1-17 伸びる触手
いつだったか、今の自分が確立されるよりも前の話。
冷たい水の中で、風に舞う花弁を見ていた。とても心地が良くて、ずっとここにいたいと思っていた。
それがだんだんと、熱くなって、黒くなって……印象に残っているのは、大きな音と禍々しい空気。それから、火薬と油の匂い。
「────────なぁ」
声にハッとして瞬きをすると、そこはすっかり見慣れた職場だった。昼食を食べた後、気が抜けてボーッとしてしまっていたようだ。瞼をこすったアーラは、声の主を見る。
「昨日のあの話、どうなったんだ? 今のところ何も起きてないみたいだが……」
「さぁ? ボクも正直、何も分からないですから。何も無いなら何も無いんじゃないですか?」
「それでいいのか……?」
2人でコソコソと話しているのは、昨日の訪問者が言っていたことについて。結局、何も分からずに会話を終わらせたアーラのせいで、不安ばかりが残った。
しかし、それを感じているのはルプスだけ。アーラは、我関せずといった様子でゴロンと寝転んだ。向こうの方で聞こえる魔法の練習の声。それを子守唄に眠りにつこうとしている。
「……!」
「ん? どうした?」
消えゆく意識の中、確かに見えた天井を舞う青色。その瞬間、眠気などは吹き飛んでアーラは飛び起きた。そして、辺りをキョロキョロと見渡す。しかし、あの青色はどこにもいなかった。
不思議に思ったルプスが声をかけるが、アーラは必死に気配を追っていた。あからさまに無視をされると、あまり気分は良くない。ルプスはアーラの肩をガッと掴んだ。
「おい! 無視するなよ! ……ったく、昨日から何が起こってるんだか……」
「……すみません。ちょっと、有り得ない幻覚が見えただけです」
「逆にそっちの方が心配だわ。しっかりしてくれよ? 頭おかしくなっても、労災なんかおりねぇんだからな」
「……そう、ですね」
すっかり目が覚めてしまったアーラは、起き上がったままボーッと空中を眺める。この場で起きている不思議なこと。今までは疑問ばかり湧いてきて、ただ仮説を立てることしか出来なかった。
昨夜の龍の言葉、気にしないようにしていたが、本当にそれでいいのだろうか。何かとんでもないことが隠されている気がして、アーラは自分の身が危険なのではないかと不安になった。
(……重要なこと……あれは魔法じゃなかった。じゃあ、次に考えられる可能性は……)
魔力を使わずにあれだけのことが出来る。そんな奇跡みたいな事が起こせるのは、アーラが知っている中でただ1つ。長年、人間が発展させてきた"科学"という証明できる奇跡だ。
「あ〜、なんかオレも眠くなってきたな。てか、なんとなく体がダルいっていうか……疲れてんのかな?」
「……頭がフワフワする感じ、ですか?」
「そう! アーラもか? なんかうつしてたらごめんな〜」
そう言って、ルプスは大きな欠伸をした。体のダルさと異様な眠気。霞みがかった思考の理由は、病気なんかではない。ただの勘だが、アーラはそう思っていた。
初日に行った魔力探知。あの時に感じた妙な魔力の流れは、あの世界樹モドキの仕業だと思っていた。それもあるのだろうが、魔獣の攻撃性や昨日の1件に魔力は関わっていないとすると……
(科学……科学か……こんなことなら、真面目に授業聞いておくんだった)
キーンッ──────────
「? 今、何か……」
「ん〜? どうした? さっきから難しそうな顔して」
寝転がったまま、ルプスが眠そうな声を出した。そんなことよりアーラは、微かに聞こえた違和感の正体を思い出そうと首を傾げている。
あの空間にいる消える空耳のような音……確か、学校に行く途中でも聞いたことがある。赤いポストのある曲がり角、パジャマおばさんの家の近くで……
「あ」
「若い時からそんな顔に力入れてるとな、顔がしわしわになっちまうぞ〜」
「……んなことはどうでもいいんですよ。ボク、今とっても面白い仮説を立てたところなんです。 」
「まだそんな探偵ごっこみたいなことしてんのか」
ごっこという言葉に少しムッとしたアーラだったが、反論の余地がなかったため不満を呑み込んだ。そんなことよりも、あの音……あれはモスキート音だ。
猫避けなどに使用されており、不快になるほどの高音を鳴らして、野生動物を追い払う、シンプルだが科学的なアイテム。
人の耳は、歳をとるごとに高音が聞こえづらくなるらしい。つまり、子供には聞こえるが大人には聞こえない音があるということ。それがあのモスキート音。でも、なんでここでそんな音が聞こえるのだろう。
(モスキート音……健康被害……)
適当にスマホで検索をしようとするも、電波のない場所じゃなんの反応もしてくれない。部屋に戻ったら調べてみようと思い、画面から目を離すと、目の前に人の顔があった。驚いて後退ると、その人は楽しそうに笑った。
「! ……びっくりした……何か用ですか?」
「いや? 何か面白いことに気がついたのかなって」
音も気配もなく前に立っていたモルス。大きく跳ねた肩を落ち着かせ、アーラは自分を見る瞳を見つめ返す。しかし、その瞳は少し不気味で、自然と引き込まれそうになった。
「……君のその魔法石、本当になんなの?」
「?」
「まぁいっか。そういえばさ、あのアークって子、初日に魔法使えるとか言ってなかった? あれ嘘だったっぽいね」
「そんな事言ってましたっけ?」
「はは、興味無かったか〜。右から左へ、って感じだね。君は」
何が言いたいのかさっぱり分からないという顔をするアーラの頭をモルスは優しく撫でた。目が離せなかったはずの瞳から視線をズラすと、気持ちよさそうに寝息を立てるルプスが見える。
いつの間にか眠ってしまっていたようだ。その間に、何故かモルスはアーラの隣に座っていた。
「ま、見栄が張りたくなる気持ちも分かるけど。君はそういうことない? 中学生と言えば、そういうお年頃じゃん」
「そりゃ、人並みにはありますけど……事実にしちゃえば見栄にはなりませんし」
「嘘を本当にするってこと? そんな魔法使えるんだ」
「まさか。そんなこと出来たら、こんなとこにはいません」
「だよね」
嘘が先か真が先か。結果しか見られないのなら、順番なんて些細なこと。だが、その結果を出すのが難しいのだ。誰もが1度は考えたことがあるだろう。
無駄なことでも悩む中学生ならなおさら。アーラ自身は、あまりそういうことで悩んだことは無さそうだが。そんな無駄話をしている時、ふと生ぬるい風が頬を撫でた。
「……なんですか」
「ちょっとは狼狽えて欲しかったかな。赤くなるとか」
「茹でダコみたいに?」
視線は真っ直ぐ前を向いたまま。だが、隣にあったはずの気配がすぐ近くまで迫っているのを視界の端で確認できた。
左手は、心音を確認するように胸を這い、右手は耳に触れている。吐息で揺れる髪が、頬をくすぐる。ヒンヤリとした体温が、とても不快だ。
必要以上に物理的距離を詰めてくるモルスに、アーラはやはり何かあると察した。
「……君、それは素? それとも、とんでもない嘘つきとか」
「さっきも言ったでしょう。事実にしちゃえば、嘘も何も無くなるんです」
「…………そう」
その瞬間、耳飾りをチャリチャリと鳴らしていたはずの右手の感触が変化した。ヒンヤリとしているのは変わらない。だが、何かいやらしさを感じた。
咄嗟に体をよじらせたアーラが見たモノは、今まで以上の笑顔を見せるモルスだった。いつもの眠そうな雰囲気は1ミリも感じない。
(……新手の変態だな)
「くふふっ、やっと反応した。やっぱり、無反応なのは心にクるんだよね。仕掛ける側としては」
「……じゃあ、仕掛けなきゃいいんじゃないですか」
「あれ? 怒らせちゃった?」
どっちの意味のクるなんだか。心臓を高鳴らせてしまったことと、顔に熱がこもってしまったこと。生理現象と分かってはいても、ムカついてしまうのだ。
むくれた顔をしたアーラは、転がっているルプスを盾にしてモルスと距離をとった。もちろん、心の壁を何重にもして。
「ちょっと……ほんの冗談じゃんか〜」
「……」
「ごめん、ごめんって」
ルプスを隔てて謝ってくるモルスを、アーラはそっぽを向いて相手にしなかった。それを遠目で見ていた魔法練習中の2人は首を傾げる。
「? 何やってんだ? アイツら」
「さぁ?」
もうすっかり慣れてきた5人は、こうして無事4日目の勤務を終了した。やっと折り返し地点。しかし、気を抜いてはいられない。
蓄積された闇が、いつ牙を剥くのか……それは誰にも分からない。判断を下すのは、いつだって上に立つモノだ。
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