タクシー

衣谷 一

タクシー

「うぉ! っぶねぇなぁ! ふざけんなぁっ!」

 けたたましくクラクションを鳴らすと、バックミラー越しに後ろを見やる。後部座席にはやや青白く無表情の顔。

「すみませんねぇ、お客さん。急に飛び出してきたもんで」

 見通しの悪い交差点から急発進した車は、すんでのところでぶつからず、何事もなかったかのように走り去っている。

 客は気にしていないのか、恐怖で固まっているのか、とくに反応はなかった。視線を前方に移すと、気を取り直して目的地に向かう。


 タクシーを始めたのは、以前働いていた職場が倒産したからだ。それまでは電車通勤であったが、失職したことを告げられた帰りの途上、駅のホームでふと敷かれたレールを外れたくなったのだ。思えば、自宅と職場との往復の毎日。気楽な独り者だが、趣味もないから寄り道の必要もない。たまに駅前の居酒屋で一杯やるのが楽しみであった。来る日も来る日も決まった時間に決まった往復。これは列車と同じではないか。職場が変われば別の場所に往復するだけである。どうすればレールから逃れられるのか。

 あれこれ考えるが、たいていの仕事は形を変えたレールに見えた。レールが悪いというわけでもなかろうが、せっかくレールを外れる決意をしたのだ。軌道上を滑ることは避けたい。駅から家へ歩いていると、ふとタクシー会社の電柱看板が見えた。ふむ、タクシーを自分が使ったことはほとんどないが、駅で見かける多彩な服装の乗客の行き先は多様そうである。酔った客やガラの悪い客は御免だが、乗せている間だけの我慢といえば、なんとかなりそうだ。すぐにスマホでそのタクシー会社の番号を調べ、電話してみた。

 求職を受け付けているだろうかと心配したが、話はすぐに通った。よほど人材不足なのだろうか。どうやら研修期間中に二種免許というものを取るようだ。普通免許取得後3年経過していなければならないそうだが、これは問題ない。ペーパードライバーでも取れるときに取っておくものだ。話はとんとん拍子に進み、面接の予定を確認して通話を切った。

 家に着くと、クローゼットでスーツを確かめる。これまでの仕事は制服だったため、スーツでの出勤は不要であった。虫食いが心配であったが問題なさそうだ。面接など何年ぶりだろうか。古ぼけた記憶から、前職となった職場の面接を振り返る。いわゆる就職氷河期の採用であったが、待遇に不満はなかった。唯一の見込み違いは、倒産してしまったことだろう。幸い、退職金が出るので当面の生活に不安はない。

 数日後、晴れてタクシー会社に採用された私は、無事にその後の研修を終えて運転手デビューを果たした。その初めての客を乗せて走り出したところで、脇から飛び出した車に衝突されそうになったのである。


「お客さん、ところでどこまででしたっけ?」

 バックミラー越しに視線を送ると、今度は反応があった。

「……まで」

「ん? なんですか?」

「……まで」

「うーん・・と。ちょっと聞いたことがないなぁ。そんな場所ありましたっけ? あのぅ……。申し訳ないですが、道の指示を出していただけますか? 近くまで行けばわかると思うんで」

「………次の角で右………」

 おっと通り過ぎそうだった。ハンドルを急いで切る。なんだかいけ好かない陰気な客だ。初日からついてないよまったく。

 そんなことを思いながら信号で停車すると、今度は後ろの車が急接近。

「おーい……おい…おい! おい!」

 バックミラーいっぱいに車のヘッドライトが映る。ハンドルを握りしめる。衝撃を予想して目を閉じ、手に力を込める。だめだっ! ………衝…撃…が………あれ………?

 恐る恐るミラーを見やると、後ろの車は寸前のところで止まっている。はっきりとはわからないが、数センチくらいしか余裕がないのではないか。大きく息を吐き、そして胸いっぱいに吸い込む。

「お…お客さん、いま、危なかったですよ」

 後ろの客は、前を向いたまま、とくに慌てた様子はない。

「……………」

「いまの気付きました? 後ろの車がギリギリまで迫ってたんですよ。いやーっ、危なかった」

 後部座席からの反応はない。が、安心感からか、危機を同じ空間で乗り切ったせいなのか、饒舌になる。

「いやぁ、実はね。今日、お客さんが初めてなんですよ。いや、今日乗せたのがじゃなくて、タクシー初めて最初に乗せたのがお客さんなんですよ。最初から二度も危ない目に遭うなんて、ついてないなぁ。や、どっちも事故になんなかったから、ついてんですかね。いやー、年甲斐もなくドキドキしちゃいましたよ。吊り橋効果っていうんですかね。なんだかお客さんに親近感が……」

「青」

 目の前を見ると、信号が変わっていた。前の車が動き出すと同時にブレーキを緩め、アクセルをゆっくりと踏む。危ない時ほど安全運転。研修でも散々言われたことだ。

「お客さん、急いでます? 時間大丈夫かなぁ」

「……………」

「いいんですか?」

「……………」

「ま、大丈夫ってことでいいですかね。最初なんで、安全運転で行きますんで、ちょっと時間かかるかもしれませんが、急ぐようなら言ってくださいよ」

 後ろに向いていた意識を前面に全集中。いや、全集中したらだめか。

「………て、うぉい!」

 横からボールが飛び出す。突然時間がゆっくりと進む。出てくるなよ……出てくるなよ…………出たっ! 小さな子供が脇から視界に入る。ブレーキを踏み込む。シートベルトが食い込む。ハンドルに力を込める。ぐいっと右側に切る。右足は全力の踏み込みだ。左足は……とりあえず踏ん張る! 対向車線は幸い車通りが少ない。なんとか躱せる。いや、躱す。………間に合わない。だめだ!

 うわっとつい目を閉じたが、衝撃は来ない。なんとか躱したのか。恐る恐るサイドミラーを見ると、母親らしき女性が子供を抱いているのが見えた。どうやら無事なようだ。勤務初日から人身事故なんて洒落にならんぞ……まったく。

「お客さん、危なかったっすね」

「……………」

「子供、気をつけなきゃいけませんね」

 緊張がとけたせいか、ついへらへらする。

「……………左……………」

「はーい」

 指示通りに走らせていくと、見慣れない景色になってきた。

「へー、このあたりでは見かけない通りですねぇ。お客さん、珍しいところ行くんすね」

「……………」

 初めての景色はなんだか高揚する。前職の変わりばえしない景色の往復と比べると、ほんとうにこの仕事を選んで良かった。いや、変わりばえのない景色と思っていたのは自分だけなのかもしれない。車窓から外を眺めたことは稀だ。いつも車内広告を見ていたような気がする。体はレールに載り、目は商業主義にとらわれていたのか。窓の外には毎日変化があったのかもなぁ。

「お客さん。お客さんに言うのもなんだけど、お客さん乗せて良かったですよ。自分が住んでた町にこんな景色があったなんて、今日まで知りませんでしたよ。この歳まで、昨日と同じ今日、今日と同じ明日だと思ってたんだがね。見知らぬ景色ってあるんですねぇ」

「……………ここ……………」

 おっといけねぇ。通り過ぎるとこだった。急いで、しかしソフトにブレーキを踏む。

「はーいお待たせしましたぁ。えーと、いくらかなぁ」

 メーターを見ると、ゼロが四つ点滅している。ん? こんな表示あったっけか? 研修では何度もメーターの操作を習ったんだがなぁ。壊れたのか?

 すると後部座席の仏頂面は、自分でドアを開けて外に踏み出す。

「お、お客さん、勝手に降りちゃだめだよ! せめて支払いしてからにしてくれ」

 すると客は硬貨六枚をすっと差し出す。それは見慣れない硬貨だが、なぜかそのことは気にならなかった。

「お客さん、これじゃ足りないと思うよ。メーターがおかしいからわかんないけど……。やだなぁ、会社で怒られちゃうなぁ」

「……これでいい。そう決まってる……」

 タクシーを降りた客は、そういうと、すぅぅーっと薄くなり、見えなくなった。

「あれ? お客さん? お客さん! どうしたのかなぁ。まぁいいや。変な客だったけど、酔っぱらい乗せるより楽だったもんなぁ。しっかし初日に何度も危ないめに遭うなんてついてねぇよ。でもまぁまだ始まったばかり。次の客を探すか。とりあえず駅だな」

 気を取り直してタクシーを走らせる。メーターは点滅したままだ。怒られるかなぁ。一度会社に戻るべきか。


 ………つぎのニュースです。先月の製薬会社のガス漏れ事故で意識不明の重体となっていた男性が、入院先の病院で意識を取り戻しました。事故当時、現場に最も近い場所にいた職員が回復したことで、事故の全容解明が期待されます。捜査関係者によりますと、男性は「メーターが壊れていた。点滅を繰り返していた」と述べており、警察は事故との関連を調べています………

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