1.旅立ち
「――王手」
アルリオットが盤上にある〈彷徨する暗黒騎士〉を前方へ進め、ちいさな吐息とともにそう、しずかに囁くと、対面に座したファルゴはとたん、口惜しそうにそのしわ深い顔を歪めて犬のように低く唸った。
眼光鋭い双眸をさらに細め、凝然と盤面を睨みつけて
かれはそのようにしてじつに半刻ほどものあいだ、黙って考え込んだ後、ついに、自陣の〈光の魔法使い〉を下げて防御に回した。
アルリオットは感心した。敵陣奥深くまで入り込み、あとわずかなところでその陣地を切り裂くかと見える〈光の魔法使い〉をことここに及んで防御に使うことは、たとえ理の点では正しいとわかっていても、
さすが父だ。
積年の職人生活で身につけた強靭な意思を感じざるを得ない。
ただ、その判断はわずかに遅すぎる。
あと三手前にその決断を下せていれば、かれの〈光の魔法使い〉は〈黄金の大君主〉を守り抜けたことだろう。だが、すでにアルリオットの〈永劫なる奴隷〉は勇躍、敵陣に迫っている。
哀しいかな、もはや〈光の魔法使い〉は無力だ。
かれは自分の〈永劫なる奴隷〉をさらに前進させ、ファルゴの〈光の魔法使い〉を屠った。
ファルゴはまたも低く唸りながら、〈善良なる司祭〉で〈永劫なる奴隷〉の進路をふさぐ。
冷静な判断だ、とアルリオットは内心で評価する。ここは中央の〈正義の黄金騎士〉を下げて〈永劫なる奴隷〉を獲ってしまいたくなるところだが、じつはそれは失着なのだ。
〈善良なる司祭〉で〈永劫なる奴隷〉を妨害することは最善に近い手だといえるだろう。
ただ、それすらもかれの計算の内ではある。
アルリオットの戦略は広く、深く、そして、その読みはファルゴを捉え切っていた。もはや、勝利への道筋は見通している。
とはいえ、むろん、油断することはできない。かれはさらに集中力を高め、深く、深く手筋の「読み」のなかへ潜航していった。
ただ、かれひとりだけしかおらぬ静穏な世界で、次々と手を読んでいく。
一見して妙手と思える手もあれば、即座に悪手と切り捨てられる手もある。いずれにしろ、それらの大半は塵のように無意味でしかない。
めざすべき正着は、そのさらに彼方にあるのだ。
しいんと静まり返ったなかで、ひたすらに最善の手を探るこの作業に専心することには、ある種の奇妙な陶酔感がともなう。
あたかも暗く深い水のなかにひとりもぐって沈没した都市を眺めているような――一切の雑音が遮断された世界に、いま、かれはいる。
かれの心を占めているものはただ〈永劫なる奴隷〉や、〈彷徨する暗黒騎士〉や、〈影の魔術師〉や、〈悪辣なる司教〉、そして〈冥府の大暴君〉の運動だけだ。
戦局は有利。
しかし、ただ一手でも読み違えれば逆転を許すこともありえる。
アルリオットはさらにしばし黙考し、選択するべき正しい道筋を探った。
やがて、ひとつ、大きく息を吐き、安堵の声をもらす。
「見つけた」
「何?」
不審そうに問い返したファルゴを無視して、かれは〈月影の暗黒竜〉を前線へ動かした。前後左右を睨む強力な駒だ。
「おまえ、それは――」
ファルゴは不思議そうに呻いたが、やがて、あごひげに手をあてて考えはじめ、しだいにその目に理解の光が燈っていった。
一見したところでは無意味とも見える〈月影の暗黒竜〉の前進が、じつは前線で孤立した〈彷徨する暗黒騎士〉を補佐するものであり、きわめて重要な意味を持つものであることに気づいたのだ。
こうなると、かれもまた〈太陽の黄金竜〉を動かして防御せざるを得ない。
ファルゴは〈太陽の黄金竜〉を後退させる。アルリオットはおのれの〈永劫なる奴隷〉で〈善良なる司祭〉を
ファルゴがすべての駒をもちいながら懸命に自陣を防御しようとし、アルリオットが一方的に攻める展開が続いた。
しかし、アルリオットは決して無理をしない。あくまで最終の勝利をめざし、どこまでも精密に攻撃を続ける。
そうして、しばらくして、かれはようやく盤面から顔を上げた。
「あと十一手先で王手詰み」
いつのまにか緊張していた肩の力を抜く。
「おれの、勝ちだ」
「ふむ」
ファルゴは、端正にととのえられた黒いひげを撫ぜながら、じろりと息子を睨みつけ、野性の熊のような動作で大きく嘆息した。首を曲げて視線を天井に向け、しばらく何やら考え込んだあと、両手をひざに置き、ゆっくりと頭を下げる。
「参りました」
そして、やにわに相好を崩し、
「強くなったな」
「うん」
アルリオットはあえて謙遜したりはしなかった。
めったに笑顔を見せない父のその言葉は重い。ファルゴは、かれの父であると同時に、このゲームに関して町いちばんの名手であり、戦術に関して一家言を持っている人物でもあるのだ。
そのかれから褒めてもらえたことは素直に嬉しかった。
かれは手もとに置いたカップから茶を啜り、そしてようやく指さきが震えていることに気づいた。
思ったよりもずっと力が入っていたらしい。未熟というべきかもしれない。しかし、ファルゴは安心させるように首を振った。
「気にするな。対局に際して力が籠もるのは当然のことだ。もっとも、大会ともなると長期戦だからな、あまり力を入れ過ぎることは問題かもしれん。とはいえ、指が震えるのはおまえがそれだけ深くもぐった証拠だ。おれも若い頃はそうだった。いまじゃ、そこまで深く考えられなくなったけれどな」
「うん、父さん。ありがとう」
ファルゴは力づよく頷き、息子の肩に手を置いた。
「行くんだな」
「ああ」
「そうか。おまえほどの実力があれば、もっと大きな舞台に立ちたくなることは無理はない。じっさい、おまえなら十分に通用するだろう。だが、王国大会は修羅の戦場、どんな魔物が出て来るかはわからん。勝っても負けても気にせず、帰りたくなったらここへ帰って来い」
「うん、そうするよ」
しずかに頷く。
しかし、アルリオットは自分が少なくともしばらくのあいだは王都イスヴァラーンから帰るつもりがないことをわかっていた。
父には寂しい想いをさせることになる。しかし、かれにもかれの夢があるのだ。王国大会で優勝し、すべての指し手のなかの最上位である〈達人階級〉に参加、さらにそのなかの頂点〈名手〉をめざすという夢が。
王国で十三人しかいない〈達人階級〉、つまり〈一角獣〉は国じゅうの戯士の代表であり、その地位に就けば最高の名誉と富貴が約束される。
その意味で、このゲームは決してただの遊びではなく、どこまでも真剣な戦いなのだ。
じっさい、この国の人間がゲームに費やす労力の膨大さは、他国の人間にはなかなか理解してもらえないほどのものだ。
そして、〈一角獣〉になるためには年にいちど開催される大会で優勝するしかない。
「さあ、行ってこい。おまえにはおれと母さんがついている」
ファルゴは、いまやかれよりも高くなった愛息のからだを、優しく抱き締めた。
「うん。わかっている。行って来るよ、父さん」
アルリオットは暖かな想いで抱擁を返し、荷物を手に持って、扉から出た。振り返ることはしない。もうじき、辻馬車が出る頃だ。急いでいかなくてはならない。ぎゅっと拳を握りしめた。
今回の大会の優勝候補といわれているのは、三人。
早指しのカシウス、黒い影のリリス、そして、酔いどれアダム。
三人とも、最高位に近い階級の指し手だ。その三人を、すべて打ち破ってでも、きっと優勝してみせる。そう自分に誓う。
かれはこのとき、この先でおのれを待つ波乱の出逢いを、まったく想像していなかった。
ひともまた、世界という盤上を動くひとつの駒。どれほど先々を読み通したつもりであっても、未来で待ち受けている運命を知り尽くす者は、いないのである。
王都へ。
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