ある夏の日のジュブナイル

@hawk_ichiro

ある夏の日のジュブナイル

 窓から差し込む夏色の日差し。そよ風に微かに揺らぐカーテン。

 

 セミの声。



 不思議な気分だった。


 校庭を走り回るいくつかの人影や、廊下を響き渡る管楽器の音色。それらは、世界に彼ら以外の人たちが存在することの確かな証拠なのだが、彼には今この教室 ―彼と、彼女以外に誰もいないこの教室― だけが全てであるように感じた。それ以外のものは、この教室と校庭、あるいはこの教室と廊下とを隔てて存在する、無限の距離の間に引き延ばされ、何処か掴みどころの無い背景として、陽炎かげろうのごとくただゆらゆらと漂うばかりだった。


 不思議な気分だった。


 彼の目の前には彼女がいて、彼女の目の前には彼がいた。彼は思った。こんな気持ちになるのは、きっと、この人のせいなんだと。





 

 「さっさと勉強始めたら?一体何しに来たの?」


 穏やかな静寂を破ったのは、予想外に辛辣な彼女の一言だった。てっきりこれから、青春ドラマのワンシーンみたいな甘い一時を過ごせるに違いないと確信していた彼は、思わず面食らって返答に窮した。

 黒くつぶらな瞳が、真っ直ぐにこちらを見据えている。柔らかに肩を撫でて真っ直ぐ降りていく彼女の長い髪が、何時にも増して際立って見えた。

 明らかに、彼女は不機嫌だった。


 「いや勉強は…もちろんするけどさ…。えっと、でもまだ来たばっかで時間はたっぷり…」


しどろもどろになって咄嗟に思い付いた適当な言い訳を並べながら、彼女の眉間にじりじりと皺が寄っていくのを彼は見た。

 彼は慌てた。


「ちょっと、冗談だよ冗談。あんまりかっかしないでよ。せっかくの夏休みじゃんか。楽しくやろーよ」


 彼女の表情が一層険しさを増した。ああ、またやってしまった。瞬時にそう悟った。彼女をなだめるつもりだったが、彼女の反応を見るまでもなく、そのやり方を大きく間違えたのだということはすぐに分かった。悪い癖が出た。この苦みはこれまでの人生でもう何度も何度も味わってきたものだ。


「はぁ、呆れた。」


彼女は大げさなため息を一つ吐いて、そっぽを向いた。窓の外に目を遣って、遠く遠く、ここではないどこかを、見ている。彼女の横顔は、陽光の中にその輪郭が溶け込んでいってしまいそうなくらい、儚い。



 「いいよね、自頭良いやつはさ」


彼女は横を向いたまま独り言のように呟いた。彼女の長く黒い髪だけが、風に吹かれて静かに揺れている。


「え、何の話?」


 それから少し間が開いて、彼女は訥々とつとつと語りだした。視線は未だ、はるか遠くを見つめている。


晃輝こうきを見てると私、何だか虚しい気持ちになる。もう高三の夏だっていうのに、あんたは相変わらず能天気でさ…。私は毎日不安だよ。私が休んでる間にも必死に勉強してる人がいるんだって考えたら、夜寝ることさえ恐くなってくる。ま、晃輝には分からないだろうけどさ」


「えーと、うん、分かるよ。俺も―」


「いや、分からないよ。晃輝には」


遮るようにそう言って、ようやくこちらを向いた彼女の表情は、晃輝が思っているよりはずっと穏やかなものだった。彼女は怒ってはいない。しかしその瞳に映る色は、底の見えない悲しみを映し出している。


「自分では気付いてないのかもしれないけど、少なくとも周りから見たあんたはやつなの。みんなが必死こいてあくせくしてる横でいつも涼しい顔しててさ、そんで最後には全部搔っ攫っていく。昔からずっとそうだった。今だって、ありありと目に浮かぶよ。半年後に、合格して喜んでるあんたの横顔見ながら、泣いてる自分がさ…」


「そんなことないって。かおるは絶対受かる」反射的にそう言いかけて、直前で飲み込んだ。もし口に出していたら、自分のことをもっと嫌いになっていただろう。しかしその言葉が逆効果であることが分かるくらいには、晃輝は薫と長い長い時間を共にしてきた。


 彼女は深くうつむいて、弱々しいため息を吐いた。


「はぁ…何でかな。何で私だけこんな不安なんだろ。…晃輝は、一緒には背負ってくれないんだね」


今までに聞いたことがないくらい、か細い声だった。その声を聞いた瞬間、晃輝はもう頭の中が真っ白になってしまって、祈るようにただ謝罪の言葉を繰り返すしかなかった。


「ごめん…!ごめん…!」


晃輝はぎゅっときつく目を閉じていたから、彼女が涙を流しているかどうかは分からなかった。もちろん自分でも情けない男だとは思ったが、彼女が泣いてるところなんて万が一にも見たくなかった。無自覚の内に誰かを傷つけてしまうのは、もうたくさんだと思った。


 「フフッ…。あー、スッキリした!」


…それが彼女の口から発せられた言葉だということを理解するのには、しばらく時間がかかった。晃輝が意を決して恐る恐る目を開けると、そこには晴れ晴れとした表情で思い切り伸びをする彼女の姿があった。晃輝は驚きのあまりすっかり全身の力が抜けてしまって、思わず間の抜けた声が口から漏れた。


「はぁ?」


「いやー、一度全部吐き出してみるもんだね弱音ってのは。何かごめんね。結構真に受けちゃったみたいで…フフフ。あ、あと色々反応に困ってたみたいだけど、こういう場合の正解はただ黙って話を聞くこと。悪役に徹すればいいの。そしたらその内こっちの気は晴れるから。中途半端な共感や憐みは逆効果。分かった?フッ…フフフ」


晃輝はもはや開いた口が塞がらなかった。彼女はそんな晃輝を見て益々楽しそうに笑った。彼女はひとしきり笑い終えた後、大げさに体の前で手を叩いてみせた。


「よし、じゃあ勉強再開しよっか。話聞いてくれてありがと」


彼女はそう言って机の上の参考書に目線を戻し、ペンを走らせ始める。晃輝は自分が筆記用具すら取り出していなかったことに気が付いて、慌てて床に置いてあったリュックを手繰り寄せた。


「あ、言っとくけどさっき言ったのは一応全部本音ではあるから。ちゃんとサボらずやってよね」


「あ、はい…」


 そうしてようやく彼はペンを手に取って、勉強を始める。紙をめくる乾いた音と、心地よいシャープペンシルのリズム。廊下から響く管楽器の音色が、この教室を再び世界の中に迎え入れるかのように、ゆっくりとその存在感を増していく。

 




 窓の外では、セミたちが思い出したように鳴き始める。




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