3.賭け試合
「わかった。気をつけて」
アルリオットがそういってひき下がると、リリスはふん、と愉快そうに鼻を鳴らした。
そのまますたすたと勝負のところへ歩み寄り、当然ながら
「待ちなさい。この勝負、わたしが代わってひき受けるわ」
いたって当然のことながら、男も、そして老人も不審そうだった。
突然にあらわれたこのなぞの介入者をいかにも
「何だ、おまえ?」
「何でも良いでしょう。わたしがこの爺さんの代わりにあなたのあいてになるっていっているの。もし勝ったら借金はちゃらなんでしょう?」
男は嘆息した。リリスが本気であることがわかってきたらしい。
「それで、もし、おまえが負けたらどうする?」
「好きにして。何なら、この通りですっぱだかになって踊ってみせるわ」
「ほう」
男の目が好色そうに煌めいた。危険を感じざるを得ない。
アルリオットは止めようとしたが、金貸しがそれをさえぎった。
「良いだろう。好きにすれば良いといったな。その言葉、忘れるな。あとで撤回しようとしても遅いぞ」
「ルーンの女神にかけて誓いましょう。もし、この勝負に敗れたなら、わたしは自分にできることであれば、あなたの望みを何であれひとつ叶えると」
「良いだろう」
男は満足そうにうなずいた。
その脳裡で、淫猥な想像が渦巻いているさまが見えるようだった。
「おい、大丈夫なのか」
アルリオットが心配して声をかけると、リリスはわずらわしそうにかれを後ろに下がらせた。
「わたしをだれだと思っているの? 良いから、まかせておいて」
そうまでいわれては、その上、何もいうことはできない。リリスを信じるより他ない。
戦況は不利だが、アルリオットから見て、まだ逆転の余地はある。〈黒い影のリリス〉ほどの指し手なら、そこまでたどりつけるかもしれない。
リリスは、呆然としたようすの老人を背後に下がらせると、代わって椅子に座した。
確信に満ちた微笑とともに自陣の〈意思ある歩兵〉を手に取り、一歩後退させる。まずはディフェンスを組み直すつもりらしい。
金貸しの男はそこにすかさず〈永劫なる奴隷〉を進めた。リリスは間髪を入れず〈善良なる司祭〉を動かす。
金貸しもまた〈悪辣なる司教〉で攻めた。戦局の根本からの打開に至らないまま、一進一退の展開がつづく。
まずいな、とアルリオットは考えた。リリスが防御を固めているうちに、金貸しは盤面の中央を制圧してしまった。
〈燎原制圧〉と呼ばれる戦術だ。これによって、かれは左右に自在に駒を動かすことができるようになる。
一方、リリスは守りこそ固められたものの、攻めの手筋を見いだせなくなっているように思える。
このままでは、彼女はしだいに追い詰められていくばかりだろう。
リリスの手筋が悪いのではない。そもそも、初めから局面が悪すぎたのだ。さすがの彼女をもってしても、その劣勢は打開できなかったのであろう。
アルリオットは内心であせった。女神にかけて誓った約束を破るわけにはいかぬ。
しかし、もしリリスをこの男に任せたなら、何をさせられるか、想像に余った。
「約束を忘れるなよ、お嬢ちゃん」
男は不気味な笑顔を浮かべた。
頭のなかでは、すでにリリスを好色に責め苛んでいるのかもしれない。
リリスは黙り込んだ。ただ、一手一手、的確に打っていく。
しかし――このままでは、及ばない。劣勢のままで勝負は終わってしまうことだろう。
アルリオットは奥歯を噛み締めた。いざとなったら、何としてでも彼女を守ろう。そう、内心で決意を固めた。
男が中央から〈幽魂の娼姫〉を敵陣へ進め、さらに自在な動きをこなす〈堕天の大淫婦〉へと〈変化〉させる。
これまでか――とアルリオットは顔を歪めた。金貸しが呵々大笑する。
「どうした、お嬢ちゃん。裸踊りの準備はできたか? いや、そのくらいで済むと思っているわけじゃないだろうな。せいぜい楽しませてもらうぞ」
「黙りなさい、下郎」
リリスはなめらかな頬に嘲けるような微笑を浮かべた。
「わたしは黒い影のリリス――いつだってわが影は、あいてが気づかないあいだに忍び寄る」
「何?」
「〈泉の乙女〉よ、踊れ」
リリスは〈泉の乙女〉の駒を前方へ進めた。男が余裕を込めてうなずき――そして、やがて、ひくく唸った。その手が持つ意味に遅まきながら気づいたのだった。
じつに、ただ一手。
たったそれだけで戦局は劇的に変わっていた。
アルリオットは唖然とその手を見下ろした。まさに変幻の鬼手である。
〈泉の乙女〉はいまや〈楽園の大聖女〉への〈変化〉の可能性を秘めて、盤面を支配している。まったくあたらしい局面の可能性がそこにひろがっていた。
否――じっさいにはずっとまえから、そこに至る伏線は敷かれていたのだ。
ただ、まさに影のように意識できなかった。リリスの構想が、アルリオットの視野には入っていなかったのだ。それだけ、彼女に見えている世界が深いというしかない。
金貸しの男は苦渋に満ちた顔となり、傍らで真剣に見つめていた老人の顔に喜色が浮かんだ。
そこからは、まさに一方的な展開に過ぎなかった。リリスはひたすらに攻め、金貸しはどうにか王手を避けようと逃げまわりながら、追い詰められていった。
まさに飛来する
彼女はいかにも
見る間に金貸しの駒が減ってゆく。かれが苦悶しつつ、「参りました」と頭を下げるまで、ほとんど時間はかからなかったのだ。
老人は両手を上げて歓んだ。
調子が良いものだが、じっさい、人生を救われたのだからそういう態度にもなるだろう。
「良かった」
アルリオットもまた、安堵していた。自分で指すよりよほど心臓に悪い。
また、勝ったからといって喜んでばかりもいられない。盤面のすべてを計算し、支配し切ってみせたリリスの実力の凄まじさ、その一端を垣間見た。
これが、いずれは〈一角獣〉にも指がとどこうかという、王都のトッププレイヤーの力量か。
いまは畏れ入るほかないが、いずれ、盤を挟んで向かい合ったときは、圧倒されているつもりはなかった。
リリスは興味なさそうに金貸しから証文を奪い、三重、四重に千切り捨てると、吹き抜ける風にさらした。
疾風に乗っていままで証文だったものは四方へ飛び散っていった。
老人が礼を述べようと近寄って来るのを無視し、ふたたび歩きはじめる。アルリオットもその後につづいた。
「凄いな。あの〈泉の乙女〉の使いかたは読めなかったよ」
「〈乙女〉は影から忍び寄るの。女を舐めたら〈悪辣なる司教〉だろうが〈月影の暗黒竜〉だろうが粉砕されるってこと」
そして少女は唐突に振り返り、アルリオットの顔をのぞき込んだ。
「それにしても、あなたも指し手だったのね。こんどの王都大会に出るために王都に来たの? わたしが優勝するけれど、準優勝くらいはできると良いわね」
「ああ、そうだな」
アルリオットは思わず笑いだしていた。リリスが何か不思議そうにじっと見つめてくる。
「あなたって――」
「何だ?」
「ううん、何でもない。気にしないで」
アルリオットはそれから、まったく違う方向へ進んでいこうとするリリスを時々止めながら、目的地にたどり着いた。
射し込む日をはじいていよいよ美しくひかる白亜の建物。王都の〈中央会館〉、すべての指し手にとっての聖地である。
リリスは不審そうに端正な顔を歪めた。どうやら、この勝負は彼女の敗けだった。ちいさく嘆息する。
「それじゃ、また会場で逢いましょう。さようなら。それから、その――道案内、ありがとう」
「こちらこそ、良い対局を見せてもらったよ。じゃあな。もう道に迷わないように」
「失礼ね。ひとを根っからの方向音痴みたいにいわないで」
どう見ても根っからの方向音痴だろう、とそういってやりたかったが、その言葉は飲み込んで、リリスと別れた。
すっかり道草を食ってしまったが、自分の宿を探さなければならない。
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