Saelum 16

 ふたりが町を離れてから数時間が経つ。今のところ、なんの変化もない。カーテンが締め切られた部屋で、クレナは何度目かの溜め息をついた。


(ふたりとも無事かな?)


 付いて行ったところで役に立たないのは重々承知していることだが、こうして待つだけの状況はクレナにとっては苦痛の時間だった。嫌な想像ばかりが浮かんできてしまう。4人の護衛隊カンボーイが行方不明になってしまっている深刻な状況の中、ふたりだけで行かせてしまったのは無謀な選択だったのではないかと思い始めていた。考えれば考えるほど、大きな不安に駆られる。


「大丈夫、ですか?」


 不意に声を掛けられ、クレナは顔を上げた。そこにはリリーの姿があった。


「これ、飲んでください……落ち着くと思います」


 そう言って手渡されたのは温かなハーブティ。香りを嗅いだ瞬間にカモミールだと分かった。


「ありがとう、リリーちゃん」


 アランが淹れてくれたカモミールティを思い出す。


「クレナさん……あの」


 カップに口を付け掛けた時、リリーがクレナの耳元まで顔を寄せた。そして、思いもよらない言葉を囁く。


「ここは危険です。お願いします……それは飲まずに逃げてください」


 もう一度リリーの顔を見ると、恐怖と悲しみの色に染まっていた。


「どうして、そんなこと」


「何も聞かないで……今は早くこの町を出てください」


 急に手を引かれ、カップが床へと落ちる。床に落ちたカップが割れる音を耳にするも、リリーの思わぬ行動で気にしている余裕はなかった。

 しかし、玄関の前まで来たところでリリーの足が止まる。どうしたのだろうとクレナが目を向けると、ドアの前にローマンが立っているのが映った。


「ローマンさん?」


 穏やかな表情でリリーの進むべき道を塞ぐ。


「リリー、外は危ないのに連れ出すなんてダメじゃないか。部屋へ戻って、お茶を作り直しなさい」


「クレナさん! わたしの部屋の窓から逃げて!」


 いきなり叫んだリリーに従い、状況も分からぬまま慌てて後ろへと振り返る。だが、先へは進めなかった。なぜなら、そこには涙を浮かべるイザベラが立っていたからだった。


「ママ、行かせてあげて! きゃっ!」


「リリー!!」


「いっ……あぁっ」


 イザベラの驚愕の声と同時に、リリーの呻き声が耳に届く。クレナはゆっくりローマンの方へと体を向けると、彼は自分の娘の首に腕を回し、力いっぱい締め付けていた。そして、もう片方の手には包丁が握られ、リリーの頬に押し当てられていた。刃の先が皮膚に食い込み、わずかに血が滲み出ている。


「ローマンさん、何してるんですか!! リリーちゃんはあなたの娘なんでしょ!?」


「何をやってるんだ、イザベラ! 早くそいつを捕まえろ!」


 さっきまで穏やかな笑顔を浮かべていたはずのローマンはまるで別人のように豹変していた。


「言うことを聞かないとこいつを殺すぞ!」


「やめてっ!!!!」


「だったらやれっ! イザベラ!!」


 ローマンがそう叫んだ瞬間、頭に強い衝撃が走る。そのままクレナは床へと崩れ倒れた。声も発せられず、視界は暗くなっていく。しかし、微かに聞こえる声にクレナは耳を傾けていた。

 暖炉用の薪を持ったイザベラは泣き叫びながら解放されたリリーにすがり抱きつく。リリーは震えた声で、動かないクレナに向かって何度も“ごめんなさい”と呟いていた。

 それをローマンは鼻で笑い、低い声で言う。


「獲物がやっと手に入ったんだ……簡単に逃がすわけないだろ」


 だが、そこまでしか聞けなかった。朦朧とした意識の中で、クレナは彼らを思う。


(ふたりともごめんね……強くなりたいって言ったのに、大丈夫だって宣言したのに……結局迷惑かけちゃった)


 お願い、無事でいてと、薄れていく意識の中で幾度も繰り返す。だか、長くはもたなかった。


「こいつを地下へ運べ」


 ローマンの命令でイザベラとリリーは恐怖の中クレナを引き摺り運ぶ。


「これで準備は整った……」


 地下室へ向かって運ばれていくクレナを見ながらローマンは満足げに笑った。



  ◇◇◇ ◇◇◇



 その頃、漆黒の森ニーグルでは、緊迫した空気が漂っていた。

 周りを取り囲む敵たち、いつ降ってくるか分からない矢の脅威。途切れない緊張感に、嫌な汗が輪郭を何度も伝っていく。


「アラン!」


 それは同時だった。

 ひとりが雄叫びを上げてこちらへ走り出した途端、悪しき人マームが一気に攻め寄ってきた。それを合図にしてか、頭上からまたも矢が放たれる。


「こいつ等ごと俺たちを消す気かよ!」


「アランは上を!」


 ヨンギは近付く敵目掛け、的確に銃弾を撃ち込んでいく。アランは迫り来る矢に刀を構えた。だが、ふたりで防ぎきれないことは明確だった。もう駄目かもしれないと、諦めの文字が頭を過った時にそれは起こった。あの時と同じように音もなく、降り注ぐ矢が次々と砕け散っていく。その光景に目を奪われていると、森の奥から悪しき人マームの呻き声が聞こえ出した。

 自分たちの他に誰かがいる。そう確信したヨンギが透かさずアランに指示を出す。


「アラン! 一先ず周りを片付けますよ!」


「わ、分かった!」


 ヨンギの声で我に返ったアランは、自分に迫ってきていた敵を刀で素早く切り裂いた。いつもの動きを取り戻したふたりは、無我夢中で敵に立ち向かっていく。また矢が放たれるも、地面に到達する頃にはその役割をなくし、足元に散らばる。気付けば、自分たちを取り囲んでいた敵は半分以下まで減っていた。

 そこでやっと、ひとりの人物がヨンギの目に留まる。黒髪に深いグリーンの瞳を持つ青年。騎兵隊が着るような赤と白の軍服を身に纏い、手には彼の背丈ほどある十字架の形をした剣が握られていた。あどけなさが残る極普通の青年のように見えるが、見た目に騙されてはいけない。剣を振るう動きには一切隙がなく、まるで踊っているようなしなやかさ。たぶんアランと互角か、若しくはその上をいく強さだ。ヨンギにはひと目で彼が何者なのか分かった。


 そして、気付いてしまったんだ。



 自分たちは、間違った選択をしてしまったことに……

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