図書館にて
サントキ
図書館にて
なんの前触れもなく、その少女はやってきた。聞くところによれば神官様ということであった。
ハスターを崇拝する者達が集い、各々が研鑽を積むために利用する薄暗く静かな図書館の中では、自ら光を放っているかのように輝く金色の髪と、小鳥の囀りのような声は一際目立つ。ジロジロ見ては失礼だろうと、神官様を見ないように意識していても、たびたび誘惑に負け、書物から視線を外して神官様を見やってしまうほどである。
神官様は気ままに口笛を吹いたりそこら中を歩き回ったり、梯子を登って本の表紙を眺めたりし、飽きたら図書館から出ていくのが常であった。あまり行儀の良いとは言えない行動だが、この図書館はハスター様……崇敬すべき神……の所有物であり、神の支配下で許されているのだから何も問題はないのだろう。
神官様は、非常に魅力的だった。気ままに動き回る様も、歌声も、三つ編みにされたつややかな髪も、瞳も。
瞳……自分は図書館に住んでいると言ってもいいほどに長いこと居るのもあって、一度だけ神官様と目が合ってしまったことがある。
恐ろしい瞳だった。うっとりと潤んだ蜂蜜色の瞳を直視した瞬間、脊髄が震えるような歓喜に満ち、その瞳の向こう側に神の御姿を見出したかのような高揚感を与えられた。
そう、与えられたのだ。
神官様は気にもせず別の所を向いてしまったため、全ての悦楽が一瞬のうちに消えた。それは幸運なことであり、あれ以上に見つめあっていれば、たちまち狂気に陥り、あの若者のように破滅の一途を辿ったに違いない。
事の起こる以前、おそれ多くも神官様と言葉を交わすのは、変な帽子を被った幼女の見た目の魔術師のみであった。
それは神官様から師匠と呼ばれており、何らかの特別な関係があることは瞭然だったので、我々のような関係のない木端の魔術師がお声を掛けるなど以ての外である、といった共通認識があったのだろう。少なくとも自分にとってはそうであったし、それ故に口笛に耳を澄ませることもしなかった。
誰もが神官様に心惹かれながら、関わらないようにしていた。関わろうとしなければ、あちらから関わってくることもなかった。
あの可哀想な若者が信仰に目覚め、図書館に入ることを許されたのは、神官様が図書館に遊びに来るようになってから少し経った頃のことだった。
聡明そうな青年で、年を考慮すれば素晴らしく多くの知恵を備えていたが、やはり若者らしい愚昧さもあった。そんなものは歳月を経れば自然と洗練されるのだから、なんら問題はないはずなのだが。
今となっては、歳月を重ねられればという仮定の話だ。
彼が来て日も浅いある時、彼は神官様の登っている梯子の下でぼんやりとしていた。もしや神官様に近づこうとしているのかと心配になり、若者へ声をかけたところ、取りたい本がその梯子を使わなければいけない場所にあるものだから待っているのだと言う。
それは急かしているようであるし、そこで待っていると神官様がお降りになった時にうんと近くになってしまう。そう注意すると若者は素直に聞き入れ、しばらくその場を離れようとした。が、神官様にその会話を聞かれていたのか、神官様は梯子の上から若者を呼び止め、問うた。
「気づかなくてごめんなさい。あなたの求めている本はどれですか。代わりに取りますよ」
若者は目を丸くしていたし、私は驚きのあまり腰が抜けそうだった。
神官様が我々に話しかけることなど無いと思い込んでいた。あまつさえ気遣う素振りを見せるなど信じられなかったのである。
自分が絶句している傍ら、若者はすぐに気を取り直して『セラエノ断章』の日本語訳版を取ってほしいと頼んだ。私は若者の物怖じしない態度に内心気が気でなく、少し意識が遠くなったのを覚えている。
神官様は棚から求められた本を取り出すと、黒いローブを翻して舞うように飛び降りた。軽い足取りで若者へ歩み寄ると、はにかみつつ
「お時間を取らせてごめんなさい。梯子遊びは良くないですね」
と言って本を差し出した。
若者が本を受け取ると、神官様はさっさとどこかへ行ってしまったのだが、若者はその様子を目で追い、たちまち強い酒でも飲んだかのように顔を赤らめた。
若者に声を掛けると、彼は指先に触れてしまったと呟いて、本を抱えて机に戻っていった。
あの日以来、彼が恋に落ちたのは明らかだった。彼はずっと神官様を目で追うようになっていた。
最初のうちは、広大な図書館でたまたま視界に収められるところにいる間だけ。机から見えないところに神官様が居る時は、落ち着かなげに作業をしていた。
そのうち、それだけでは気持ちが収まらなくなったのだろう。机から見えないところに神官様がいる時は、本を取りに行くふりをして神官様を見にいくようになっていた。
自分にはそのような行為が許されるとは思えず、若者に注意したことがある。彼女が誰であろうと、追いかけてまでジロジロと見るのは好ましくないし、我々の本分は研究なのだから浮つかずに自制するようにと。
若者は一旦反省したようで、少しの間は神官様への興味を抑え込んでいた。が、まだ若い彼にとって、燃え上がった恋情を制することは不可能だったのだろう。結局はもとに戻ってしまった。
やがてその恋はその身の破滅を持って終わる時が来た。
その日、彼はいつもの如く机から神官様に見惚れていたようだが、突然ビクリと身体をこわばらせた。視界の端で若者が妙な動きをしたものだから、思わずその光景に目を向けた。彼の視線の先に、神官様の瞳があり、彼をまっすぐ見据えていた。
数秒間、彼も神官様も、動かなかった。お互い見つめ合っていた。
硬直を解くように神官様が頬を紅潮させて微笑んだ瞬間、愚かな若者は見えない力にグイと引っ張られるように神官様のそばへ駆け寄り、腰を片手で抱き寄せ、左手を頰に添えた。口づけをしようとでもしたのだろうか、彼が僅かに顔を神官様に近づけると、その体勢で固まった。表情は窺えなかったが、おそらく間近で彼女の瞳を見つめたのだろう。
彼は仰け反って狂ったように笑い出すと、大粒の涙をボロボロと流しながら神官様を突き放して床に這いつくばった。二、三回腕をふると、全身がゼリーのように溶け崩れた。
それは、みるみるうちに人から獣に、と思えば獣から人に、進化の過程を嘲笑するかのような目眩くおぞましい変貌をまざまざと見せつけながら、激しいプリズムを放ち、やがては真っ黒な液体になった。
神官様はその液溜まりを見下ろし、アララ、と気の抜けた声を出すと、どうでも良さげに口笛を吹いて図書館から出ていった。
それから、神官様が我々の眼前に姿を現すことはなくなった。
図書館にて サントキ @motiduki666
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