へんじがない。ただのしかばねのようだ。

(弟よ。事件です)


 の名前はミシェル・バルト。アドリア学院騎士科の一年生として、本日入寮したばかりの十五歳。

 足下で倒れている男の名は、ルーカス・スコーティア。公爵家の一人息子にして、“社交界の毒薔薇”の異名を持つ、世間ではなにかと噂の人物。


 今は白目をむいて気絶しているので色々と台無しだが、瞼を下ろせばほらっ。なんということでしょう。物語から抜け出たような、微睡む美少年のできあがり。


(いかんいかん。現実逃避してた)


 ミシェルは無実だが、この男なら逆恨みしても不思議じゃない。

 もしくは自分の醜態を目撃したミシェルを抹殺しようとしてもおかしくない。

 今日が初対面だが、こいつならやりかねないと思わせるほど、ルーカスの印象は悪かった。


 彼がこうなった理由は自業自得だ。

 寮の二段ベッドから降りる際に、足を滑らせて転倒した。

 ハシゴに股間を強打して、頭から落ちたので意識がないのである。女であるミシェルには想像もつかないが、金的は内臓を握りつぶすレベルの痛みらしい。


「ヒィィッ! っちゃったの? 初日でルームメイト殺すなんて、今時の若者こわすぎるぅ!!」

「やってません!!」


 青い顔をしているのは寮母ならぬ寮父のおじさん。敷地内は女人禁制。男所帯なので、たとえ肝っ玉母ちゃんだろうと、女性はNGらしい。

 プルプルしているちっちゃいおじさんだが、実は医師免許を持っていたりする。何故そんな人物が学生寮で働いているのか。それはここが騎士科の寮だから。

 普通科と比べて負傷者が多い、というだけではない。

 この学院の騎士科の生徒は、上位貴族の後継者もしくは、継ぐ爵位を持たない次男坊以下で構成されている。どうしてそんな極端な構成になっているのかは追々。

「着任早々物騒すぎる」と嘆く寮父だが腐っても医者。手際よくルーカスの状態を確認している。

 普通科の方にも寮父はいるが、医療資格は持っていない。怪我や負傷は、保健室の校医が診ると学校案内に書かれていた。

 騎士科にだけ専用の医師が雇われているのは、高貴なご令息がこの建物で生活するからだ。この学院では、身分の高い生徒は騎士科に集中している。


「ぅう……っ」


 ルーカスが身じろぐ。


「わっ! 起きちゃうよ! 逃げるなら今のうちだよ!」

「だからやってませんって!」

「どうするのこれ。とどめさせてないよ!」

「だから人を犯人に仕立て上げるの止めてください! というか、医者としてその発言はどうなんですか!」


 覚醒した彼は呻き声を上げた。


「……いってぇぇ。あー……くっそ、いてぇ……」


(あれ?)


 ミシェルは内心首をかしげた。

 ルーカスの噂は知っていたが、言葉を交わしたのは今日が初めて。

 顔を合わせてすぐに彼がこの状態になったので、時間にして三分ほどしか会話していない。

 それでも気絶する前と後では別人といって過言では無いほど、雰囲気が違う。


「誰だこのオッサン……」

「寮父さんです。僕が呼びました」

「骨に異常はございません! 頭部にこぶができていますが、一晩様子を見て吐き気や眩暈がなければ登校してかまいませぇん!」


 不機嫌そうな表情から一転して、ルーカスは爽やかな笑みを浮かべた。


「…………そうですか。入学早々お騒がせしてすみません」


「「!?」」


「もしなにかあれば、ルームメイトに呼びに行ってもらうので、戻っていただいてかまいません。ありがとうございました」


 いささか強引に寮父を部屋から追い出すと、彼は床にあぐらをかいた。

 ますますおかしい。ミシェルの中で警戒心がムクムクと頭をもたげた。

 目の前にいるのがルーカスであるのは疑いようがないが、彼女のもつスコーティア公子像と一致しない。


(本当に同一人物――よね?)


 彼女は、自分にあてがわれた部屋に入室したときのことを思い出した――



「俺は上の段だ。俺の上で他人が寝るなんて冗談じゃない」


 これが社交界の嫌われ者、傲慢の化身と囁かれている男の第一声だった。

 これから三年間共に生活するルームメイトに挨拶することもなく、彼――ルーカスは自分が使いたい方のベッドと机に荷物を置いた。


 この寮に住む生徒は毎朝ラッパの音で起床し、素早く着替えるとシーツを畳み、外に整列しなければならない。

 ちなみにラッパが鳴るまで布団の外に出ることは許されていないので、あらかじめシーツを畳んでおくことはできない。

 先輩曰くベッドの中で服を着替えておくのがミソだとか。ぶっちゃけクソだ。体育会系あるあるの理不尽ルール。

 点呼中に上級生が各部屋を点検し、シーツが畳めていなければ窓の外に放り出される。酷いときにはマットレスごと投げられる。

 嫌がらせとしか思えないが、それがこのアドリア学院騎士科の伝統らしい。

 はたしてこの風習が、生徒達の結束を高め、高潔な魂と、鍛えられた肉体を育むのに必要なのか。

 育つのは上級生への恨み辛みと、俗に愚痴と呼ばれる共通の話題だけ。

 自分が上級生になったら、今度は俺たちの番だと下級生に過去の鬱憤をはらす負の連鎖が受け継がれるだけではないのか。


 二段ベッドの上の段は、ハシゴを使って昇降しなければいけないので不便だ。

 一般的には下の方が人気なのだが、目の前の男は違うらしい。

 ミシェルは他人が上で寝ようが、下で寝ようが気にならない。楽な下の段を譲ってくれるのはありがたい話なので、大人しく従うことにした。

 どちらのベッドもカーテンで目隠しされているので、プライバシーは保護される。これなら性別を偽っている身でも安心して過ごせる。


「カーテンは下の方が新しいな。おい、お前。今すぐ取り替えろ。ほら、駄賃だ」


 ルーカスは懐からコインを出すと、指ではじいた。

 銀貨がミシェルの胸にあたり、そのまま足下に落ちる。


(どうしよう。ぶちのめしたい)


 ベッドは自分にも都合のいい流れだったから従った。

 上座にこだわりは無いので、机も彼の好きにしたらいい。

 でもこの振る舞いは許せない。

 が、ミシェルは卒業まで問題を起こすわけにはいかないので、脳内でムカつく野郎を締め上げるにとどまった。


(でも、このまま唯々諾々と従ったら、この先もずっとこんな扱いされるかもしれないな)


 どう返したものかと彼女が迷っているうちに、ベッドの上段から降りようとしたルーカスは、足を滑らせた。

 動体視力の良いミシェルには、全てがハッキリと見えた。

 右足を踏み外したルーカスは、ハシゴをまたぐ形で股間を強打。

 衝撃で手を離したことで、仰向けに転落した。

 騎士科の生徒たる者いかなる時も受け身をとるべきだが、予期せぬ事故と急所への痛みでそれどころではなかった。

 ノーガードでルーカスは頭から落ちると、白目をむいて気絶した。

 首都で一番のコメディアンも、嫉妬で股間を押さえて冷や汗をかく見事な流れ。

 端麗だが酷薄そうな顔立ちも形無し。長い足が片方だけ、ぷらんとハシゴの一番下に引っかかっている姿が大層間抜けだ。


「ええー」


 綺麗にプレスされたズボンの裾からのぞくのは、光沢を放つ絹の靴下。


「そりゃ滑るって。騎士科らしく綿にしとけば、こんな悲劇は避けられたのに」


 自業自得が過ぎる。

 この手のタイプは助けても無視しても、どちらにしろ文句を言う。

 関わり合いになりたくないが、残念ながらここはミシェルの部屋でもある。


 「嫌だなぁ」


 ルーカスほどではないが、ミシェルにも騎士道精神は無い。家庭の事情で弟に成り代わっているだけの、ちょっと剣が得意な女の子にすぎない。

 放置して翌朝、ルームメイトが冷たくなっていたら困るので、彼女はしぶしぶ部屋をあとにした。

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