第4話 屠りて釣り合うもの
カミの図書館の西側、最奥部に突き当たると、壁一面が巨大な一枚の四角いガラスに覆われている。その外には、薄いヴェールのような白い靄に包まれた青い星があった。
部屋の隅、窓の側に腰掛けながら、カミは天球儀を回すように腕を振るった。回転運動が止まると、その球の中心に据えられた場所が徐々に近づいていく。大小さまざまな形をした建物が乱立しているのがわかってくると、そこに群がって見えていたのは大勢の人間だった。
人間は平行に何本も並ぶ白線の手前で、規律正しく静止している。やがて白線の上を行き交っていた大小様々な車輌の方が停止すると、赤いランプは消え、下の緑色のランプが点灯する。それに合わせて、人間はようやく動き出した。焦って走り出す者、親の手に引かれて拙く歩く子供、ゆっくり歩を進める老婆に、会話を弾ませる友人たち、そして、腕を組み微笑み合う恋人たち。緑のランプが点滅し始めると、白線上に残った人間の足は早くなる。そうして再び赤いランプが灯されると、白線の道の上では一瞬の静寂の後にまた車輌が駆けていく。
この窓の外は、太陽世界の景色。他ならぬカミ自身がアヴァタールとして契約している世界である。
カミはまた、腕を大きく振るう。次に景色として現れたのは、暖かい雰囲気の室内で料理を囲む一家の姿。また景色を回しては、降り出した雨をカバンで凌ぐ男、列車を待つ学生、大海にぽつんと浮かぶ船、そして小さな赤子を抱くまだ幼い褐色肌の少女。カミは景色が流れる度に手を止めて、一つ一つ微笑みをあげた。
カミは殆どのアヴァタールたちと同じように、彼自身の世界を愛していた。ただ、他のアヴァタールたちと違うのは、カミは世界に一切の介入もしないということだった。
彼はアストライオスの世界を気に入り、世界の成り立ちから模倣した。そうして、同じく地球が生まれ、人間が出現した。それからというもの、世界を人間の赴くままに任せてきた。そのためか、アストライオスの大陽世界と異なり、魔法や怪異といった超自然的なものが芽生えてこなかった。その一点のみの違いで、二つの世界の細部の仕組みは段々と乖離していった。怪異の御業とも思える現象は、科学の早急な発展により説明され、それでも魔法や空想、思考といった超自然的なもの――目に見えぬものを信じた者たちは作家として本を後天的に生み出した。
カミは自身の世界以上に、人間のことが好きだった。魔法も奇跡もない世界で、それでも自分の頭と手足を頼りにして必死に生きていく人間たち。無力であっても世界を愛し、時には立ち向かおうとしてくる人間のことが無性に愛おしく感じるのだ。カミは天上の世界に住む神々にも、自分の導きがなくとも在り続けてほしい――
窓の外。電子機器を弄る子供の部屋に、目を吊り上げた母親が入ってくる。彼女の怒声をお供に一眠りしようと、目を柔らかく閉じる。そこに、聞き慣れたような甲高い靴音がした。半開きの目で見ると、地球のとある地点にいるはずの母親がそこにいた。カミは思わず飛び上がりそうになる。だが、意識がはっきりしてくると、そこに立っていたのはあの議長の女神だった。
『嬉しいことだ。おまえ直々に迎えに来てくれるとは』
半身を起こして、伏し目がちに呟く。喉元まで出かけた怒りを何とか飲み込んだが、カミの目には不満を隠しきれない顔が写っているのに女神は気が付かなかった。だが、次にはもう呆れ顔で許してしまっているのは、目の前にいないはずのあなたの顔があるからだ。こうやって絆されてしまうのが、カミと対する上で良くないことであると女神は自覚していた。けれども、自制しようと努力してもあなたの前では――正確にはあなた自身ではないのに、どうしても気を許してしまいそうになる。あなたがいてくれれば、どんなに約束を破っても今なら許してあげられるのに――。
「そう、約束。今日の朝、裁判所にお越しくださるお約束でしたよね?アヴァタールを屠る者が脱走し、今も被害が少なからず出ている。非常事態ですよ」
また一歩と近づいて、努めて落ち着いた声音でカミを詰めた。カミの眼が色を失って下に落ちる。女神は慌て視線と体勢を逸らした。カミは意を決したように立ち上がると、指を一つ鳴らした。背景にある地球が速度を保って回り、やがて静止しながら中心に寄っていく。するとある室内の様子が映し出された。そこは無人の法廷のようだった。突然、四方八方の景色を見慣れた仕事場のように変えられた女神は、驚きつつ踊るように辺りを見回した。
『わざわざ裁判所に行く必要はあるか?――ここでしよう。さあ、おまえの訴えを聴かせてほしい』
被告席の方にわざとらしく寄りかかったカミの声色が妙に弾んでいる。いつの間にか弁護席に立たされていた女神だったが、無意識にもゆっくりと検察側の方へと歩みを進めた。
これは貴方を訴えるために起こす、小規模ながら立派な裁判だ。そのことを貴方はわかっているのかしら。女神はまだ伏目がちに閉じられたカミの目を真っ直ぐ見据えた。当然ながら、あなたと同じ色の瞳だ。――私も、ちゃんとわかってる?――スカートの裾をぎゅっと握りしめる。
裁判官のいない法廷が今、開かれた。
「もう皆がわかっています。貴方が彼を生み出した。そうではありませんか?」
彼。突然現れ、アヴァタールたちの命を狙う謎の岩石頭のことだ。彼が現れてからの天上世界は、混沌とした恐怖に満ちていた。彼は牢に囚われているが、未知の力を持った存在が自分たちの元へいつ現れるのかわからない。彼のことを対処できそうなカミは、捕らえたまま放置している。この状況に、誰もがある一つの仮説を立てていた。だがそれは、彼の存在以上に恐ろしく、口に出すのも憚られるようなことだった。だが、女神は違った。女神は彼の捕縛に関わる裁判員として、様々なことを調査してきた。彼に対して取り調べを行うこともあった。そうして、彼が牢から抜け出してしまった今、神々を代表してカミに対して訴えを起こしたのだった。
神々を屠る者を生み出したのはカミである。口に出してしまえばもう後戻りはできない。唇が震える。だが、正義の名の下に、そして彼に倒されたあなたのために。女神は主張を続けた。
「彼は命令に従っているだけだと、何度も主張しています。では、彼を生み出し、命令を下す者は誰か。私からは、恐れながら貴方であると推測します」
『根拠は』
すかさずカミの方から問いかけられる。いつも以上に威圧的な声音だった。
「彼は少ない情報からアヴァタールの弱点を読み取り、そこを突くようです。いとも簡単に神々の弱点を知り、それを突くものを創造し、屠ることができる者。そのような力を与えられるのは、貴方しかおりません」
『――ああ、そうだな』
次は何を言われるだろうか、と身構えた女神だったが、カミはただ一言だけで済ませて微笑んだ。否定もされず、いとも簡単に認められてしまった。震えていた女神の膝からは力が抜けるような心地だった。
「貴方は彼を生み出したことを、お認めですか」
『ああ。だが、彼は必要な存在だ。アヴァタールとその世界を屠ることができるのは彼だけだ。――数多の小さき世界の存続のために、強大なひとつの世界を犠牲にする。言い出したのはおまえたちだぞ』
確かに、あの日の議会で強大な世界の片方を犠牲にすると決めたのは自分たち神々で、カミはその議決の様子を見ていただけだ。だが、議決が出た瞬間に
「けれども、彼は議会前から存在し、アヴァタールたちを屠っていたようですが」
『おまえたちの前に現れる随分以前に、彼を生みつくったからな。それだけ、世界同士の均衡は崩れやすいものだ。彼が完成してからだったか、メティスの提案が出されたのは。私はおまえたちが、彼の存在を受け入れてくれると思っていたが』
飄々とした口ぶりで話すのが、いっそ清々しい。結局、私たちに関係のない所で、カミは
『私は言い訳をしているのではないのだよ、アストライア』
いつしか女神に睨みつけられていたカミは、瞳の光を一瞬だけ煌めかせて、呟くように、諭すように言葉を溢した。
『強大な世界の主が私だとわかれば、彼から私を守ろうとする。可笑しい話ではないか?』
神々を、力無き生物を含めた遍くものを等しく愛するカミが、神々の命を狙う兵器ともいえる存在を生み出した。それこそ可笑しい話である。女神はまた一歩詰め寄ろうと、靴音を冷たく響かせた。
だが、ふいにカミが口元に人差し指を立てると、女神は静止することしかできなかった。ふと、背中の方の窓が一部分だけ景色を変え始めた。裁判官の席がカーテンのように捲れると、仄暗い部屋が写し出される。先ほど、電子機器を夜遅くまでいじって叱られていた子供の部屋だった。子供は電子機器を枕の片隅に、小さく寝息を立てている。その傍らには、母親が座していた。吊り上がった眉の顔は消え失せ、代わりに緩んだ口元を眠る子供の頬に寄せながら頭をゆっくり撫でている。女神はつい我を忘れて安穏な景色に見惚れていたが、やがて景色とカミの横顔を見比べるようにゆっくり観察した。その横顔から見える柔らかな瞳の色に、向こうの母親と同じくらい緩んだ口元。女神は初めて、カミの胸の内を垣間見ることができたような気がした。――ああ、貴方は全てのものを愛している。これは皆、以前から知っている確からしいことだ。
だからこそ――、全てを守るために彼を生み出したとしたら?
女神は脳裏に芽生えたある疑問を投げた。その声は優しく震えていた。
「貴方は、ご自身で犠牲になっても良いと?」
『そうだ』
「貴方は、貴方というアヴァタールを屠るために、彼を生み出した。そうですね?」
今度は答える代わりに何度も首を縦に振った。珍しく声を小さく漏らして笑う。そのどことなく満足そうな顔に、確信を持って問うた女神であっても開いた口が塞がらない。
「けれども、彼は貴方だけではなく他のアヴァタールたちも襲い、犠牲が出ています」
『その理由はわからない。彼は私のみを狙う。そう設計したが、彼は謎の声を聞き、それを命令としてアヴァタールたちを自分の意志で屠っている』
ただ――、女神の視線は続いてカミのその後ろ、窓の景色に移った。写り続けるほの暖かい寝室では、いつの間にか母親のほうも座り込んだまま目を閉じていた。次の言葉や問いを待つようにカミから眺められた女神は、籠りかけた口をやっと開いた。
「もし。もし貴方がいなくなれば。人間も消滅するのですよ」
『そうだな。それにしても珍しい。神であるおまえが人間の心配をしてくれるとは』
「貴方は。貴方はそれで良いのですか」
『良くない。だから、身勝手なことをひとつ言わせてほしい。たとえ私が消えても、私のつくった世界は存続してほしいのだ』
初めて口にされたカミのわがままだった。都合の、虫唾の良い話だな、とカミは微かに笑った。その願いは、アヴァタールたちの誰もが思っているであろう、普遍的なものでもあった。
カミは初めて女神に背を向けた。いつしか法廷は消え失せ、寝室灯の光が漏れる寝室の親子の景色もゆっくり遠ざかっていく。街並みもどんどん遠ざかり、雲の上を、成層圏を超えてやがて丸く大きな青い星が写った。
『アヴァタールの命が消えても、世界が存続する。そのような仕組みも考えたが、これこそ私の世界を犠牲にしなければ叶わないことかもしれない』
カミの表情は女神には見えなかった。けれども、拳が固く握りしめられているのははっきりとわかった。身体が小刻みに震えている。ゆっくりと近づこうとした女神だったが、それを止めるようにカミはまた口を開いた。
『やはり死とは恐ろしいものらしい、アストライア。何かを遺したり、犠牲にしなければならないとしたら尚更だ』
そう、貴方も恐いのね。私たちにはまだ未知数な、死というものが。だからこそ、本当は貴方も死にたくないし、貴方が死ぬことで人間が消えてしまうのも嫌なのだ。女神はカミの本心が少しずつわかってきたが、敢えて口には出さない。ただ、その背中をじっと見つめていた。ほんとうに、憎らしいほどにあなたと同じだ。でも今ではなぜか、目の前の震える背中はあなたのよりも小さく見えた。その背に縋りたくなったが、女神はじっと堪える。室内の静寂に、小刻みに足踏みするヒールの音だけが微かに響いた。
ねぇ。あなたが死を迎えるとき。あなたも、恐かった?
やがて、天上世界にも朝が来たようだった。図書館の各地から、楽しげな顰め声が聞こえてくる。少しの他愛ない会話を交わして、カミと女神はその場で別れることになった。だが、向こうの方から凄まじい剣幕の駆け羽音が近づいてきた。それは女神の部下である天使のものであった。天使の少女は女神を見つけると、焦り顔で訴えかけた。
「大変です、たいへんです。
カミと女神は顔を見合わせた。そのまま、カミはいてもたってもいられないという様子で歩き出した。目をぐるぐるさせて飛び回る天使の腕を、女神は諌めるように取った。
「そう。そうなのね。一度落ち着きなさい。――それで、一体どこにいるの?その情報は誰から?」
「はい。セイン様からの情報です。彼奴は今――」
『セインだと?今、セインと言ったか』
振り向きざまのカミに口を挟まれて、少女は羽根を勢いよく震わせて飛び上がった。
『場所は』
「は、はい。アストライオス様の所におりますです」
カミの足取りがより速くなる。女神は天使に別れを告げて、駆け足でカミを追いかけた。
「アストライオスの世界への介入は不可能なはずでは?」
『ああ。だがあいつはやってのけた。私も向かおう』
辿り着いた先は、先程までいた場所とは反対側、東側の壁。そちらの方にも巨大な窓があり、アストライオスの大陽世界が写し出されている。カミはどこからともなく鍵を一本取り出すと、空中に翳しながら何かを唱えた。女神が瞬きもしないうちに、橙色に燃える結界が現れる。カミは容易く潜り抜けたが、女神を通す前に結界は跡形もなく消え去ってしまった。なんだ、貴方は行けるのね。女神は膝をついたまま、呆然としていた。
『たとえ私が消えても、私のつくった世界は存続してほしいのだ』
カミの言葉を反芻する。もしかしたら、貴方に会うのが最後だったかもしれない。後から追いかけてきた天使の手を借りて、女神はやっと立ち上がる。ヒールの片方が折れて、靴音はもう響かない。
壁も家具も白く、棚には本や小物がわずかに置かれているだけ。そんな無機質な室では、二名がテーブルを囲んで相対していた。一言も発さないお互いの元に、セインが淹れたてのコーヒーを運んでくる。そうして父親と招かれざる客人の前に一つずつ、丁寧に出すよう努めるが、指がどうしても震えてカップと皿が擦れ合う音を止めることができない。ふと視線を感じて客人を見ると、岩石頭の二つの宝石がこちらを向いて煌めいていた。すぐに目を逸らしたが、しばらく動くことができなかった。
「ありがとう、セイン。下がってていいよ」
アストライオスに声をかけられて、セインは逃げるようにその場を去った。それでもどうしても気になって、ドアを少しだけ開けたまま聞き耳を立てた。
コーヒーの香りが、雰囲気を心持ちだけ落ち着かせたようだった。岩石頭がカップを無い口に運ぶ。コーヒーは一口分だけ減っていた。アストライオスの方は、肘をついて相手を見たまま、やっと口を開いた。
「聞いたよ。君、僕たちアヴァタールを殺せるんだって?」
「ああ、簡単なことだ」
「皆、僕かカミのどちらかを君に殺させるって迷ってるみたいだね」
「いらいらすんだよ。太陽世界の方を殺すって決まったと思えば、そのアヴァタールがカミ様々とわかった途端に寄ってたかって邪魔ばっかする。――いっそ、お前をやってやろうか?」
「うん。そのつもりでお前を呼んだんだ」
セインは思わずトレイを落としてしまった。廊下に金属音が響くが、幸いにも岩石頭が台を叩いて立ち上がった音にかき消された。トレイを取ろうとしゃがみ込んだが、どうしても立ち上がることができない。このままでは、父が屠られてしまう。でも、
「言ったな、お前。言質は取ったからな」
後悔するなよ、と言いつつ、岩石頭の容貌はみるみる変化していく。
頭の岩石から下は消え失せ、服のように身を包んでいた布がはらりと落ちた。残った岩石は炎に衣替えして、どんどん膨張していく。辺りのものが燃やし尽くされながら、アストライオスは後退りして壁にぶつかった。止まらない汗と唾を呑み込んで、最後の問いを巨大な恒星に成り果てたものに投げた。命を落とす寸前とは思えないくらいに、穏やかな顔つきをしていた。
「僕が死んだら、人間たちも滅亡する?」
「当たり前だ。世界ごと破滅する」
「良かった。どれだけ頑張っても、人間は湧いて出てくるんだ。いっそ、僕が消えちゃって創り直してもらおうと思ってね。頼んだよ、セイン」
――僕の遺志を継いで――。
炎と煙で見えなくなったドアの方へ最後に目線を移して、アストライオスは満足げに微笑んだ。恒星が目と鼻の先に迫った、その時だった。
白いものが、一筋の流星のように室の中に飛び出してくる。
極限まで膨れた恒星は一瞬のうちに萎み、岩石頭と同じくらいの大きさになった。岩石は速度を得て、アストライオスが立っていたはずの場所に追突してくる。だが、そこにはすでにセインがいた。セインは隕石に身体ごと持っていかれて、溶けた壁の向こう、宇宙空間へと飛ばされていった。
そこに、綺麗な円形の空間からカミが現れた。無重力に任せて何処かへと運ばれて行きそうなセインを、カミはしっかりと受け止めた。焦点の定まらない両目を少しだけ開けて見ると、傷ついた腹部から辛うじて笑い声をあげた。
「と……、とうさん。よかった……」
『何故……何故だ、セイン』
虚な眼をはっと見開いた。極限での直感か、今自分を抱いている腕は父ではなく、カミのものだとわかった。その様々な色が混じった瞳は溢れ出る雫でさらに混沌とし、水滴が顔に落ちてくる。カミも泣くのだ。カミも死が嫌なのだ。今更、気づいてしまった。そして、自分の死を他ならぬカミが嘆いている。その事実が、なぜだかセインには無性に嬉しかった。
「貴方と同じです。人間が、命が愛おしくなった。だから、父を、父の世界を残したい」
セインは懐から紙を二つ取り出して、カミにつかませた。それはカミがセインに託した、若い宇宙飛行士の遺書であった。もう一つは、眠れないまま窓辺で過ごしたあの夜、毛布の中で綴ったセインの日記の一頁だった。お守りとして千切って持っていたものだが、今となっては遺す手紙となってしまった。
「僕は、なぜこんな――手紙を遺すのか、わからなかった。でも、今はわかるような気がします」
それからカミの手紙を掴む手を、そのままコンパスに寄せた。セインの胸の辺りから光が溢れ、足先を見ると徐々に消えていくのがわかった。
「天文学的確率は、ただの数字です」
『そうだ。そうだなセイン。だったら奇跡を起こしてみせろ』
カミはコンパスのあった手首を掴み、祈るように目を閉じた。か細くなっていく鼓動、その奥に赤い光の点滅と、二人の人間の消え入りそうな心音が聴こえる。だが、ついに最後の指先まで消えてしまった。
光を纏った青白い粉がカミの手から零れ落ち、ある文字列を空間に模った。
『Ua-9-196212』
星だらけの小さき世界に現れた二人の人間。彼らの命、遺した手紙から、死を、生を知ることになった天上の者がその命を散らせた。
奇跡を起こしたのは、まさしく彼らの方だったのだ。
宇宙空間上で、カミは無重力に逆らって立ち尽くすように動くことができなかった。そこに、ひとつの影がゆっくりと近づいてきた。すっかり落ち着いて元の岩石頭に戻った彼であったが、カミの傍らに流れ出たワールドコードを見て絞り出すように呟いた。
「こいつ……アヴァタールだったのか?神でもないのに?」
その声は震えていた。カミは初めて岩石頭の存在に気がついたという様子で、声がした方を向いた。だがカミが止めるより早く、彼はワールドコードをなぞって回収した。岩石頭の姿がまたしても変化すると、そこに現れたのは他でもない、セインの世界で眠りについていた若い宇宙飛行士だった。
飛行士はゆっくりと振り向くと、なぜだか驚いた様子でカミを見ていた。だが、次の瞬間には――、
あはははは!
これまでカミでさえも聞いたことのないような、腹の底からの大きな笑い声をあげた。身を捩らせ、目は黒く細まり、口角が吊り上がる。それでも、涙目を大きく見開いたカミから、視線を外すことはなかった。
「やっと……
飛行士は懐から黒々とした銃を取り出し、「451F」と刻まれた弾丸を込める。カミは今度は無重力にその身を任せて、縦横無尽に飛び回る。だが、なぜか銃の照準から外れることが叶わなかった。無重力空間を真っ直ぐ飛ぶ一筋の弾丸はカミに迫りくる。既の所で、カミは回りながら弾を避けた。だが、わずかに足先を掠めてくる。すぐさま広がっていく炎を踏み消すようにしながら、なんとか脱いだ靴を宇宙空間に放った。
それでも軽い火傷を負ってしまったカミは、アストライオスの室があった所へ何とか泳ぐように辿り着くと、床にへたり込む。飛行士はカミの方に近づいて行ったが、敢えて一発だけで止めにしたようだった。銃をカミの鼻先にちらつかせて、何かを思い出したように嘲笑した。
「お前らの世界に、こんな予言があったな。人類歴一九九九年、七の月。空から恐怖の大王が現れる――。あと二十余年ある。それまで待ってやる」
大仰な戦線布告だった。瞬きもせずに自分をじっと見つめるカミの顔を舐め回すように見返すと、軽やかな足取りでその場を後にしたのだった。
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