第九章-それぞれの想い

 猫神さまの大声で大乱闘していた猫たちは静まり、二匹の行く末を固唾を呑んで見守ります。

 猫神さまはミケさんに問い掛けました。


 『この者は既に我らの世界に捕らわれている。二度とこの世界へ戻ってくることはできん。何ゆえ助けようとする?』


 その問いへのミケさんの答えは意外なものでした。

 それは、おばぁさんの伴侶であるおじぃさんの霊に、頼まれたとのことでした。





 路地裏にいた頃、“離れし者”であるミケさんは、他の猫たちと交わることを禁止されているため、回りの野良猫たちの輪に加わることなく独りで過ごしていました。

 ミィが気を使って、何度も狩りの誘いに来ましたが、当然それを受けることはありませんでした。

 そんなミケさんが唯一、懐いていたのが、夕方に現れては餌を置いていくおじぃさんでした。

 おじぃさんも、ミケさんのことが気に入っていたらしく、ミケさんが近付いていくと「ミーコ」と名前を呼んで、優しく抱き上げていました。

 ミケさんにミーコと名前を与えたのも、実はおじぃさんだったのです。



 そんなおじぃさんは、年を負うごとに弱々しくなっていき、夕方に裏路地まで足を運ぶ間隔も広がり、ミーコはおじぃさんの死期を悟っていました。

 そろそろと覚悟を決めた頃、路地裏の片隅で眠っているミーコの元に、体を揺らめかせているおじぃさんが現れました。


 『ついに来ちゃったね。逝っちゃうの?』


 ミーコの問い掛けは、おじぃさんの耳にしっかり届きました。


 「お前と話しができる日が来るとは思っておらなんだ。」


 おじぃさんは、見上げるミーコの前でかがみ、透けた手でその頭に触れます。


 「不思議なものだな。何も触れんこの手が、ミーコには触れられる。」

 『……それは…。』


 おじぃさんがミーコに触れられるのは、ミーコが自然の摂理を越えた猫又という霊的な存在であるため。

 離れし者とはいえ、自分が猫又であることは人にはばれてはならないことです。

 ミーコは打ち明けるかどうか悩み、口ごもりました。


 「良い良い。わしもこの世界から旅立つ身だ。言いたくない事は話さなくて良い。」


 おじぃさんが、言いにくそうにしているミーコを見て、にっこり微笑みかけました。


 「一つだけ、お願いを聞いてくれるかな?」


 おじぃさんは、見上げるミーコを抱え上げ、胸に抱いて喉をさすります。


 『良いよ。私に出来ることなら、聞いてあげる。』

 「ミーコになら出来るさ。」


 おじぃさんは、喉をゴロゴロ鳴らすミーコを地面に降ろし、正面からミーコを覗き込みます。

 改まったその雰囲気にミーコは姿勢を正しておじぃさんを見上げます。


 「わしには愛しい者がおる。わしが居なくなればきっと落ち込んでしまう。」

 『でも、じぃちゃん家には、他にも猫がいるんでしょ?』


 ここらへんでは、“楽園”と呼ばれる場所。

 ミーコたちは、おじぃさんが楽園の主人であることは知りませんが、他にも沢山の猫たちをお世話していることは知っています。


 「わしはお前も愛しておる。わしの愛したお前があいつの側にいてくれれば、安心できるのだがのぅ…。」


 そう言われてしまっては、断れません。


 『仕方ないね。良いよ。その頼みを聞いてあげる。』


 おじぃさんから溢れてくる強い想い。

 ミーコはその想いを大切にしたくて、おじぃさんの頼みを聞いてあげることにしました。

 返事を聞いたおじぃさんは、満面の笑顔でミーコにお礼を言いながらスゥッと消えていきました。


 『……。』


 ミーコはしばらく空をじっと見上げると、夜が明ける頃には腰をあげて、おじぃさんの“お願い”をかなえる為に歩き出しました。

 おじぃさんに行き先を聞いたわけでもないのに、ミーコにはどこに行けばいいのか、わかっていました。



 たどり着いた場所は、野良猫から楽園と呼ばれる裏庭。

 しかしそこには、楽園とはあまりに似つかわしくない冥く重い空気が漂っていました。

 ミーコはおじぃさんのために、おばぁさんを励まさなければいけません。

 多少、強引ではありますが、ひとまず大騒ぎして、おばぁさんを外に引きずりだそうと考えました。




 初めは確かに、おじぃさんのためでした。

 しかし今はそれ以上に、ミケさんを突き動かすものがあります。

 それはー、




 『好きだからっ!!』




 その一語に尽きていました。




 その答えを聞いた猫神さまとミケさんは、しばらくの間、にらみ合いを続けます。

 どれくらい時間がたったのでしょうか?

 日が暮れかけた頃、唐突に猫神さまが大声で笑い出しました。



 猫神さまは二本の尻尾を振って、ピシリと地面を打ち鳴らしました。

 すると、広場にいた猫たちは四方に散らばり、姿を消していきました。

 猫神さまは言います。


 「好きにせよ。」と。「今ならまだ間に合うかも知れん。」と。


 それだけ言葉を残し、猫神さまの姿は煙のように消えていきました。




 ミケさんたちは拍子抜けしましたが、気を取り直して、倒れているおばぁさんの許へ駆け寄り、大声で呼びかけ始めました。

 どうすれば良いのかなんて、ミケさんたちには解りません。

 ただ、心の底から、おばぁさんに呼びかけることしかできませんでした。







 猫の世界に捕らわれたおばぁさんの膝の上で、こころがゴロゴロと喉を鳴らして懐いています。

 おばぁさんは、優しく愛おしそうな目でこころを見つめ、頭を、体を撫でています。

 そのおばぁさんの耳に、遥か遠くからおばぁさんに呼びかける、必死な猫たちの声が届きます。


 『ばぁちゃんっ!!』


 その声の中に、おばぁさんはミケさんの声を聞いたような気がしました。

 声のする方を求めて空を仰ぎ見るおばぁさん。

 そんなおばぁさんの気を惹くために、こころが細く長く鳴きました。

 おばぁさんは「おお、よしよし。」と、こころの頭を撫でます。

 しかし、おばぁさんの心は既に、ミケさんの声に向いていました。

 それを察知したこころは、ぴょんとおばぁさんの膝の上から飛び降りました。

 こころの行動に首を傾げるおばぁさんの目の前で、こころがまばゆく光り始めました。





 こころの体がどんどん膨れ上がり、やがて光の中から、大きな黒猫が現れました。



 その尻尾は二本。



 先程までミケさんと睨み合っていた猫神さまがそこにいました。

 ミケさんたちは気付きませんでしたが、その背中には小さなハートのマークがありました。

 こころは、あの台風を生き延び、数十年の年月を経て猫又となって、おばぁさんの元へと帰ってきていたのです。

 猫又になる過程で、白黒の毛は黒く染まっていきましたが、おばぁさんとの大切な思い出であるハートのマークだけは消えずに残っていたのでした。


 「お…おぉ、こころ―。」



 「……あけみ…。」


 猫神さまの口から、こころの声でおばぁさんの名前がこぼれました。



 橋の下、土手の端に座って抱え上げられる小さな子猫。

 その横には、不格好ながら薄い板で作られた小さな小屋。


  「あんたの名前は、

   背中にハートがあるから、

   “こころ”ね。

   私は、あけみ。

   これからよろしくね。」

  「ミィ~~。」


 弾んだあけみの声に、嬉しそうにゴロゴロと喉を鳴らしながら返事をする子猫。



 猫神さまの、そしておばぁさんの脳裏にほんのりよみがえる出逢った頃の情景。





 おばぁさんが猫神さまにそっと手を伸ばします。


 「大きくなったねぇ。また逢えてうれしいよ、こころ。」


 おばぁさんは、立派になったこころに涙をぼろぼろ流して喜びます。

 そのおばぁさんの姿を見て、猫神さまとなったこころは、少し後ろめたい気持ちになりました。 

 立ち上がったおばぁさんは、自分よりも背丈が大きくなったこころを優しく抱きしめました。


 「あけみ、やっと逢えた。」


 こころは、一度、おばぁさんを抱きしめ返すとそっと、おばぁさんを体から引き離しました。


 「この世界では、話せるのだね。まさかこころに名前を呼んでもらえるなんて、夢にも思ってなかったよ。」


 おばぁさんは両目に涙を溜めながら、こころに話し掛けます。


 「ここは、猫の世界。私たちの世界だからね。」


 おばぁさんがもう一度、抱きしめようと近づくと、こころはスッと後ろに下がって、おばぁさんを拒みました。


 「…こころ、どうしたんだい?」




 猫神さまは、猫のために存在しています。

 そして、上空からは、懸命に呼び掛けるミケさんたちの声。

 捕らわれたおばぁさんの心を呼び戻したその声に、こころは猫神として答えなければいけませんでした。

 猫神は、この土地の守り神である前に、猫を守ることが最大の使命なのです。

 その猫たちのおばぁさんを呼ぶ悲痛な声に、心を打たれない訳がありません。

 何よりも、同じ愛しい人を呼び掛ける声は、こころが長い間、叫び続けた声そのものと言っても過言ではありませんでした。


 「行くが良い。お主を待つ者たちがあそこに居る。」


 こころは過去に決別をして、おばぁさんを手放す事を決意しました。

 その声はもう、猫神さまの威厳のある声に戻っていました。

 こころが指差す先に、淡い光が現れました。

 その中には、ミケさんたちが必死の形相で鳴いているのが見えます。


 「おお、ミケさん。」


 おばぁさんの体はふわっと浮かんで、淡い光に向かい始めました。


 「わしはお主と出逢い幸せだった。あの者たちもお主のことが本当に好きなようじゃ。」


 おばぁさんを助けたい一心で、街中を駆け回り、猫神にまで逆らったミケさんたち。

 本当に好きでなければ、とてもできることではありません。



 「さよなら。」


 こころはおばぁさんに別れの言葉を告げました。


 「こころ、またいつか逢いましょう。さようなら。」


 おばぁさんも、こころに別かれの言葉を告げます。



 そして――

 おばぁさんは淡い光に吸い込まれ、終にはこころの視界から消えてしまいました。







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