4.黒い影

 ふたたび地図をひらいて方々歩きまわり、友人が経営する宿にたどり着くと、荷物を下ろし、寝台に寝そべった。


 なかなかに清潔にしつらえられた一室で、のみやしらみも少ないようだ。


 長旅であっただけに、からだは疲れ切り、ほとんど身じろぎする気にもなれない。それでいて、気は昂り、ねむりに就くこともままならなかった。


 しばらくのあいだそのまま寝そべっていたが、やがて、ちいさく嘆息してその場に起き上がった。


 荷物のなかから駒と盤を取り出して並べだす。ひっきょう、かれは、これほど疲れ果てていても、盤戯のことを忘れて無心になることはできないらしかった。


 それに、先ほど目にしたリリスの手筋のこともある。アルリオットはリリスの手の美しさに魅了されていた。


 リリスのあの「影のような」一手は、〈黒金〉の教本に載っていてもおかしくないほど素晴らしかった。


 まさに、アルリオットがずっと心に思い描き、憧れていたような巧緻な戦術だったのだ。


 そう、黒い影のように忍び寄る、あの流麗な手筋――しかし、むろん、単なる傍観者として魅せられてばかりもいられぬ。


 もし、かれが大会を勝ち抜けば、かならず彼女と対局することになるはずだ。対策を練らなければ。


 アルリオットは年端もいかぬ子供のように夢中になって駒を動かしつづけた。ひたすらに思考の森を渉猟しょうりょうするこの純粋にして潔癖なる愉楽こそが、かれを〈黒金〉に縛りつけたものだ。


 そうやって考えつづけているあいだは、たとえ、傍に寄られてもわからない。


 だから、その男がかれの名を呼んでいることにも、しばしのあいだ気づかなかった。


「アルリオット!」


「――えっ」


 幾たびめのことか、大きな声音で呼ばれて、ようやく〈森〉の風景から、現世に戻ってくる。


 呆然と見上げると、そこに、旧友であり、この宿の主人でもあるオルロフが佇んでいた。


 苦み走った顔だちの、なかなかの好男子だが、いまは不機嫌そうに顔を歪めている。


「どうしたんだ、オルロフ? 何か要件か」


「どうしたんだじゃない、何度も呼んだんだぞ。まったく、いったん〈そっち側〉に入り込むとひとの声もろくに聴こえなくなるらしいな。まあ、集中できるのは良いことなんだろうが――」


「ああ、すまん。ついつい、な」


 アルリオットは素直に頭を下げた。いままでもこのように〈黒金〉に意識を注ぎすぎて大切な用を逃がしてしまったことは何度もあった。われながら良くないことだとは思っているのだが、なかなか直らない。


 オルロフは大きく息を吐き出して、まあいい、と首を振った。


「もうメシだ。いらんか?」


「いや、ありがたくいただくよ。いつもおまえの料理はたいしたできだからな」


「それならさっさと降りてこい。どうせ、たべたらまた〈黒金〉の研究に戻るんだろう。それとも、女でも呼ぶか?」


「よせよ」


 われ知らず顔をしかめる。


 旅する男たちのなかには、あたらしい町に着くたび、その町の娼婦を呼んで奉仕を受けることを好む男も少なくないとしってはいる。


 しかし、かれはそういったことを好まなかった。


 べつだん、女嫌いの堅物というわけでもなく、その種の白粉おしろいくさい女性たちが苦手なのである。


 もっとも、娼婦にもさまざまな階級があり、なかには高級娼婦と呼ばれる高貴な女性たちもいる。


 彼女たちは深い教養をもち礼節をわきまえ、主に貴族や富豪のあいてをするのだという。


 ある意味では、単なる平民に過ぎないアルリオットなどよりよほど社会的地位が高いともいえるだろう。


 とはいえ、あくまで金をもらって性の奉仕を行うことに変わりはなく、さげすんだ目で見る者も多いことに違いはない。


 アルリオットにいわせれば、それは愚かしい偏見に過ぎないのだが。


 この時代、女性一般を蔑視する男も少なくないが、アルリオットはそうではない。


 すこし前までは、心優しい恋びともいた。もし、盤戯にかける夢と情熱とを捨ててまともな商売に就いていたなら、あるいはその女性と結婚して家庭をつくることもできたかもしれない。


 ひとつの可能性のルート。


 しかし、現実には、かれは黒と金の夢のためにそのすべてを捨て去ってしまった。


 いまでも、まだ、別れ際の彼女の切なげで憎々しそうな目が忘れられない。


 おれは彼女から何を奪ってしまったのだろう、とかれは切なく思うのだった。


「それなら、陽酒はどうだ? 魔薬を吸わせる店もしっているぞ。イスヴァラーンの法には背いているが、黒魔術の快楽をあきなうところもある」


「魔術、ね」


 偉大な建国王の勝利によってルーン王国が成立するよりさらに昔、きょうでは魔術としてのみ知られる技法が世界を統べた時代があった。


 その頃の不可思議な技術はいまなお伝わっており、また、魔法めいた道具は幾つも残っている。


 さらには、その頃とくらべ遥かに衰微したとはいえ、魔術のわざを使う者も少なくはない。いまもまだ魔法の時代はつづいているのだ。


 詩人たちが伝えるところによると、百年ほどまえには、よこしまな魔法使いが美姫をさらい、どこぞの古塔のうえに閉じ込め、騎士団が追いかけるなどという古風な事件も起こったことがあるという。


 また、そういった魔術のなかでも、いまでは封印されるさだめのみだらな闇のわざ、俗にいう黒魔術を使いこなす者も少なくない。


 使いかたによっては、この世の黄金律を揺るがすとすらいわれる秘密の技術。


 とはいえ、かつては国を揺るがし、数しれぬ人々の運命を動かしたともいわれるそういった闇黒あんこくの秘術も、いまとなっては、ささやかな違法の快楽に使われるくらいのものだ。


 ひとの欲望と快楽を何倍にもする媚薬やら、かつて幾つも国を滅ぼしたという強力な鴉片、数百年のときをメンテナンスもなく動きまわる人造人形――そういった、まっとうな法にも道徳にも正面から逆らっていながら、どういうわけなのか人の心を蠱惑こわくしてやまない品々は、きょうもひっそりと高値で売買されている。


 もっとも、それらの大半はしんじつ魔法の品なのだと偽った贋物に過ぎないともいわれているが。


 きょうび、本物の魔術もその道具も貴重なのだ。


「まあ、鴉片あへんやらはともかく、酒くらいなら付きあうぞ。イスヴァラーンは麦酒ビールよりも葡萄酒ワインで有名だったな」


「そうさ。しばらくまえに仕込まれた質の良い葡萄酒がある。いつか、おまえが来たら飲もうと思ってとっておいたんだ。おれの友情に感謝しろよ、なかなかおまえのような貧乏人が手が出るしろものじゃない」


「いっていろ。いつか〈一角獣〉になったら倍にして返してやるさ」


「いつのことになるやら。期待しないで待っているよ」


 オルロフは皮肉っぽく片眉をつりあげてみせた。


 ほんとうにいつのころになるのかわからないから、反論もできぬ。だが、アルリオットは決して冗談や虚言でいっているつもりはなかった。


 〈一角獣〉と呼ばれる最高階級の指し手は、〈盟主〉と〈達人〉とを足しても、この国にわずか十三人。


 最高の名誉と栄耀栄華えいようえいがを約束される階級である。


 かれはその地位に指をかけるため、いままで、恋も、富貴も、家族も――多くのものを犠牲にしてきたのだ。


 そう、いまになって、あきらめてしまうにはあまりにも多くのものを。


 オルロフはやれやれといって下の階に降りて行った。アルリオットもちょっと苦笑してあとに従う。


 そうして、その、数日後。


 かれはついに〈黒金〉の王都大会のその日を迎えたのだった。

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