとも、いつかは動けるようになる。誰かを抱きしめられるようになる。そう信じて疑わなかった。
そして、とうとうその時がやってきた。
ある少女の手に渡る時が来たのである。
少女はとても可愛らしく、そして何より、彼を深く愛した。作り手に勝るとも劣らない愛情だった。
常に彼と行動を共にし、彼を抱きしめて眠った。
少女と彼は、幸福だった。
そして彼が幸福であればあるほど、ますます希望は膨らんだ。
いつか。
いつかきっと。
この手で、少女を抱きしめ返すのだ。
愛を伝えるのだ。
少女が成長し、世界が広がっていっても変わらず幸福だった。
共に過ごす時間は少し短くなってしまったが、少女は広くなった世界でも幸せそうに過ごしていたから、彼もまた、幸福だった。
愛していた。
だが、完璧な幸福も永遠には続くものではない。
その日の少女は違っていた。
幸せそうではなかった。
泣いていたのだ。
広くなった世界で、出会った誰かに傷付けられて。
彼は、今こそ、と思った。
今こそ、慰めるために抱きしめる時だ。
このためにずっとずっと誰かを抱きしめて愛を伝える瞬間を待ち望んできたのだ。
心の底からそう思った。
それなのに。
以前、手足は動かないままで。
以前、思うだけで何も変わらなかった。
どうして。
少女は泣きながら、いつものように彼を抱きしめた。いつものように、いつもより少しだけ、強く。
今この瞬間に抱きしめ返す事が出来なかったら、今までずっと夢見てきたものは何だったのだ。
一体今までの自分は何だったのだ。
少女の腕の中で、何度も彼は反芻した。何度も、何度も。
しかし、現実は願望の切実さを何も映し出さず、少女の涙が枯れるまで彼はただ祈るしか出来なかった。
それからの日々は一変した。
夢は焦燥に、希望は不安に、幸福は地獄になった。
作り手にもらった愛情を、いつかは同じように誰かに差し出せると思っていたのに。
いつか、いつかと願い続け、結局何も変わらなかった。
自分にはもしかして、不可能な願いだったのだろうか。
作り手である人やこの少女とは違い、自分は誰かを抱きしめて安心させる事も出来ないのではないだろうか………。
いいや、そんな事はない。きっと大丈夫だ。そう自分を奮い起こし、いつかやってくるその日を祈り続けた。
祈り続けた。
祈り続けた。
祈り続けた。
祈り続けた。
祈り続けた。
彼にはそれしか出来なかった。
ひたすらに、ひたむきに。
一分一秒も惜しむ事なく、祈り続けた。
祈り続けた。
祈り続けた。
祈り続けた。
祈り続けた。
祈り続けた。
祈り続けた。
時が流れ、いつしか少女と過ごす時間が少なくなっても。
彼はまだ信じていた。信じられなくなりそうになりながら。祈り続けた。
祈り続けた。
祈り続けた。
祈り続けた。
祈り続けた。
祈り続けた。
祈り続けた。
祈り続けた。
以前かつての夢にかすりもしない、手も伸ばせない、そんな地獄の中でも。
信じていた。信じられなくなりそうになりながら。祈り続けた。
やがて残酷なほどの月日が流れた。
かつての少女は、すでに大人になっていた。
かつての少女の愛したくまのぬいぐるみは、原型をかろうじて留めてはいたが、すでにボロボロだった。
何回か修繕が施されはしたが、時の流れに永遠に抗えるものではない。彼女は、いよいよ彼を手放す決意をした。
彼女は、別れを名残惜しむように丁寧に、ベールのような美しい布で彼を包んでいったが、ふと手を止めると、布を開き
最後に、優しく、けれど力強く、彼を抱きしめた。
そして言った。
「ごめんね………捨てる事になっちゃって。私、もうすぐ結婚してこの家も出ていくし、あなたももうこれ以上繕いようがなくて………どうしようも出来なかった」
この言葉を聞いて、その時彼は何を思っただろう。
この言葉に
彼は
心の底から安堵した。そして気の遠くなる程の久方ぶりに、幸福を感じた。
よかった。彼女が幸せで。
彼女はもう、愛する相手を見つけたのだ。
あの頃の、広くなった世界の中で傷付き、怯えていた少女ではないのだ。
もう、自分自身で愛する人を見つける事が出来るのだ。
そして、後悔した。これまでただ彼女に抱きしめ返す事のみを願っていた事を。ただそれのみに時間を費やした事を。
どうせなら、彼女が幸せであれるよう祈り続ければよかった。今思えば、自分はただ抱きしめ返す事だけにこだわりすぎたかもしれない。
彼女がこうして幸せそうであれば、それだけで良いのだから。
少し寂しくはあった。しかし、彼女の幸せと、こうして最後に再び抱きしめてもらえた事。それだけで何と幸福な事だろう。何と満ち足りるのだろう。あの永劫とも思える地獄の日々も報われてゆくようだ。彼は、近く自分に訪れるであろう死もまるで気にならなかった。
どうか彼女がこれから先も幸せであるように。
今はただ、それだけを祈りたかった。死ぬまで。
彼女は。かつての少女は。何も知らない。何も気付かない。
彼の想いに。祈りに。何も。
何も気付かないまま。最後まで気付かないまま。彼を抱きしめていた。
誰も彼の祈りを知らない。
彼は未だに彼女を抱きしめ返す事さえ出来ない。
彼の祈りに報いは与えられない。
現実はどこまでも非情だった。
それなのに——————。
彼は幸せだった。
なぜなのかは、きっと誰にも分からない。彼の祈りそのもののように。
ただ、長く、長く、祈り続けた彼にしか、決して分からない純たる幸福だった。
或るぬいぐるみの話 日暮 @higure_012
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