第5話 サッカーです。

空気とか常識とか、とにかくその辺を考慮せず空気の読めない書き込みをします。どうか宜しくお願い致します。


あとこれは、今の人類の文化でとても経済効果の高いサッカーというスポーツの抱える問題の中で、特にこれは無視できないレベルのものになっちょるんじゃなかろうかと自分で勝手にそう睨んでいる。その辺に関してとりあえず好き勝手に書きます。そして無礼を承知で参ります。いざ尋常に申し上げますと──


『次のメッシと期待された選手たちがことごとく、メッシに追い付けなかった理由』


ネクスト・メッシ。


ちなみにメッシという選手は、サッカーが好きという人類の全てが知る、偉大なサッカー選手です。そして好きな食べ物は「ミラネッサ」だと、私の知る限りでは認識しております。※ミラネッサ──アルゼンチンへ渡ってきたイタリアの移民が作ったビーフカツ。もっとも、アルゼンチンでは牛肉に限らず様々な食材が用いられているようです。


あと2024年現在でメッシ選手は、アメリカ合衆国のマイアミというチームでプレーしています。


サッカー星から来たサッカー星人なんじゃないかと噂されるくらい、凄いサッカーをする。そんなメッシ選手と、次代のメッシと期待された選手たちとの対比を、私なりに書いてみようと思います。


そして単刀直入に主題に入ります。単純にいってしまうと「腰が固い」のが原因です。身も蓋もない話ですが、ネクスト・メッシと称されたどの選手の腰も、常識の範囲内に留まった機能性の状態で活動してしまっている。腰が固い。活かしきれていない。もったいない。というのが結論です。


とはいえ現代社会の価値観と照らし合わせると。人類の想定した価値観の中では十分に、次代のメッシ候補である選手たちのフィジカルは優れたものです。でも違う。


そうじゃないという話。


物理法則に支持されたこの世界は、努力といった人の理念をはね除ける様なところのある残酷な環境です。


我々人類の肉体の持つ生体機能の上限と照らし合わせて、活かしきれていないという場合。それをこれでもかと覚えさせる、鬼のような環境です。


そこへ、変なところに「枠」を設けているという認知の状態で範囲を越えない。サッカーというカテゴリーの範囲内でどれだけ自由になるかを争っている中で、制限されてしまっている。そうなると、常識的な稼働しか実現しようがない。


もうなんていうか、社会常識的な都合と自分の肉体のポテンシャルという都合で、条件が食い違ってしまっている。取り扱い説明書の無いオンラインゲームで、後から訳の分からんゲーム設定でダメ出しされる。そんくらいの理不尽さを覚えます。


とにもかくにも、努力と根性を越えないといけない。ある種のゲームソフトのようなクソゲーです。リアリティに片寄りすぎて、参加する側の気持ちに寄り添えない。『屍を越えて行け』方式のクソゲーです。


人生は一度きりだというのに……。


まあいっても仕方ない話ですがね。パッチとか入らないんですかね?


そんなわけで潜在的な認知が制限されている。生態的な認識が追い付かない。それで齟齬が起きているので、選手たちのパフォーマンスもそれに見合ったものになっている。社会性、状況、物理法則、エトセトラ。


不自由な社会性。中学校の頃の、思春期とその歳までに覚えた偏見で、自我が大変な事になっているクラスメイトを想像してしまう。


ネクスト・メッシ? 本人たちからしてみれば「どうしろっちゅうねん!」という話でしょう。


刻印を押されて、それに付随する社会的な生理的反射が起きた以上、少なからず情報として邪魔になる。


この場合の社会性は、動物的な欲求が優先されるので、哺乳類の自分の肉体に巻き込まれる以外の選択肢が起こりにくい。よっぽど理性が発達している人間でない限り、難しい。


なおかつ、人類の特殊な社会常識が多様性という形で(善かれと足を引っ張る)害になるものだから、控えめにいってタチが悪い。


「現実を見ようね?」生体力学的に、あるいは物理学的に、現実をある程度の範囲内でしか捉えられてない人が情緒と痴呆という開放的な出力によって、制限された想像力の中で、呼び掛けをしたとする。


そしてその声が様々な要因によって不調和の相乗効果が起きてしまう。大き過ぎて。


現実を見るとは一体?


あるいはサッカーのアスリート化というのも、「理解出来る範囲内に落とし混む」という苦肉の策なのかもしれない。


分からないけど分かりたい。分かったことになりますように。計測した“過去”に願掛けをする。


今では選手たちは、とても素晴らしい運動能力。実に美しい身体機能。記録された瞬間に過去のものとなる身体測定。あくまでも常識の範囲内の情報で、想定し得る内容でスポーツに取り組んでいます。


品行方正。


哺乳類の筋肉の持つ緊張と弛緩の関係性。具体的にそれを説き表すものが、根本に誤解されて行く。そこに無いにも拘わらず。認知バイアスで処理されて行く。


常識の名の元に約束された営み。


哺乳類の肉体の持つ存在としてどうでしょう?


動物的な人間がこうもラッピングされて、おかしな事をするなという社会性。強迫。鶏冠に来るぜ‼️


当たり前の話ですが、我々人類の肉体は哺乳類です。例えるなら。


──人類の価値観と照らし合わせた上で、凄いサッカー選手。


──洗練された二足歩行の哺乳類の肉体をもつ存在として、それを活かし、サッカーという競技の中で最適化を図り続けた選手。


上記の二つのあり方は、全く違うものです。


「腰を入れる」とか「腰が入っている」なんていう表現をよく、見聞きしますが。「腰が入る」という古来より、主に武道武術の達人が語る口伝。


有り難み。


科学を否定するわけではありませんが。オリジナルを脇に寄せてまで信頼するほどの情報ではない。


他の星で生活したことがないのであれですが。とりあえずこの地球という惑星は、最適化を目指しても、保守的に過ごしても、どちらにしても思い通りにいかない環境です。


サッカーというスポーツは過酷です。


地球上で、こんなにしんどい体験をしている哺乳類も珍しい。


ノルマの達成だけでなく、大人の事情でしょっちゅう、身体測定をさせられる。


そんなスポーツに間取り組むというのも過酷で、なおかつそれが、キャリアの全般を閉めるというと本当に過酷な人生です。


さらには我々の肉体は哺乳類。肉体的な都合があって、極度なパワーを発揮することを義務付けられた選手たちの筋肉の、その緊張はどれ程のものかという話です。筋出力のオンとオフ。


デジタル機器みたいなわけにはいきません。


ちょろっとマッサージ受けて、それで一晩寝て、果たしてパーフェクトな状態になれるのか? 老廃物や、肉体に産み出された疲労物質の代謝はどうなのか?


生身の身体である以上、現実と照らし合わせて、リリースするのはなかなか困難です。


過酷な体験に従って、腰と密接した中臀筋と大臀筋も固くなる。さらには股関節周りも固くなる。骨盤周りの機能性が固くなる。そういった要因が積み重なって下半身の身動きが不自由になる。


余談ですが。ポジションや戦術というものも、生物的に見れば、序列や縄張りというものに該当すると思います。


生物的の生理的な感情の発作を体感している、ともいえます。そんじょそこらのアミューズメントとは訳が違う。まさに命懸けの、


ものではあるのですが。サッカーのアスリート化というのも、ある種の流れというか。不自由の要因となっているのかもしれませんね。認知バイアス。社会常識やら、環境やら、関わる人々との生活様式に巻き込まれている。


繰り返しますが、人間の肉体は哺乳類です。でも他の哺乳類の活動形態と比較すると違っていて、簡素にいうと“ちゃんとした二足歩行”です。


そういう形で姿勢と立ち振舞いを実現している。その活動形態は、例えば犬や猫といった四足で活動する哺乳類と比べて、垂直の状態にある。


犬や猫の体幹が地面に水平な状態であるのに対して、人類の姿勢は比較的、垂直なものとなっている。


つまり、肉を縦に積み重ねる様にして骨格と体格が形になっている。話を冒頭に戻します。


地面に対して垂直の状態で活動する二足歩行の哺乳類の肉体を、サッカーというスポーツ競技の中で最適化した、それがメッシです。※他にも最適化した選手がいると思いますが、今回のテーマはネクスト・メッシ云々です。


その理屈で、体勢を支える要素の大きなものが腰にある。肝心な要(かなめ)であるそこが固まってしまっている。だから不自由。


生体機能に照らし合わせた性質と、トレーニング。運動とスポーツ。二つの概念の間で解離が起きている。


現実的に、人類の持つ哺乳類の肉体、その性質から遠ざかっている。ある種の歪みを孕んでしまっている。


肉体。そして筋肉。その性質は、緊張と弛緩の関係性にあるものだと思います。全身の肉体、もっというなら全身運動、バイオメカニクスの観点で把握しきれていない。ちなみに──。


この場合の「固い」というのは、“現代の人類の常識の範囲内の機能性しか発揮できない”という、そういうレベルでの固さです。常識の範囲内であれば、十分に凄いプレーは出来ます。


ただ、比較対照は全盛期のキレッキレのメッシです。誤解を恐れずにいうと「前人未到」。控えめにいうと、「常識で向き合ってはとても、追い付けるような相手ではない……」訳です。


アルバート・アインシュタインの言を借りると「常識というのは、十八才までに覚えた偏見のコレクションに過ぎない」という。なんかそんな感じの事だと思います。


この話の流れで照らし合わせると、常識(偏見)の範囲内でしか身体を動かせていない。要は制限している。そんな人物がメッシに追い付けるはずがない。


全盛期の、なおかつ調子が良い日のメッシの動きを動画で見てみると分かりやすいと思うのですが、下半身がとても自由な状態になっている。


サッカーの試合中に、まるで競技中のスキー選手の様なボディバランスを実現している。下半身がフリーな状態にある。


対して、ネクストメッシと期待された選手たちはどうかという。身体の動きを比較してみれば一目瞭然。腰が固い。そして、下半身が不十分な状態になっている。


弾みも付かないし、いざというときに筋肉が緊張してしまうから、脚も上がらない。当然、シュートも決まらない。


きっと脳の認知機能の発達に違いがあります。空間把握能力や、対照との距離を適切に認知する能力。あるいは、“三秒後を予知する”能力。


「体幹を強くする」という体幹トレーニングメニューがあります。ただこの場合、弊害といっても過言ではない。


強けりゃ良いってもんじゃない! という理由で。


大抵の人が何十年も利用している自分たちの肉体、ただし理解が不十分。なのに強くする? なんだそりゃ、という話です。


特殊な社会性と、洗練された二足歩行。そういった性質を持つ哺乳類の肉体のアシストを受けて、この世で活動している。それが我々、つまり人類です。


そしてサッカーワールドカップというのは、そんな人類の運動の大きな祭典の一つです。


話は変わりますが。というかここだけの話ですが、姿勢と立ち振舞いを持って生まれた自分の肉体のあり方に叶ったものに近付けると、魅力が上がります。女子力もイケメンも上がります。


考えてみれば当たり前の話で、本来、潜在的にある機能性が現されるからです。


人間の身体に潜在していたチート性が解放されるわけですから、それに見合った雰囲気が醸し出されます。


トップレベルの運動選手の魅力はそのようにして、感じられるものだと思います。


そういった見識から改めて、人類のスポーツの祭典、ワールドカップというものを見ると、違った面白さが味わえるかもしれません。


今から楽しみです。


最後までお読み頂きましてありがとうございます。これから秋の夕暮れを堪能して参りたいと思います。

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