ヘヴンリー・ガーデン~天界の庭~

石田あやね

第1章【神隠し】

Saelum 01

 ゆっくり目を開けると、柔らかな木漏れ日が降り注いでいるのが映る。眩しさから顔近くまで手を翳し、覚醒しきれていない思考の回復を待った。


(ここは? わたし、どうしたんだっけ?)


 ぼやけていた視界が鮮明になっていくと同時に、ようやく周りの違和感に気付く。どこを見渡しても草木が生い茂り、建物らしきものは一切見当たらず、人の気配すら感じさせない深い森がそこには広がっていた。


(なんで森なんかに居るの?)


 地面に仰向けの状態だった身体をゆっくり起こし、自分の置かれた状況を整理しようと記憶を遡っていく。そして、自分の身に何があったのかを悟った。


「わたし……死んだの?」


 思い出された記憶の断片に、彼女は絶望感を覚えた。もう一度だけ辺りを見渡す。


「だったら、ここは天国?」




 それは数時間前の出来事だった。



 ファッションデザイナーを目指し、この春からアパレル関係の会社へ入社したばかりの新人社員・柚木ゆずき クレナ。それが彼女の名前だ。仕事内容は先輩たちの補助をメインとした雑用。デザイナーの卵が必ず通る道。憧れだった世界を間近で見られるのがとても嬉しかった。


「柚木さん、これ倉庫に戻してくれる? あと、これもお願い!」


 生地のサンプルが大量に詰まった段ボール箱と、新たに持ってくるサンプルリストを手渡される。


「はい、分かりました」


 先輩の指示は時間との戦いだ。遅れが出れば、それだけ作業時間にも支障が出てしまう。早さと正確さを同時に求められる世界。好きなだけではやっていけない仕事だと、誰かが言っていたのを思い出す。確かにその通りだ。

 けど、この仕事に限った話ではない。どんな仕事も憧れや理想だけでは、すぐに挫折してしまうだろう。夢を叶えるのは、そんなに容易くはない。困難と苦悩を繰り返し、それを乗り越えてはじめて夢のスタートラインに立てるのだ。


 この仕事だって、いつ自分が誰からも認められるようなデザイナーになれるかなんて分からないし、絶対になれるという保証もない。もしかしたら、なれないまま終わってしまう可能性だってある。


 ――不安がない訳じゃない。


 だけど、彼女にはこの世界が必要だった。

 逃げ出すという選択肢はない。


「よし、やるぞ!」


 クレナは大量のサンプルが眠る棚の前で、背中まで伸びたライトブラウンの髪をゴムで纏め上げ、気合いを入れるように腕捲りした。


 そして時間は過ぎていき、気付けば時計は夜の十一時を差していた。もちろん、他のスタッフは帰ってしまい誰も残っていない。人気のないオフィスでマネキン相手ににらめっこを決め込む。


「この色がメインだから……」


 自分の考えたデザインを形にできる唯一の時間。このひと時がクレナは好きだった。だが、このまま没頭したら終電を逃しかねない。実際、逃したことが何度かある。それはさすがに避けたかった。


「そろそろ帰らなきゃ」


 一区切りついたところで、ようやく帰り支度を始めた。持って帰る資料を鞄に入れようとした時、あるものが目にとまる。それは一枚の葉書だった。


『同窓会のお知らせ』


 今朝、郵便受けに入っていたのをそのまま鞄に入れてきてしまっていた。それを見つめて、小さく溜め息を漏らす。そっと葉書を戻し、それを隠すように資料を詰め込んだ。

 この葉書を見たときから心が重く沈み、過去の出来事が頭を駆け巡っていた。何年も経っているのに、今もたまに思い出される昔の記憶。それは自分にとって“後悔”という言葉だけが残る。脳内に刻まれた残像は時が経っても消えることなどない。逆に時間が経過していく毎にそれは鮮明さを増していく。


 夜の町並みをゆっくりと歩きながら、星が輝くことのない夜空を見上げる。そのまま歩道橋の階段を上がっていくと、前方から慌ただしく下りてくる人影に気が付いた。


 反射的に横へと避けた時だった。

 履いていたパンプスのヒールがパキッと折れる音が聞こえ、気を取られたクレナは一気にバランスを崩す。体が階段下へと傾いていく。手すりを掴もうにも、その判断は遅く、視界は急激に空へと向けられた。


(落ちる……)


 目は開いたままなのに、視界はぼやけ、最後には暗闇を映し出す。目の前にある世界が一瞬にして消えてなくなった。




 これが、彼女の覚えている最後の記憶。


 生きていたとしたら歩道橋の階段下か、病院のベッドの上のはずだ。しかし、目の前に広がるのは身に覚えのない森の中。


(……本当に死んじゃったの?)


 頭の整理がつかないままクレナは立ち上がり、近くの巨木に手を置いた。恐る恐る足を踏み出そうとした時、背後で草がガサガサと音を立て始める。振り向く寸前、聞き覚えのない男の声が聞こえてきた。


「おい、居たぞ!」


「女の子じゃん。ラッキー」


 後ろを向くと、薄ら笑いを浮かべるふたりの若い男が立っていた。着ている服は何日も洗っていないのかひどく汚れ、所々破けている。そして、ひとりの男の手には折り畳み式のナイフが握られていた。一気に血の気が引くのを感じる。


「大人しくしててね」


 不適な笑みを浮かべたひとりの男がナイフの刃を広げ、じわじわとこちらへと歩み寄ってきた。


(ダメ! 逃げなきゃ!)


 震える足を懸命に動かし、ひたすら前へと走った。男たちが舌打ちし、後を追い掛けてくる。直ぐ様、着ていたジャケットの裾を捕まれるが、それを瞬時に脱ぎ捨てた。


「くそっ!」


「逃げてんじゃねぇーよ!!」


 膝下丈のスカートに、片方ヒールが取れたパンプス。かなり不利な状況。靴だけでも捨てなければと考えたが、それを実行することは出来なかった。地面から浮き出た木の根っこに躓き、体は勢いよく地面に叩きつけられる。


 ーー駄目だ。もう捕まる。


 その言葉がクレナの脳裏に過った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る