section 20 ハイグレードのピアノ
仙台に到着した蒼真を迎えた由紀の父は、
「すごいなあ!! トヨタか! 優秀な青年だとわかっていたがこれほどとは思ってなかった。すまない、失言した」
「いちばん驚いてるのは僕自身です。実力以上の会社から採用されて不安もあります。僕の父は地元企業の神戸製鋼やアシックスを望んでいたようで、巨大企業のちっぽけなビスになるのかと不安顔で言ったことがありました」
「難しい話は後にして、さあ、足を崩して一杯やろう。僕は息子とこんなふうに男同士で飲むのが夢だったんだ。付き合ってくれるか」
返事を待たずに父は酒を勧め、就活や学生生活や何を学んでいるかなど、エンドレスに質問を続けた。翌朝、二日酔いの頭にピアノが染み込んだ。外へ出て2階を見上げて拍手すると、由紀が顔を出した。
「やっと起きたんですか、飲み過ぎたんでしょ。父はやたら強いのでごめんなさい。いつも東京の方角を向いて一人酒しているようです」
「君はもう空を見上げて涙を拭かないのか」とからかう蒼真に、「いいえ、悲しくないです」、にっこり笑った。
その夜、蒼真はあの男の夢を見た。「お前は俺で、俺はお前だ」、たった一言告げて消えた。
父は午後の診療を臨時休診にして、蒼真を松島や仙台城址、大崎八幡や朝市に連れ出しては喜んだ。
引き止められてつい長逗留してしまい、やっと神戸に着くと母は大喜びで由紀を迎えた。
「あららっ、まあ、由紀ちゃんはすっかり綺麗になっちゃって、見違えたわ。これじゃあ、アンタは振られそうだ」
「母さん、室田さんは今年もピアノを貸してくれるのか?」
「ぜひ使ってくださいと言ってくれたけど、もっとすごいとこを見つけたの、楽しみにしてね。夕飯が終わったら連れて行くわ」
日が暮れた神戸駅前のメインストリートをしばらく歩いて、母がドアを押したのはヤマハのショールームだった。
「お待ちしていました。そのお嬢さんですか、ピアノを弾かれる方は。さあどうぞ入ってください」
店長は、奧の1段高いフロアに飾られているグランドピアノの前に案内して、カバーを取った。
「あの~ こんな立派なピアノで練習させていただいて本当にいいんですか?」
それはフルコンクール仕様のハイグレードなピアノだった。多くの国際コンクールで使用されるスタインウェイと同じように、キラキラした高音とズシンと響く重低音が弾き出せる逸品だった。
「どうぞ遠慮なく存分に使ってください。譜面はすべて揃っています」
由紀は眼を輝かせてピアノに触り、音を確かめた。
「すごい、完璧な調律です! このピアノを弾かせていただくなんて夢みたいです、とっても嬉しいです!」
由紀は迷わず弾き始めた。最初は1音づつ音を確かめたが、情熱的にそして物悲しく、瞬時に変化する旋律を奏でた。漏れ聴こえるピアノ演奏に道行く人が足を止めて、ガラス越しに覗き込んだ。店長は外に佇む人々を「みなさん、どうぞご遠慮なくずっと奥へお入りください」と招き入れた。
由紀は聴衆に気づかず、憧れのピアノに触れる喜びで興奮し、次々とショパンの名曲を譜面なしで奏でた。しばらく経って大きな拍手を受けた由紀は我に帰り、頬を染めて頭を下げた。
見ていた蒼真は、母は由紀の練習ピアノを探して交渉したのか? その交渉力とパワーに呆れたが嬉しかった。
店長が「このピアノはどうですか? 気に入りましたか?」と尋ねると、
「最高です! このレベルのピアノは大学にもありますが、こんなに完璧な調律ではありません。まるでピアノの妖精がお喋りしているような繊細な響きを初めて知りました。そして音の緩急の反応が信じられないほど速いです。素晴らしいピアノです! 本当にありがとうございました!」
「飾り物になっていたこのピアノも喜んだでしょう! 音を出してこそピアノです。午前9時から12時まで毎日お使いください。明日もお待ちしています」
家に戻ると父が、
「母さんが話をまとめた。毎日使っていいそうだ。しかし、ショールームとはいい所に眼をつけたと感心したよ。ものすごく高価なピアノらしいが、そんな物が売れるのかね? だが、いいピアノはいい弾き手がいて初めていい音を出すと聞いたことがある。由紀ちゃん、良かったな!」
「ピアノってそんなに違うのか?」
「まったく違います。ポンと指で鍵盤を叩いた時に出る音、叩かれた鍵盤が共鳴する感覚が違います。グランドピアノは連打するトリルがスムーズで、ペダルを使って微妙に音を変化できます。アップライトでは、ショパンやシューマンの全曲、モーツァルトのソナタは譜面どおりの正しい音が出せないパートがあるんです。今日はとても幸せでした。お母さま、ありがとうございます!」
「いいのよ、気にしないで。役に立って嬉しいわ。ここにいる時は毎日通いましょう。もう疲れたでしょ、お風呂に入って寝たほうがいいわよ」
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