僕はヴェロニカとキスをしない

日横ヶ原れふ

僕はヴェロニカとキスをしない

                  1


 ある日、僕の部屋に『ヴェロニカ』と名乗る夢魔が現れた。

「突然ですが、私とキスしませんか?」

 夢魔らしい端正な顔立ちに魅惑的な笑顔を貼り付けて、彼女はそんな突拍子もない提案をしてきた。

「な、なんで?」

「それはもう、貴方の生気をいただくためですよ」

 ニコニコ顔で恐ろしいことを言い放つヴェロニカ。そんなことを馬鹿正直に話して、僕がイエスと言うとでも思ったのだろうか。

「やだよ」

 僕が首を横に振ると、彼女はアメジスト色の瞳を丸くして驚きを露わにした。

「えっ、なんでですか? この私とキスできるチャンスなのに?」

「いや、そもそも君のことを知らないし。生気を吸われるなんてまっぴらごめんだし」

 ただでさえ仕事で心身をすり減らしているというのに、これ以上生気を失っては早死にまっしぐらだろう。

 ヴェロニカは「うーん、マジか」と天を仰いで考え込む素振りを見せた。どうやら、本当に断られることを想定していなかったらしい。羨ましすぎるほどの楽天家だ。

「とにかく、もう寝るから帰ってよ。明日も仕事なんだ」

「えー、今から私とキスすることのメリットをプレゼンしようかと思ってたのに」

「ちなみに、どんなメリットが?」

 ちょっと気になったので聞いてみると、彼女は『よくぞ聞いてくれた』とばかりに胸を張った。

「まず、私とキスをすると血中の幸福イオンの濃度が上がって幸せな気分になります! あとは夢魔の波動によりリンパの流れもよくなって、健康になれます!」

「……」

 どう聞いたって、怪しいエセ科学商品の説明だとしか思えない。

「慎重に検討させていただきます」

「あ、知ってますよ! それを言う人間は絶対に検討してくれないって!」

 やいのやいの文句を垂れるヴェロニカを無視して、僕は寝室に向かった。こんなことで睡眠時間を削っていられない。

 扉を開けようとしたところで、僕はふと彼女の方を振り返る。

「……寝てる間にこっそりキスしてこないよね?」

「いえ、それはしません。最近はコンプラ厳しくて、そういうことをすると上からこっぴどく叱られちゃうので」

 なるほど、夢魔の世界もなかなか大変らしい。しかし、それを聞いて一安心だ。

「んじゃ、もう帰ってよね」

「おやすみなさい! また来ます!」

 寝室の扉を閉める直前、そんな言葉を残して彼女は去っていった。

 別に来なくてもいいのだけど。


                  2


 ヴェロニカは翌日も姿を現した。

「まずは仲良くなるところから始めましょう! 私のことは『ロニー』と呼んでください!」

 どうやら、少しずつ距離を詰める方針に切り替えたらしい。

「貴方のことはなんとお呼びすればいいですか?」

「好きにして」

 ヴェロニカ改めロニーの話を適当に聞き流しながら、昨日の残り物をレンジで温めて、食卓に並べる。もちろん、僕の分だけだ。

「……そういえば、貴方の名前ってなんでしたっけ?」

 知らずに来てたのかよ。

 偽名を名乗ろうかとも思ったが、気の効いた名前が出てこなかったので、仕方なしに僕は本名を口にした。

「蓮見蒼」

「はすみ、あお……じゃあ蒼さんですね!」

 教えたあとで名前を知られたことによる弊害がないかという考えが脳裏をよぎったが、まぁ彼女は悪魔や死神ではなく夢魔なので、きっと大丈夫だろう。

 食事の用意ができたので、僕はロニーを尻目にさっさと食べ始めることにした。彼女のことを気にしていたら、いつまでたっても夕飯にありつけなさそうだ。

「あ、じゃあ私も」

 彼女は特に気にする素振りもなく、どこからか取り出したコンビニの袋から『50円引き』のシールが貼られたミートドリアをテーブルに置いた。

「いただきまーす」

 プラスチックのスプーンでドリアを口に運ぶロニー。たちまち、その顔が幸せそうにほころぶ。

「ん~♪」

「……そういうの食べるなら、人の生気を吸う必要なんてないんじゃない?」

 僕が率直な疑問を口にすると、彼女は「それとこれとは話が別です」と唇を尖らせた。

「確かに人間の食事はおいしいし、ちょっとだけ生気も回復できますけど……私たち夢魔にとっては、あくまで娯楽の範疇なんです」

「はぁ……」

 要するに、人間でいうところのおやつみたいなものだろうか。

「なので、蒼さんにはぜひ! 私とキスを!」

「ちょっと味付け薄すぎたかな……醤油でも足すか」

 ここぞとばかりに身を乗り出すロニーを無視して、僕はキッチンに立った。

「つれないなぁ……」

 ロニーが不満そうに頬を膨らませる。できれば彼女にはずっとおやつだけで満足していてもらいたいものだ。


                  3


 それから、ロニーは毎日のように僕の部屋を訪問してきた。慣れとは怖いもので、彼女と一緒に食卓を囲むのが当たり前になりつつあった。

「……そういえば、ロニーっていつもセブンのお弁当食べてるよね」

 一週間ほど経ったある日のこと、僕はふと彼女にそんな疑問を投げ掛けた。

「なんかこだわりでもあるの?」

「んー……こだわりというか、私のバイト先なんですよね。駅前のセブンイレブン」

「えっ、バイトしてるの?」

 意外すぎる返答に、思わず尋ね返してしまう。

「当たり前じゃないですか。今時分、お金がないと生きていけませんよ。貯金しとかないと老後も心配だし」

 夢魔とかいうファンタジックな存在の癖に、やたら生々しい発言だ。ちょっと親近感が湧いてしまう。

「最近は物価高で色々キツいんですよねぇ……」

 物憂げに頬杖をつきながら、彼女はコンビニのおむすびを口に運んだ。今日の夕食はそれ一つだけらしく、空っぽのレジ袋がテーブルの端に空しく転がっている。

「……」

 少しだけ迷った末、僕は席を立ち、追加の箸を手にテーブルへと戻った。

「はい」

「……えっ?」

 差し出された箸を目にして、彼女は困惑の色を浮かべる。

「食べなよ。さすがにそれだけじゃ足りないでしょ」

 半ば無理やり彼女に箸を握らせて、僕は野菜炒めの皿をテーブルの真ん中にスライドさせた。

 ロニーが僕の顔と野菜炒めを交互に何度か眺める。一往復ごとに、その口元に笑顔が広がっていくのが分かった。

「いいんですか!? えへへ、ありがとうございます!」

 嬉しそうに皿へ箸を伸ばすロニー。

 ……正直なところ、ここ数日は彼女の前で自分だけちゃんとしたものを食べていることに、罪悪感を覚えつつあったのだ。

「おいしい~♪ 人の手料理なんて、久しぶりに食べました!」

 頬を桜色に染めながら、ロニーが感嘆の声を上げた。

「手料理って呼べるほどのものじゃないけどね。かなり手抜きしたし」

 気恥ずかしくて憎まれ口を叩いてしまうが、ロニーはお構いなしにパクパクと食べ進める。

「手を抜いてこのおいしさということは、蒼さんは料理上手なんですね!」

「べ、別に……普通だと思うけど」

 ただの野菜炒めからそこまで褒められるとは思ってもおらず、僕は照れ隠しにご飯を口いっぱい頬張った。

 ──今日の夕飯がいつもより美味しく感じたのは、僕の腕が上がったからだと思っておこう。


                  4


 ロニーと出会って分かったのは、夢魔も案外俗っぽいということだった。

 コンビニでバイトしていたり、物価高に頭を悩ませているのは言わずもがな、毎月少女漫画の雑誌を買っていたり、TOEICを受検するために英語の勉強をしていたり、休日は近所のイオンをぶらついたりもしているらしい。

「夢魔も人間も、本質的には大して変わらないんですよ」

 僕が作ったハヤシライスを食べながら、ロニーがそんなことを口にした。

「私の友だちにはK-Popが好きな子もいるし、ツーリングが好きな子もいるし、推しキャラのグッズのために生活を切り詰めてる子もいるし……」

「いや、最後のはどうなの」

 あまりの人間臭さに苦笑いが漏れてしまう。しかし、それを聞くと、確かに僕の周りにいる人たちとなんら変わりがないように思える。

「──だからほら、私とキスするのも、人間とキスするのも、どっちも一緒ですよ! というわけで……」

「人間とキスしても生気は吸われないから」

「うっ」

 途中までは彼女の話に納得していたが、その落とし所については折り込み済みだ。僕に話を両断されて、ロニーが押し黙る。

「別に生気を吸われたって死ぬわけじゃないのに……」

 たとえ死ななかったとしても、明らかに体に悪そうだし寿命も縮みそうだ。

「何をしたら蒼さんは私とキスしてくれるんですかね……やっぱりお金ですか?」

「なんでそうなるのさ」

「むぅ……」

 ロニーが真剣な眼差しで僕を見つめる。その深い紫色の瞳に心を見透かされそうな気がして、僕はそそくさと目を逸らした。

「……もしかして、」

 たっぷり10秒ほどの沈黙の末、彼女が重々しく口を開いた。

 果たして何を言われるのだろうかと、僕の胸がにわかに早鐘を打つ。

「蒼さんって熟女好きですか?」

「…………」

 薄々感づいてはいたが、ロニーの地頭はあまりよくないらしい。


                  5


 最近、会社の状況が芳しくない。

 元からブラックに近いグレー企業ではあったが、円安の煽りを受けて経営が傾き始めた結果、その気質が次第に色濃く表れるようになってきた。

「最近疲れてるみたいですけど、大丈夫ですか?」

 夕飯の席で、ロニーが僕の顔を心配そうに覗き込んできた。

 今日の夕飯はレトルトのカレーだ。ここ一週間は食事を作る気力が湧かず、レトルトや冷凍食品、スーパーのお惣菜などに頼りきりになっている。

「ちょっと休んだ方がいいんじゃないですか?」

「……休めるなら休みたいけどね」

 無責任な発言に少し苛立ってしまう。ロニーに悪気がないのは分かっているのに。

「そ、そうですよね、すみません……あー、そうだ! 聞いてくださいよ、今日コンビニに変なお客さんが来て……」

 僕の心情を察したのだろう、彼女は慌てた様子で話題を切り替えて、今日あった出来事を面白おかしく語りだした。

 ロニーはポンコツだし隙あらば生気を吸おうとしてくるものの、根は優しくていい子だ。そんな彼女に気を使わせてしまったことに、胸がチクリと痛む。

「えーっと、あとは……あの、私の知り合いの話なんですけど──」

 ロニーは話題を途切れさせまいと、つとめて明るく話を続けた。その気遣いに報いようとなんとか笑顔を取り繕うが、たぶん愛想笑いだとバレていた気がする。

「ごちそうさまでした……」

 結局、最後までぎこちない晩餐となってしまった。ロニーは僕に休むように言って、自ら皿洗いを申し出た。それが終わると、「また明日!」と彼女はいつも通りに去っていった。

 ……そういえば、今日は「キスしましょう!」って言ってこなかったな。

 

                  6


 いつもより遅く会社から帰宅すると、今日もロニーは当たり前のようにそこにいた。

「あ、おかえりなさい蒼さん! 肉じゃが温めますね」

 テレビから流れる夜の報道番組が、円安の影響についてしきりに報じている。ロニーが立ち上がったあとの机にはTOEICの問題集が残されており、ニュースを見ながら勉強していたことが伺える。

「いやー、英語って難しいですねぇ。世界中みんな同じ言葉をしゃべればいいのに」

 レトルトの肉じゃがを冷蔵庫から取り出しながら、ロニーがぼやいた。

「……あのさ、」

 彼女がそれをレンジに入れようとしたのを見て、僕は口を開いた。

「はい?」

「今日は夕飯いらないや。ロニーだけで食べてよ」

「えっ」

 ロニーが目を丸くする。

「食べてきたんですか?」

「……ううん」

 僕が首を振ると、彼女は肉じゃがの袋をいったん置いて、こちらに駆け寄ってきた。

「体調、悪いんですか?」

「いや、なんかちょっと疲れてて」

「確かに最近は帰りが遅いみたいですけど……でも、何か食べないと余計に弱っちゃいますよ」

「食欲が出たら食べるから、今はいい」

「でも……」

「本当にいいから」

 つい、彼女を突っぱねるような言い方になってしまった。それが後悔となって僕の心を蝕み、耐えきれず彼女から顔を背ける。

「えーっとぉ……」

 ロニーの困惑した声。その声から逃げるように、僕は寝室へと向かった。かねてよりロニーにはそこへ入らないように伝えてあるため、寝室の扉は実質的に僕らを分かつ結界のようなものだ。

「あっ……そ、そういえば、私もそろそろダイエットしようかなーなんて思ってたところでした! 今日は二人で断食ですね! あはは……」

 ロニーが力なく笑った。それに笑い返すこともなく、僕は寝室に一人閉じこもった。

 これほど優しくふるまってくれるロニーにさえ冷たく当たるなんて、僕は最低だ。こんなクズなら、仕事もうまくいかなくて当然だろう。

「っ……」

 自分に嫌気が差して、ベッドの中で少し泣いた。

 明日が来なければいいのに。


                  7


 その日、家に到着したのは、日付が変わったあとだった。

 部屋の電気は消えている。僕があまりにも遅くて帰ってしまったのか、あるいは愛想を尽かされたのか──

『お前ほんと使えねぇな! 今のウチの状況わかってんのか!? お前みてぇな穀潰しを飼ってる余裕なんてねぇんだよ! 能無しなら能無しなりに寝る時間削ってでも仕事しろやボケ!』

「っ……!」

 会社で受けた上司からの叱責がフラッシュバックし、足がフラつく。なんとか倒れまいと踏ん張るが、椅子の脚につまずいてしまった。

「痛った……」

 転んだ拍子に、肘を棚に打ち付けてしまう。立ち上がる気力もなく、僕はソファーを背もたれ代わりに床に座り込んだ。

 肘に青アザができている。でも、そんなことはどうでもよかった。

 時計の秒針の音が、いやに大きく聞こえる。何もしていなくても時間は勝手に過ぎていく。あと5時間ほどで、また会社に行く準備をしなければならない。

 気分が悪い。吐き気がする。でも、今日は朝から何も食べていないので、胃酸くらいしか吐くものがない。

 僕はゆっくりと目を閉じた。寝られる気はしないが、まぶたを開いていることにさえ体力を消耗してしまう。

 ……いっそこのまま、部屋に強盗でも押し入って、僕のことを刺してくれないだろうか。そうすれば明日は出社しなくて済むし、最悪死んだって──

「……蒼さん?」

 ふいに、耳慣れた声がすぐ近くで聞こえた。

「ち、ちょっと蒼さん! 大丈夫ですか!?」

 体がゆさぶられる。僕はゆっくりと目を開けた。

「……あぁ、ロニー」

「『あぁ、ロニー』じゃないですって! 顔、真っ青ですよ!?」

 彼女の顔には、もはや心配を超えて不安の表情が浮かんでいた。

「今日は来てないのかと思った」

「来ないわけないじゃないですか! ただ、あまりにも蒼さんの帰りが遅いから心配で……探すために外に出たんですけど、見つからなくて……それで、戻ってみたら鍵が開いてて……」

 なるほど、すれ違いになっていたのか。愛想を尽かされたわけではないと知って、えもいわれぬ安堵感がため息となって漏れ出た。

「そんなことより、蒼さんの方ですよ! そんな今にも死にそうな顔して……! ちゃんとご飯食べてるんですか!?」

 僕は静かに首を振った。

「なんかもう……いいかなって」

「い、『いいかな』? それってどういう──」

「あのさ、ロニー」

 うろたえるロニーの言葉を遮って、僕は彼女に呼びかけた。

「は、はい。なんですか?」

 ロニーが緊張と混乱の入り交じった眼差しで僕を見る。

 僕は少しだけ覚悟を決めるために天井を見上げ、そしてロニーの綺麗な瞳を見つめ返した。

「────キス、してもいいよ」

「……はい?」

 ロニーが素っ頓狂な声を挙げる。

「だから、キス。したかったんでしょ?」

「い、いや、それはそうですけど! 今じゃなくないですか!?」

 至極もっともな指摘だ。しかし、僕にとっては『今』がベストタイミングだった。

「第一、今の蒼さんから生気を吸ったらそれこそ命に関わることに──」

「いいよ、別に。なんか、このまま生きててもどうしようもなさそうだし。だったらせめて、ロニーに生気をあげてから死にたい」

「なっ……!」

 ロニーが瞳を震わせて絶句した。

 無理もない。僕は今、彼女に『殺してくれ』と頼んでいるも同然なのだ。

「そ、そんな……そんなの……」

 こんなに辛そうなロニーの顔を、僕は初めて見た。『そんな顔をさせてごめん』という言葉が、喉に詰まって出てこない。

「…………」

「…………」

 静寂は、無限とも思えるほどに長かった。

 秒針の音が耳鳴りに変わる。

「……本当に、」

 先に沈黙を破ったのは、ロニーの方だった。

「本当に、いいんですね?」

 震える声で、彼女はそう尋ねた。

「いいよ」

 僕は端的に答える。

「後悔しないですか?」

「しないよ」

「あとで『ファーストキスだったのに!』とか言わないでくださいね?」

「言わないよ」

 こんな時にでも飛び出すロニー節に、思わず苦笑してしまう。

「じゃあ──」

 ロニーの手が、僕の頬を穏やかに包み込んだ。僕は目を閉じて、静かにその時を待った。

 少しずつ、彼女が近づいてくる気配がする。前髪が触れ、鼻先が触れ、吐息が唇にかかる。

 そして、一拍置いて、

「────」

 僕はロニーと口づけを交わした。

 それは砂糖みたいに甘くもなければレモンみたいに爽やかでもない。


 ヴェロニカのキスは、ただただ優しいものだった。


「……」

 そして、彼女はゆっくりと僕から唇を離した。いったい何秒ほど経ったのかは分からないが、それなりに長かったと思う。

「……ふふっ」

 ロニーが照れたように笑う。つられて、僕の口角も少しだけ上がる。

「しちゃいましたね、キス」

「まぁね」

 冷静を装っているが、脈拍は間違いなく速くなっている。黙っていたらそれを悟られてしまいそうで、僕は目を泳がせながら口を開いた。

「あー……なんか生気を吸われるって言うからもっと苦しいのかと思ったけど、全然そんなことなかったよ」

 話しつつ、自分の体をぐるりと見渡してみる。漫画やなんかだと、こういう時は皮膚がシワシワになってミイラ化するのが定番だが、今のところそのような兆候は見られない。それどころか、少し血色が良くなっているような──

「あぁ。別に吸ってませんからね、生気」

「……へ?」

 ロニーがあっけらかんと言い放った台詞に、僕は間抜けな声を漏らしてしまう。

 この夢魔、今なんて言った?

「だから、蒼さんの生気は吸ってないんですって。なんなら、ちょっと生気をあげました」

「えっ、ちょ……ど、どういうこと? というか、そんなことできるの?」

 今度は僕が困惑する番だった。その様子がおかしいのか、ロニーがクスクスと笑う。

「なんか勘違いしてるみたいですけど、別に夢魔にとって『キス=生気を吸う』ではないですからね? 例えば、ストローをイメージしてみてください。ストローに口をつけても、吸い上げないとジュースは飲めないですよね? それと同じです」

「えぇ……」

「それに、ストローを使えば口の中のジュースをコップに戻すこともできます。今回はその要領で、蒼さんに生気を送り込みました」

「いや、その例えはちょっと気持ち悪い」

「なんでですか! せっかく私がなけなしの生気を分けてあげたのに!」

 ロニーが僕の胸ぐらを掴んでブンブンと揺さぶる。

「そんなこと言うなら返してください! 私の生気!」

「やなこった。一度もらったからにはもう僕の物だからね」

 僕らはしばし子犬のようなじゃれあいを披露した。いつの間にか、僕は声を上げて笑っていた。こんなに楽しい気分になるのは、いつぶりだろうか。

「……ふぅ」

 ひとしきり笑ったあとで、僕はゆっくりと立ち上がった。ロニーのおかげで脚に力が入るようになったので、もう転ぶことはなさそうだ。

「蒼さん」

 ロニーが僕の名前を呼んだ。視線を向けると、彼女は座ったままこちらを見上げていた。

「もう自暴自棄になったりしちゃダメですよ。本当に心配したんですからね」

「うっ……わ、わかったよ。ごめん」

 珍しくロニーが怒ったような顔をしていたので、僕は素直に謝ることにした。

「分かればよろしい」

 たちまち、彼女はいつもの朗らかな表情を取り戻す。やっぱり、彼女には笑顔がよく似合う。

 僕はロニーに手を差し出して、彼女が立ち上がるのを手伝った。

「ありがとうございます」

 ロニーが僕の隣に立つ。それと同時に、僕のお腹の虫が情けないうめき声を上げた。

「……お腹空いた」

 生気を取り戻したおかげだろう、久方ぶりの食欲が芽生える。

「今からサイゼでも行こうかな」

「えっ、今から? それ、大丈夫なんですか……?」

 時刻は午前2時過ぎ。今から外に食べに行くとなると、明日の仕事に響くことは間違いない。きっと、ロニーもそれを気にしているのだろう。

「うん、平気平気」

 鞄から財布を取り出し、玄関へ向かう。僕の心には、とある決意が固く刻まれていた。

「あのさ、」

 靴ひもを結んで、ロニーの方へ振り向く。

「明日、会社に退職届を出してくるよ。あんなところで働いてたって、それこそどうしようもないし。今日はその景気付けってことで、何かおいしいものでも食べようと思うんだ。ロニーも来るよね?」

 僕はロニーに向かって右手を差し出した。ロニーは一瞬だけ面食らったような顔をしたが、すぐさまその手に左手を重ねた。

「はい!」

 僕らは連れだって、星明かりの街へと繰り出した。サイゼリヤまでの道すがら、明日(日付的には今日だが)のことについてロニーと話し合った。

「辞めるって言ったら、上司にボロクソ言われそうだなぁ」

「そんなにひどい上司なんですか?」

「うん、パワハラの教科書みたいな人だからね」

「うわぁ……でも、今の蒼さんならきっと大丈夫ですよ! 就業規則になんと書かれていようと、法的には退職の意向を伝えてから2週間で辞められますから!」

 意外と法律に詳しい夢魔だった。

「それに、もし退職届を出したことで蒼さんへのパワハラがひどくなったりしたら、私がその上司の生気を吸い付くしてやります!」

 そして、意外と血気盛んな夢魔だった。

「ありがとう。でも、それはいいかな」

 心強いバックアップに感謝しつつも、僕は首を横に振った。

「自分のことは自分で片付けたいし。それに……その、生気を吸うためにロニーがあの上司とキスするのは、ちょっと嫌だ」

「あっ……」

 恐らく、本人もそのプロセスを忘れていたのだろう。彼女はばつの悪そうな表情で僕を見上げた。

「ま、まぁ、とにかく大丈夫です! 蒼さんには、このヴェロニカがついてます!」

 誤魔化すように笑った彼女の顔が、遠くのファミレスの明かりによってほのかに照らされた。

 不安なことは色々とあるけど、それもロニーがいればなんとかなるような気がする。もしかしたら、ロニーに生気を分けてもらったことで、彼女の楽観的な性格まで移ったのかもしれない。

 そんなくだらないことを考えながら、僕は優しくて賑やかな隣の夢魔と笑い合うのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

僕はヴェロニカとキスをしない 日横ヶ原れふ @hiyokogahara_ref

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ