section 18 愛しく歌う恋人たち
残り少ない夏休みを多摩川の河原で水遊びし、吉祥寺のカラオケ店に通い、互いの住まいがクロスするコインランドリーでマッチングして、どちらかの部屋に帰った。後期授業が始まってまもなく母の電話があった。
「由紀ちゃんは元気? お世話になりましたと手紙はもらったけどホントに元気なの? いつも心配してるのよ」
いつか母が「女はそんなにヤワじゃない」と豪語したセリフを思い出して愉快になった。
「昨日会ったが元気だ、何か用か?」
「まったくアンタはアイソがないわね。昨日なんだけど室田さんちのデキソコナイが来て、由紀ちゃんの連絡先を教えてくれって。ちょうどお父さんが帰って来て、ピアノのお礼を言って、良かったら一献どうですかと誘ったの。
キッチンで聞いてたけど、お父さんの聞き上手に誘導されて、大阪の音楽大学に進学して挫折したみたいなことを喋ってた。
由紀ちゃんの携帯を教えてくれと言ったデキソコナイに、由紀ちゃんは学内のコンクールで1位になってロンドンにピアノ留学したが、そこで自分のテクニックに絶望して死のうとしたんだ。やっと蘇ってくれたが、そこまで自分に絶望したことがキミはあるか? 息子はロンドンに行って苦しんでいる恋人を支えた。人は何も語らないが後悔や絶念を抱えて生きている、キミだけじゃないぞと言って、アンタのアクシデントも話してたわ。黙って聴いてたデキソコナイは、頭を下げて帰って行ったの。話上手で口説き上手のお父さんにかかっては、勝負は最初から決まったもんよ。アンタ、ぼけーっとしてたら由紀ちゃんを他の男に取られるわよ。それじゃあ、頑張って!」
母は電話の向こうで楽しそうに笑ったが、何を言ってるんだか。蒼真はふーっと息を吐いた。
秋風が吹く季節になったが互いの大学の学園祭に出かけ、時間を合わせて熱々の夜を過ごした。就職活動中の蒼真は、見聞が広がるぞと企業の展示会やイベントに由紀を連れ出した。由紀は蒼真と過ごす時間以外は練習に没頭し、指導教官の期待に応えた。
11月になると、蒼真は小金井にある自動車学校に通い、時々は由紀を見学させた。狭い教習所内をウロウロする蒼真の車に手を振る由紀は、添乗の指導教官を苦笑させたが、由紀の応援を受けた蒼真は1発合格した。
「どうだ、ストレートで取れたぞ! 車があればどこでも連れて行ってやる」
「はーい、おめでとうございます! 私に車は無理でも自転車くらい乗りたいなあ。教えてくれますか?」
「言ったな、本気か? よし、明日から練習しよう」
次の日から、多摩川の河川敷で自転車の特訓が始まった。背後から支えてもらい、幾度も転んでは膝頭をズルムケにしたが何とか走れるようになった。ある日、スイスイ気持ち良くぶっ飛ばす由紀に、「スピード落とせ!」と蒼真が叫んだ瞬間、真正面を少年の自転車が横切ろうとした。あっ、ぶつかる!! 慌てて左にハンドルを切った由紀は、ズズズッと土手を滑り落ちて見事に多摩川にはまり、水深は浅かったがずぶ濡れになってしまった。幸い擦り傷程度で済んだが、蒼真はひやりとした。オマエはわかってるか? 指や腕を骨折するな! 夢が終わるぞ! 心配で仕方がなかった。
帰宅途中でびしょ濡れの由紀を後ろに乗せた蒼真は、警察官に呼び止められ、ふたり乗りを注意された。
「すみません。妻が多摩川に落ちて家に帰るところです。家はあの角です」
「大丈夫ですか、救急車を呼びましょうか?」
本気で心配した若い警察官に笑いそうになったが、頭を下げて部屋へ急いだ。部屋に入った途端、ゲラゲラと笑い出した由紀をポカリと叩いて、「下手なくせにスピードの出し過ぎだ」、シャワーを浴びせてベッドに放り出した。
「妻と言ったでしょ、よくそんな言葉が出ましたね、笑い出しそうで必死に我慢してました」
「おい、これは苦肉の策だ。効果抜群の言い訳だ」
抱かれても由紀はまだ笑っていた。そんな由紀がシャクにさわって乱暴に攻撃を続けた。その強烈な連続シュートに耐えられず、由紀は涙眼で喘いだ。ごめんな、またムチャしちゃった……
年の瀬になり、短い冬休みを由紀は仙台へ、蒼真は就職の相談があって神戸に帰った。
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