第8話 その日
その日、わたしは、少しだけ不安だった。グループセラピーの一種である、サイコドラマの説明だけは、久留麻先生から聞いたのだけれど、実際に、自分が演者の一人となって、会ったこともない他の患者と共演するのだ。
果たして、自分に、演技などできるのだろうか?
久留麻先生は、演じることが自分自身をより客観的に見れるようになる、第一歩になる、と言った。それは、主人格であるわたしが、わたしの心の中でより制御権を得ることにつながるのだとも。
わたしには、日々の生活の中で、頻繁に、意識が途切れるように、記憶喪失が起こる。その間は、別の副人格に意識を奪われているのだ。そして、その時間は、副人格への影響力は、ない。
制御権とは、彼らをコントロールする力を、得ること。それが、統合への道なのだと。そう、久留麻先生は、熱く語ってくれた。
わたしの病気に、これほどまでに真摯に、情熱的に向き合ってくれる久留麻先生は、やっぱり、素晴らしい先生だと思う。先生と一緒ならきっと、わたしのバラバラに砕け散った心の断片を、繋ぎ合わせることができるんじゃないかと、わたしは確信していた。
特に、変態少女の凛音だ。あんな人格が、自分の内部にいるなんて、わたしには、耐えられない。
凛音など、レイシアス人とともに、消え去ってしまえ。
そのビルは、少しだけ、不吉だった。
どうして、そう感じたのか、わたしには、分からない。あと数か月後に、取り壊し予定のテナントビルで、いまはもう、誰も借りていない。だから、貸し切りで、そのビルを使えるのだと、久留麻先生は言った。
扉の側に、精神科グループセラピー会場三階という小さな立て看板が、置いてある。
今日、このビルの中で、サイコドラマを演じるのだ。
一体、どんなドラマを演じることになるのだろう?
不安は、強まったが、少しだけわくわくするような、新鮮な気持ちが芽生え始めていた。新しい挑戦。
挑戦することは、素晴らしいことだよと、久留麻先生は、言ってくれた。
だから、いまはもう、覚悟はできている。
覚悟は、できていたが、わたしはなかなか、ビルの中へと入っていくことができなかった。
「・・・・・・こんにちは」
背後から、囁くように聞こえた声に、わたしはびくっと、体を震わせた。振り返ると、そこに、一人の少女が立っていた。まだ、高校生くらいの、大人しそうな少女だった。
このビルにやってきたということは、今日、サイコドラマで共演する、患者の一人だろうか?
わたしは、心臓の鼓動が、高鳴るを感じた。
紺のブラウスに、紺のスカート。さらさらと、肩の先まで伸びている髪。おどおどとした、表情。それでも、少女は美人だった。美人であるがゆえに、少女の暗い心の陰が、いっそう際立って感じられるのだった。
「・・・・・・あの、今日、ここでグループセラピー、あるんですよね?」
やはり、そうだ。心臓の鼓動は、すでに収まり、わたしは、少しの安堵感とともに、少女に向かって頷いた。
「ええ、わたしも、そう聞いているわ」
少女の顔にも、さあっと安堵感のような表情が、広がる。
わたしたちは、自然と、本当に、ごく自然とお互いに自己紹介をしていた。
少女は、名前を、梢麟と名乗った。
彼女は、一体、どんな心の病を抱えているのだろう? ふと、そんな疑問が頭をよぎり、わたしは、じっと、梢麟の顔を見つめてしまった。
彼女は、少し、顔を赤らめるようにして俯いた。
大丈夫、大丈夫だから――。
わたしは、木慈のように、彼女を慰めてやりたい、と思った。
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