13話・つごもり様 後編 上

『もしもし?』




 僕は思わず両手を畳について深く頭を垂れた。

 無意識に体が動いた。


――――――あのお方だ。

 間違いない。


 あの時、村上くんの家で僕を見ていた視線。

 全身に鋭い針で突き刺さすような罪悪感。

 僕が何もしていないことに対して、深く憤ってらした、あの視線。

 それともあれは「あの粉に触れるな」という忠告だったのではないか、と今になって憶測がよぎる。


 許されたい。

 赦されたい。


 真冬なのに汗があふれる。

 空調が耳鳴りのように頭の中でこだまする。

 畳に額を押し付けると、汗がじわりと染み込んでいくのがわかる。


 本当に罪悪感なのだろうか。

 これは畏怖か?

 それとも畏敬か――……。

 どうでもいいことばかり考えるのは、なんとか申し開きをせねばと言う焦りの所為だ。



「たも…っ」

 驚いた弥勒が僕の名前を呼びかけて、ぐっと飲み込んで堪える。


『ちーちゃん、あけおめ~!今年もよろしくね!』

「うん。こちらこそ。去年は本当にお世話になったから…」

『気にすんなよ。時間が出来たら今度はおれがそっちいくから!それよりも最近は大丈夫?なんもない?』

「ちょっとあったかなー…」


 西さんを労う彼の声の後ろで、大人数人分の笑い声がこだましている。

 声色から恐らく若い男女だ。

「誰かいるの?」

『親戚と2世連盟。大人たちの説教がうざくてさ、俺の部屋に避難してんの。秋津とリカちゃんとけんじと要と、あと日吉。』

『おいおい、晦、それ千鶴かぁ?千鶴、わしじゃ、久しいのぉ!』

「勝くん!久しぶり~。」

 突然割って入った濃声に、千鶴さんの顔がこわばる。

 どうやら苦手な相手らしかった。


『突然都会に帰りおってからに、お前、いつこっち輿入れるんじゃ?』

「晦くんが大学卒業してから、かな。」

 くしゃっと布の擦れる音が聞こえて、お辞儀をした態勢のまま顔だけを上げて弥勒を見る。

 露骨に顔を歪めながら浴衣の端を握りしめていた。

『いつなるんな、それは~!そんな時間かけちょったら適齢期過ぎて柘榴様にどやされるぞ『孫はまだか?』ってな!』

 ヒキガエルのような、まるで品性を感じない卑下た笑い声がスマホから鳴り響く。

 西さんは弥勒と全く同じ表情のまま、もぉ~勝くんったら!と明るく返していた。先程から声色だけ全く変えないのは流石女優といったところか。


『再婚されて兄弟のほうが早く出来ちまうかもよ!』

「おい。」

『ひっ!』

 耐えかねた弥勒が割って入ると息を呑む音が響いた。

『その声は…ふ、藤原さん…い、いらっしゃったんですね。ご、ご無沙汰で…』

 スマホの向こうから、途端に子猿のような小さな返事が返ってくる。

 弥勒を「藤原」と本名の姓で呼んでいるということは、古い間柄なのだろう。


「よぉ~、日吉ィ。元気そうだな…」

『みーちゃん!?』

 日吉の引き攣った笑いに被さるように甲高い男の大声が響く。

 まぁ、という感嘆が誰のものか理解した瞬間、ゾワッと全身に鳥肌が立った。


『あらあら!みぃーちゃん?その声はみーちゃんね?』

「あけましておめでとう、晦。」

『あらまぁみーちゃんだ!みぃーちゃん!可愛い!可愛いお声だねえ!あけましてだねえ!』

「相変わらず元気そうで何よりだよ。」

『そうねそうね~!まぁまぁ!よろちくねえ、新年から挨拶できるのね、えらいでちゅねえ、可愛いねえ~!』

「…………っ。」


 まるで子猫に話しかけるようなゆっくりと甲高い声に、思わず絶句する。

 少なくとも、弥勒のような反社…いや、成人男性に向けて話すにはあまりにもふさわしくない。

 ツイタチのアカウントから人間を愛玩のように可愛がっている素振りをとってはいたが、まさかここまで本格的に「ペットに話しかけるそれ」だとは思いもしなかった。


『だからさ、悪いのは池谷だと思うよ?仮にもアイドルなわけだし…』

『俺もデビューからずっと応援してたけど、既婚者相手はないわー。』

『でも断れる?相手石油王だよ?』

 二人の後ろの青年たちはアイドルの不倫話に持ちきりで、一変した男の様子にこちらを一切気に留めもしていない。

 西さんも、弥勒も、深くため息はつけどそれだけだ。

 誰も何も突っ込まないところを見ると、本当に普段からこの男は人間に対してこのような態度を取っているのだろうと推測できる。

 あまりにも失礼な態度ではないか、と憤るべきなのだろう。

 だが先に抱く感情は憐れみだ。

 初めて見る真の狂気を目の当たりに、背筋が凍った。


―――――こんな狂人に頭を下げる僕は、はたから見ればひどく滑稽に見えるだろう。



『おい、千鶴。ビデオ通話にせぇ、みーちゃんのお顔見たい。』

「いいよ、ちょっと待って。あのね、晦くん。」

『はーよーぅー!早ぅみーちゃんのご尊顔お正月一発目キメてぇの。』

 対する西さんへの態度は普通の青年のそれだ。

 弥勒さんへのものと比べると冷たさすら感じる。

「私、お兄ちゃんに呼ばれていま料亭にいるんだ。お兄ちゃんのお友達も一緒だけど、いい?」

『えっ!もう一人誰かおるんね?ええよええよ、どんな子?』

「あ、写った。おーい見える~?」

 西さんはスマホを持ち上げると僕と弥勒の間に座り、自撮りするように画面をこちらに向けた。

 頭を下げたままの僕の背中をぽんと叩き、顔を上げるように促す。


 恐る恐る、重たくなった胴体ごと体を起こすと画面の向こうの青年と目があった。

 覗き込むように隣に猿顔の青年が、あ、と呟くと僕と青年の顔を見比べる。

 その後ろで4人の男女がこちら側を気にする様子もなくビール缶を片手に談笑を続けている。




『あれ?ヤビコじゃん。』

『あ、ほんとだ。』


「誰ですか?」




 全く知らない名前で呼ばれて、思わず声が裏返る。


 誰だ?


 初めて見る顔だった。

 本当に知らない。

 知らないはずなのに。

 ますます確信していく。

 

 真っ白な頭髪、襟足だけ赤い。すっと通った鼻筋、真っ白なまつげが覆う大きな赤い瞳。

 息を呑むほど整えられた顔。


――――――……美しい。


 この美しいお方に、何処かで会ったのではないか。

 いや、気にするのは過去の事ではない。

 僕は、最初から知っていなければならなかったのだ。


 僕の過失は、喪失だ。

 忘れていたのではない。

 記憶を丸ごと抜き取られていた。


 彼は怯える僕をきょとんとした顔で見つめる。

 僕が動揺して後ろに少し下がると、急に不機嫌になり片方だけ目を細めた。


『はぁ~?誰ってなんだよ、クビラヤビコテンノウ。てめぇ、主の顔を忘れたか?』

「知りません!」

 思わず声を張り上げて否定する。

 そんな名称は知らない。

「知りません!誰なんですか!貴方は……!」

 隣の弥勒の肩に縋り付く。

 弥勒は転びそうになる僕の体を支えると、その姿を見て彼はますます機嫌を悪くした。

 弥勒との態度の違いから、僕のことをひと目見て同類だと思い込んだのか。

 その線引はどこなのか、考える余裕もない。


 どうしても、ただの狂人の戯言だと切り捨てることが出来ない。

 彼は、自身を僕の主と言った。

 DMを見てから腹に抱えていた嫌な予感が頭をよぎる。

 違う、違うと自分に言い聞かせ押し込めた疑惑が、現実のものになってしまう。



『てめっ!みーちゃんの!みーちゃんのお胸に!ずるいぞ!!可愛っ、みーちゃん浴衣かっわ!あぁ~むちむち!この、てめぇ、このっ…』

「貴方様は!!なんなんですか!!なんで僕を知ってはるんですか!」

『10月に島根で会ってんだろうがよ!!!』

「知りません!」

 ありったけの声を張り上げて否定する。

「今年広島だけや!島根なんか子供の頃に1回…」

 と言いかけてまるで、広島県警でツイタチのアカウトを見て怯えていた山上のようだ、と頭の何処かで冷静に考える。


――――そう言えば山上も僕とは島根で会ったと言っていた。

 あれは幼い頃の家族旅行のことだと思っていた。

 思い返せば山上も「いつ」会ったとは明言していない。


「なんなんですか!僕は、僕は知らない!貴方様のことも…!村上くんのことだって…僕は本当に何も知らなかったんだ!!」

『とぼけてんじゃねえぞ!最初に話ふっかけてきたのはてめえの方じゃろうが!』

「本当に知らないんです、貴方は誰なんですか!!」

『俺を、晦を忘れただと!?どうしたんだよ、お前!?』

「か、…晦くん?」

 西さんもとうとう声を引きつらせた。

 弥勒に対する態度を思い出し、人間相手…初対面相手にこのような態度をとるのは珍しいのかも知れない。

 弥勒とスマホを交互に見ながら、「一体どうしたの?」と尋ねるも、晦は無視を続ける。


『この間から、なんなんだよ!こっちが聞きてえよ!視線をそらすな、俺を見ろ。』


 言われるがまま顔を上げ視線を合わせると、彼の顔が真っ黒に塗りつぶされた。


 そのまま彼の全身が墨をこぼしたように黒く染まっていく。

 頭髪以外真っ黒に染まった後、生え際から縦縞に赤い筋が血のように滴り落ちる。


 顔の真ん中でぱっくりと割れて、大きな瞳が現れた。


「あ…」




――――――――……ああ。あの、招き猫だ。




 本当に、よく似ている。

 思わず目をそらすと、彼は吐き捨てる。


『――見ぬふりをするな。』



 途端、元の美しい顔立ちの青年に戻った。

 彼は陶磁器人形のような顔を大きく歪ませて、僕を睨みつけている。


 憤る晦の様子に、画面の向こうで日吉らしき猿顔の男がオロオロとした様子で晦と僕の顔を交互に見つめる。



――――――――いい加減、見て見ぬふりしてんじゃあねえぞ。



 広島の町中で呼びかけられた声を思い出す。

 ツイタチが突如アカウントに鍵を掛ける前に聞こえた、ドスの利いた低い声。


『なんなん?お前さぁ、今更顔出してどういうつもりなん?』

「どうもこうも、初対面です。」

『しらばっくれてんじゃあねえよ!そう振る舞えば許すと思うちょるんか!?散々俺の呼びかけ無視したくせにさあ!一ヶ月前も広島に来て、伊吹には会っておいて、俺に挨拶もせんと帰りやがって…なんなんほんまよぉ。』

「あれは………――やはり貴方様のお声でしたか。」

『ほうよ。思い出したか?ようも無視してくれたな?』

 晦はふーっと息を吐くとスマホの画面を少し近づけた。片手のビールを煽りながら困ったように眉をひそめている。

 強くまくし立てる割には、覇気はない。

 どうやら怒っていると言うより呆れているようだった。


『お前が食わんかったけぇ、あんなことになったんじゃろが。恥ずかしゅうないんかぁ?』

「僕が?僕が…は?」

 思わぬ話題に弥勒と西さんの双方が息を呑む音が聞こえた。


『お前のために用意した馳走やのに…もう知らん。』


――――馳走。

 つみしろのことだ。

 禍津物へ、むやみやたらと人を襲わないように、人が差し出すようになった生贄。


「ぼ、ぼくは、禍津物なんですか…?」


 DMが送られたときから、胃の中で抱えていた疑問が口からこぼれる。

 その問いに、晦はわざとらしくはぁ~っ一番大きくため息を付いた。


『なに言うるんじゃお前?』

 僕が無心で自傷に走るほど悩まされた事柄は、彼にとって頓珍漢な返事だったらしい。

 晦は僕の様子のおかしさにきがついたのか、んん?と唸りながら身を乗り出して画面を見つめる。

 日吉の顔も移らないほど真近くに寄せ、真っ赤な両目を細めてこちらを伺う。

二、三度瞬きをしておおきく首を傾げ、そして尋ねた。



『――――……お前、知恵どっか落とした?』



「ちえ?」

 何のことかわからず、すがりついたまま弥勒を見上げる。

 弥勒もわからないようで、僕と視線が合うと困り果てた様子で首を横に振った。

 晦はスマホ画面をゆっくり話しながら怪訝な表情を浮かべる。

 日吉が晦を押しのけスマホを覗き込み僕の顔を見ると、あー、という何かを納得したように何度も頷いた。


『あなや、まことに。』

 日吉は途端無表情になると、そのまま唇だけを動かす。

 晦は「やっぱり?」と呟くとかがみ込むように振り返る。

『これは何を申しても無駄であろう、晦彦よ。』

 猿顔の男は先程の狼狽えた様子とは打って変わり、落ち着いた様子で続ける。

『落としたと言うより、拙僧のように自ら手放したか…。』

 日吉は頬や耳が高調している様子から相当酔っているようだが、大きな三白眼からは正気を失っていない。

 小首をカクッとかしげ、手に持っていたビールを床に置くと顎を指でポリポリと掻いた。


『でもさあ、呼んだら答えるじゃん普通さあ。お前だって。伊吹だって。』

『それは拙僧が今隣にいるからだ。伊吹殿はもともと規格外。この者は何も知らぬが当然よ。』

『そっかぁ…日吉。そうだよねえ。』

『ていうかさ、あんまり巻き込んじゃるなよ晦。俺や千鶴は慣れてっからいいけどよぉ…藤原さんとその連れの人、面食らっとろうが。』

 途端、日吉は先程のように声色に抑揚を取り戻すと、晦の白髪を思いっきりワシャワシャと撫で回す。

 日吉は晦の神様ごっこに日頃から付き合っているのだろう。

 僕も弥勒から離れて正座で座り直す。

 先程のような冷や汗は止まったが、腕がまだ震えている。


『ごめんねヤビコ?今の名前なんだっけ。』

 晦首を上半身ごと傾けて僕に問いかける。

 その声色にはもう怒りも呆れも含まれておらず、僕はわかっていただけた安心感でほっと胸をなでおろした。

「斎東多聞です。」

『タモンね。おっけー、またヤビコって呼ぶかもだけど気にせんといて。あとさっきはごめん。忘れて。』

「そんなことを言われても…」

『それよりみーちゃん見せろよ、浴衣のみーちゃん!』

 随分とあっさりと熱は冷めてしまったらしい。

 というより、先程もそこまで怒ってはいなかったのかもしれない。

 弥勒への反応の直後だったために身構えたが、仮に約束を忘れてしまった友人に対する態度だと言われればその範囲を超えてはいなかった。


 しかし、気にしないというわけにはいかない。

 僕にかけられた呪は解かれていない。


 晦の言い分を頭の中で整理する。


 僕が食いそこねた馳走、とは小江あかりさんのことだろう。

 そして、僕が食いそこねたから、あかりさんを村上くんに横取りされてしまった。



――――――DMの内容と異なっている。



 実際、DMのように僕はなにもしていない。

 村上くんが何を抱えて犯行に及んだか知る由もなかったし、ましては人食いの獣などでは絶対にない。

 彼なりに事件を知っているようで、知ったうえで自分の妄想に都合がいいように解釈をしているのだろうか。

 西さんが数ヶ月休学して彼の家にお邪魔していたし、そもそも小江あかりさんは親戚筋だ。事件について知らないはずがない。

 それとも自分が神であるなら妄想の内容もその時時で変わってしまうのだろうか。

 弥勒の言葉を思い出す。晦の空想は多種多様で神の時もあれば風土記に出てくる白髪の英雄の時もあると。自分が別のなにかであれば、空想に一貫性は必要ないのかもしれない。


 そこまで考えて、そこは重要ではないと思い至る。

 問題はその空想の延長であるあのアカウントが実際に人に影響を与えている点だ。


 村上くんが凶行に走ってしまった要因。

 人の罪悪感を増長させるアカウント。

 警察署内で自殺未遂まで出している。


「晦くん、ちょっと聞きたいことがあるんだけど…」

 僕に飽きて弥勒に対し子猫に話しかけるような赤ちゃん言葉で語りかける晦に、西さんが困惑した様子で話題を変える。

『なに?』

「村上くんの事件についてなんだけど…」

 ああ、と返事を返しながら晦はスマホを持って移動するととある高さで画面を固定させた。おそらく机の上においたのだろう。

 画面の端に映る菓子の山に手を伸ばすと手羽先が入ったおやつを手に取る。袋を開け、両手で掴んで齧り付いた。


『あかりちゃんの?ああ、あれむごいよなあ、あの人もなんであんな馬鹿なことしたんかな。』

「晦。その事件の犯人が誰だかわかるか?」

『誰って、村上八朔じゃろ。真っ暗な夜みたいにきれいな人ちゃん。』

「禍津物じゃあねえのか?俺の部下もそいつに殺されてんだが…」

『みーちゃんの部下も?ええー!可哀想!!』

 大げさな声を張り上げて、しゃぶり尽くして骨だけになった手羽を近くのゴミ箱に捨てる。

『いつ?あ、待って自分で見るね。………んー、ん?ん…――ありゃ酷い。ルールもへたくれもあったもんじゃねえ、これだから畜生はよ…みーちゃん、大丈夫?つらいよね。可哀想…』

 人差し指を眉間に押し付けてわざとらしい猫撫で声で弥勒に話しかける彼に、腕から首元まで鳥肌が立っていく。

 この男には本当に弥勒が子猫にでも見えているのだろうか。


「単刀直入に言うね、晦くん。その村上くんは晦くんのSNSアカウントを見てあの犯行に及んだ可能性が高いんだよ。」

『は?』

 晦は驚いて目を見開いたあと、隣りに座った日吉と視線を合わせる。

 日吉は一瞬視線をそらした後、知らないと言わんばかりに肩をすくめた。

『俺のsnsアカウント?あのガチャ爆死しか呟いてないあれが?』

「うん。あのアカウント。あのね、晦くん自身に非があるわけじゃないと思うの。それはわかってるんだけど被害があまりにも多くて…」

『被害?』

『ああ、こっちのアカウントか…』

 再び上半身ごと体を傾けてなんのことかとぼける晦に、日吉が自身のスマホをつけて晦に見せる。

 後ろでアイドルの不倫話しに花を咲かせていた男女がピタリと動きを止めこちらに振り向く。


『村上って、この返信じゃねえ?』

 スクロールを止め、該当の返信を晦に見せる。

 覗き込んだ晦はじっと凝視したあと、眉を大きく潜めた。





『――なにこれ、知らん。』





 ゴウンと音を立てて空調が風をかき混ぜる。

 時計を見るともうすぐ20時になろうとしていた。


「知らないって…んなわけあるかよ!」

 弥勒が僕を押しのけ西さんのスマホを覗き込む。

「お前のアカウントだろう!まだ4ヶ月しか経ってねえだろうが、村上の野郎になんて吹き込んだ!?」

 弥勒に怒鳴られて画面の向こう側の晦は大きく首を横に振った。



『知らん、それ、そのアカウント、俺のじゃない。』



 しん、と静まり返る。

 弥勒も、西さんも、僕も、そして画面の向こう側の日吉と彼らの後ろで飲んでいた男女も聞き耳を立てていたのだろう、驚いた顔でこちらを見ている。


『日吉、ちょっと見せて……――――――うわっ…うわぁ、なにこれ…えぇ…』

 日吉の承諾を得ずひったくったスマホをスクロールさせながら、晦は大きく狼狽える。

 赤い瞳が小刻みに震えて口元を片手で隠した。


『これ俺が取った写真じゃん…えっ…え…うそうそ、まじで?なにこれ…怖い怖い怖い…』

『これお前じゃねえの?』

 スマホを奪われた日吉が晦の腕を掴みながら問いかける。晦は額に汗をかきながら違うと再び首を振った。

『儂ぁ、てっきりお前じゃとばかり…』

『俺じゃねえよ!俺ツイッター今”ビビデバビデガチャ爆死”しかやってない!』

「晦くんのじゃ…ない?」


 西さんが思わずスマホを畳に落とす。慌てて拾い上げて今度は机の上に置いた。

『え、なにこのアカウント?なりすまし?なんで?俺に??お前らもこれ俺だと思ってたの?』

「晦くんいつもこんなこと言ってるじゃん!人間大好き!とか、神様になりきって…」

『それをネットにそのまま書き出すほどリテラシー低かねえよ!』

身バレしたらどうするんだ!と憤りながらも晦は視線を日吉のスマホに向けたまま、こちらを見ようともしていない。


『えー、なにこれ…人…だよねえ、うん。人の仕業で間違いない。これ高木先生にあてたラインじゃん、なんで?どっから漏れた?ええ、うわぁ…なにこれどこに相談すればええん?警察?』

『どうしたん?』

 後ろにいた男女がスマホを持ったまま慌てふためく晦の周りに集まる。

 晦はこれ、これ、と日吉のスマホを彼らの前にかざす。

『なりすましだよ。これみんな見て、俺のなりすまし。』

『うそぉ、これなりすましだったん?』

『俺ずっと晦のだと思って…』

『そもそも俺今年夏期講習受けてないからね!俺と要は三原のおばさんの8回忌で行けなかったじゃん!あとバイト抜けれんかったけぇ、ベッチャー祭りも行ってないよ!』

『じゃあこのショーキに追い回されてるこいつは誰なんだよ!?』

『知らねえよ、俺じゃねえよ!!』


 画面の向こうから悲鳴が上がる。

 弥勒も、西さんも絶句している。


 あのアカウントの持ち主が、小江晦のものではない。

 

 同じ表情で固まったままの二人を尻目に、僕は口を開く。

「DMは…」

『にゃぁ?』

「僕にDMを送ったのも、貴方様ではないのですか?」


 あのDMの内容が頭の中を駆け巡り、違和感にたどり着く。




――――――なぜあなたは人のふりをしているのですか?


――――――話ふっかけてきたのはてめえの方じゃろうが!




 小江晦は、人違いの可能性もあるだろうが、最初から僕を知っていた。

 DMの主は以前から僕を知っている風で、前から好ましいと言いながらも挨拶は「はじめまして」と書いてあった。


『だから、知らねえって。』

「あなたの本当のアカウントを教えて下さい。コピペして、お送りします。」

 わかった、と晦は机においたスマホを取り上げるとビデオ通話が途切れ音声だけがこちらに聞こえてくる。

『んとねえ、@Bibidebabide_NYAね。ビビデバビデガチャ爆死って名前の。』

「あった、これですね。」

 検索をかけると、そのアカウントはすぐに見つかっった。

 ナイチンゲールを模したゲームのキャラクターの公式画像を切り抜いてアイコンにしている。

 フォロー数もフォロワー数も50人程度、軽くスクロールしてもガチャが大外れしている画像とゲームのプレイ感想以外投稿していない。

 どこにでもいる普通のゲーマーアカウントのようだった。

 僕は提示されたアカウントにツイタチさんから送られてきたDMを貼り付けるとそのまま送信ボタンを押す。

『きたきた、ちょっと待ってねヤビちゃん。』

 結局、彼は僕を多聞とは呼ばないようだ。

 晦はDMを読み始めたのだろう、黙ってしまう。


『ドッペルゲンガー?』

『じゃあ坊っちゃん死ぬじゃん。』

『詐欺じゃねえの?』

『高良兄さんは?背格好だけなら一番坊っちゃんに似ちょるよ。』

『似てるけど…ぱっと見た目だけだろ。』

『杖はどこだよ、あの人足悪くしてんのに…』

『そもそも高良兄さんは晦みたいなアホみたいなこと言わんからなあ…』

『わからねぇよ。坊っちゃんのこと可愛がってるし、なりすましてバズって大林の叔父さんにドヤされるストレスを晴らしてるかもしれんぞ。』

『なにそれこわい』

 晦がDMを読んでいる間、音声だけが向こう側の音を拾う。

 困惑しながら憶測を話し合う彼らに、日吉がやめろよと止めに入った。


 晦はうわーだのひぇーだの声を漏らしながら、DMを読んでいる。

 待っている間、弥勒はタバコを吸いながら指で膝をトントンと叩き、苛立っている様子を隠そうともしていない。

 西さんはブツブツとなにかを呟きながら、時折髪を指に絡めて目をぎゅっと閉じる動作を繰り返している。


 暫くして、「読んだよ。」という返事とともにスマホ画面が再びビデオ通話に切り替わる。

 映り込んだ晦と、日吉、その後ろから覗き込む面々の顔色は総じて青かった。



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