百魔剣物語——聖女と魔女と王者の魔剣——

せてぃ

序章

魔女

第1話 セイレンの魔女

 どうしてこんなことになった。

 木立の隙間を縫って、宵闇の中をとにかく走る。手にした角灯ランタンの明かりと、時折差し込む冷たい月明かりだけが頼りの森の中、獣道さえないが、とにかく走らなければならない。追手は掛かっているはずで、捕らえられることがあれば、命はない。仲間たちと同じように。

 いや、と軽装の鎧を纏った兵士は思う。この状況を脱することができるとは思えなかった。半ば以上、自分の命は諦めている。それでも走るのは、この状況を局長に伝えなければならないからだ。自分が伝えなければ、あの古都に巣くう『魔女』が本物であることを報せることができない。

 局長に報せることができれば、仲間たちの死に報いることができる。本能的恐怖よりも使命感に突き動かされて走る兵士の胸には、天空神教会の紋章と、その教会の中に創設されたある騎士団の紋章が並んでいた。


「そう。それがあなたという人なのね。でも、もう疲れたでしょう」


 唐突に、耳元で声が聴こえた。兵士はあまりのことに驚き、声の聴こえた右側とは反対に飛び退った。

 そして、周囲の異常に気が付いた。

 雪が降っていた。真っ暗闇の夜の森の中に、しんしんと大粒の白い雪が降り注いでいた。雪は地面に落ちても大半は溶けず、その上にさらに雪が重なることで、瞬く間に降り積もっていく。

 だが、ここはアヴァロニア大陸の西方である。北方諸国連合のように、雪の降る土地ではない。それに、つい先程まで、月が出ていた。雪が降るような空でも、気温でもなかったはずだ。

 そこまで考えたとき、兵士は自分の周囲が異常に寒いことに気が付いた。兵士には雪の降る土地で生活した経験はないが、この気温なら雪が落ちてきても不思議には思わないだろう。それに……


「真面目な人。あなただけが背負うことではないの。他の皆さんも、もう休んでいるわ」


 突然、あまりにも急激な眠気を感じていた。立っていることもままならないほどの眠気である。耳元で女の声が続いている。初めこそ驚き、周囲を見回して、誰もいないことに戦きはしたが、次第に強すぎる眠気が兵士の警戒心を、思考を奪っていく。


「穏やかに。安らかに。眠りにつくの」


 兵士は膝を付いた。この雪が、この寒さが、ここで眠気に身を委ねてしまうことがどういう結果を招くのか、薄れ行く意識の中でも理解できた。必死に抗うが、すぐに抗う理由すら曖昧になった。

 この雪も、寒さも。あの『魔女』にはそれを。その理解だけが兵士の思考に残った。


「おやすみなさい」


 兵士が最後に聴いたのは『魔女』の声。それは子どもの頃、お伽噺に聞いた、優しく、しかし夢見ることのない深い深い闇へと誘う『セイレンの歌姫』の声に聴こえた。

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