ep001.「家出」

 午前10時頃、自宅の公団住宅の部屋を出た。親には他県に部活動の長期合宿に行くと嘘の連絡を伝えて、長い間家を空けることにした。今日は両親とも仕事で帰るのが遅く、ふらっと家出するには絶好の好機だ。無論このまま戻ってくるつもりもまったく無い。携帯の連絡先からまず両親やクラスメイト、そしてかつての友人、親戚と確執のある間柄を一人ずつ消していった。トークアプリのアカウントも削除し、新しく作り直した。


 これで余程のことがない限り、特定もされないし電話もメールも来ないだろう。後は下手な真似をして警察に補導され、連れ戻されなければいいだけの話だ。好きだった街を出ていくのは少し名残惜しいが、一度拗れた人間関係は修復するのに中々時間がかかるし、それに付随するイザコザにも彼女は疲れ果てていた。茉莉が住んでいる公団住宅は眺めが良い高台の上にあるので、その坂の上や付近の緑道にあるパークブリッジから住んでいた赤羽の街を振り返って眺めてみた。


 空は恐ろしいくらいに雲ひとつなく、晴れ渡り、青く澄んでいた―。決心を決めた茉莉は駅に向かって一歩、また一歩と歩き出す。


 駅に入った茉莉は、朝から何も食べていないせいで小腹が空いていた。昔は親によくイトーヨーカドーや商店街の店に連れて行ってもらい、中華料理などをがっつり食べていたりしたものだ。しかし、ある時を境に塞ぎ込むようになり、次第に食に関する興味も失せていき少食気味になった。


とりあえず、駅ビルのコンビニエンスストアで軽食を買ってから出発することにした。食事も長いこと喉を通らなかった時期もあったが、例の女子大生に悩みを打ち明けていくうちに心も軽くなり、コンビニのおにぎりなどは食べられるくらいにはなってきた。スマートフォンのサブスクリプションの音楽アプリで、プレイリストを探し、ブルー・ノートのクラシックJAZZのプレイリストを再生して有線イヤホンを耳に挿す。


何故こんな若い少女が、高校生の女が、クラシックJAZZなんて渋いものを聴くのかと尋ねる人がいるかも知れないが、茉莉は流行りのポップスにはあまり興味はなく、適当に聴き流せるBGMとして、何となく「タイトルがかっこよかったから」という単純な理由で、それを選んだ。


そこには洋楽好きの父の影響も少なからずはあるのだが―。


 黒い髪を肩の上で切りそろえ、前髪はヘアー・アイロンで巻いてウェーブさせている。服装は基本的にベージュのケーブルニットベストが好きだが、ペルー近海で発生したラニーニャ現象が巻き起こした太平洋高気圧と中国大陸のチベット高気圧が季節風にのって運ばれてきたお陰で、今年の夏は大変暑く、とてもじゃないが季節には合うとは言えない。

 

 今日は無地のTシャツの上に薄手のロングシャツを羽織り、下には黒のシアースカート、そして足元にはサンダルを履いている。このコーデが似合っているかどうかはさておき、彼女にとっては人に見せられる、最低限のお洒落のつもりであった。


 茉莉は顔を上げ、店に入る。ツナマヨネーズおにぎりか、いくらのおにぎりか迷って、後者を選択し、その真横に並んでいたヘルシーそうなサンドイッチも手に取り、最後に飲み物を選びに行く。ミネラルの豊富そうな機能性表示食品の麦茶を選んで、バーコード決済アプリで会計を済ませる。


 店を出た茉莉は安神沢あがみさわ方面に向かう列車のホームを目指して小走りする。安神沢までの直通の電車は数年前に廃止されたため、途中の「広野森ひろのもり」という県庁所在地の駅で乗り換えなければいけなくなる。広野森までは湘南新宿ラインで行けるため、そこまでは気にすることはない。


 ホームは夏休み初日ということもあって家族連れや学生、リーマンなどで大変混雑していた。気温は30度を軽く超え、うだるような暑さの中、茉莉ははからずも汗をかいていた。茉莉はショルダーバッグに入れていたまだ未開封の冷感シートのフラップを開けて一枚取り出し、額の汗をぬぐい、ついでに首周りも拭く。ツーンとひんやりとした感触が肌を覆い、痛覚にも似たその感触は気持ちよく感じられた。


 しばらくして逗子方面から来たシルバーの車体にウグイス色とオレンジ色のラインの長い十五両編成の列車が入線してくる。


 駅員が気だるそうな声で「まもなく広野森行き列車、12分発十五両編成で参ります。少しでも空いてるドアからドアご利用お願いします~」と繰り返す。茉莉はレジ袋から取り出したおにぎりを頬張りながら、電車に乗り込む。人は多いものの満員とまではいかず、座席に座れる余裕も若干あったため、ボックス席を選んでその右奥に座った。


 発車時刻になって「高原V1」の軽妙なメロディーが流れ、ホームドアと自動ドアが一緒に閉まり、列車が発進する。茉莉は背もたれに腰を深く預け、麦茶を一口飲んで天井の照明を仰ぎ見る。


 「ああ、やっと私は遠くへ行くんだな」と思うと茉莉は、もう今までの物事から離れられると思い、胸を撫で下ろす。それにしてもジャズのしんみりしたメロディーは飽きが生じてきたため、関連アーティスト欄をスクロールし、ふと目に止まった「ジャコ・パストリアス」をタップし、ディスコグラフィーからアルバム「Word of mouth」を選んで再生する。


先程のとは打って変わってサックスとベースの鳴り響く過激かつアッパーな曲調が、不安を払拭してくれて、心地いい感じがしてきた。電車は下町のネオンや派手な看板が踊る猥雑なビル群の中を抜けていき荒川を越え、埼玉との県境に差し掛かる。川口、浦和、大宮、さいたま新都心と名の知れた郊外の大都市の駅を過ぎていくが、乗客は一向に減る気配はない。


 茉莉は眠気に襲われてウトウトしていたが、手元に握るスマートフォンにメッセージアプリのバイブレーション通知が来て目が醒めた。SNSで連絡を取っている、女子大生の人からだった。眠い目をこすりながら到着時間と待ち合わせ場所を確認してから返信し、頭を窓ガラスに触れるくらい身を預けて、再び眠りに入る。


 大宮あたりまで多かった乗客は、蓮田から白岡、久喜にかけて徐々にまばらになっていく。すっかり寝落ちしていて気が付かなかったが、電車が停車した反動の揺れによって起こされた時には、既に広野森駅に停車していた。


ホームに出て階段を上がり、安神沢行きの電車に乗り換えるために、ラッチ内をキョロキョロ見回す。途中からあんなに少なかった乗客も、流石に新幹線や路面電車の発着する一大ターミナルなだけあって、人で溢れかえっていた。電光掲示板を見上げると安神沢行きの電車は2番線ホームから出ているらしい。夏と人の群れの織り成す熱気で包まれて、どこからか中華料理系の蒸したような匂いが風に乗って流れてくる。後で分かったが、広野森は餃子料理でかなり有名らしい。


 二番線のホームへと降りていった茉莉はベンチに腰掛けて、少しぬるくなった麦茶を一滴口に含む。しばらくして安神沢方面から折り返して来た黄色い車体の三両編成の電車が到着する。さっきまで乗ってきた都会の長大編成の通勤列車と比べたら、雲泥の差とも言うべきくらい、空いていた。掲載してある広告の数も半分にも満たないレベルだ。


 赤いシートの座席の端っこに座り、再びうたた寝に入る。ただでさえ少ない乗客は、駅をひとつ、またひとつ過ぎていくたびにみるみる減っていく。電車は遠くに山々を望む田園地帯や住宅地を抜けていき、終点の安神沢へと向かっていく。列車の運転はお世辞にも丁寧とは言えない乱暴かつ粗雑な運転で激しく揺れているが、本格的な眠りに入った茉莉は微動だにしていない。乗客は安神沢駅の二駅手前で大半が降りていき、やがて数える程しかいなくなった。


 そして電車は安神沢に到着する。アナウンスが車内に流れる。


「安神沢、終点安神沢です。今度の広野森行きは一番線ホーム、13:08分発です。東北方面、新白河行きは三番線でお乗り換えです。」


 アナウンスと共に入ってきた車掌に揺すり起こされ、茉莉は慌てて改札を通る。ホームからは山口百恵の「秋桜」をインストゥルメンタルアレンジした短い発車メロディが響き渡っている。


「やっと来た。ここが安神沢か...」





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