6話・刑務所 前編
刑務所
10歳上の兄がいる。
この兄の存在は私の人生最大の恥部だと思っている。
血の繋がった実の兄だが、私が幼い頃に両親が事故で亡くなり施設に預けられて以来、別の籍で他人として暮らしている。
兄は頭の先から足の爪先まで裏社会に染まった反社男で、主に金融をメインとしながらも暴力とドラック、女子供、臓物などこの世の取引してはいけないものを売買し生計を立てている。ようは生きているだけで他者に迷惑どころか害悪を振りまいた厄災のような男だ。
私に絡んできた半グレが名前を聞いただけで怯えて漏らして逃げるほど、裏社会ではヤクザの組合の中で相当上の地位に着いているらしい。
幼い頃は、兄は王子様だった。
兄は顔とスタイルだけは抜群に最高だった。
そして外面だけは良いものだから、同園の兄弟たちからとても羨ましがられたものだ。
月に一回の面会に来る度に私に花と欲しかったおもちゃや新品の高級ブランドの子供服、そしてとびっきり美味しいケーキを差し入れてくれた。
私を抱き上げ、私の話を嬉しそうに聞く兄は、私の誇れる自慢だった。
兄はどんな欲しいものも必ず買い与えてくれたが、私がどれだけ願っても一緒に暮らす事を拒否し続けた。
当時は悲しみを通り越して恨んだりもしたが、今はその事に感謝している。
兄の存在のお陰で孤児でありながらさほど苦労せず今まで生きてこれたのは紛れもない事実だが、兄の存在が私の人生の足を引っ張っていたのもまた事実。
先日の女優のオーディションに落ちたのも、この兄の存在をリークされたのが原因だ。
兄の所為で不幸になる人間も大勢見てきた。
兄は間接的にも直接的にも人に加害を加えることになんの抵抗も持たない人間で、ある時私に近づいてきた変質者を私の眼の前で血祭りにあげたこともあった。
また、兄に親とすべてを奪われた子供が同じ施設に入ってきたときの地獄のような気まずさは、今後生涯に渡って味わうことはないだろう。
兄に傷つけられた彼らを見て見ぬふりをしたまま、自分だけ蜜を享受しのうのうと生きるなど、とても出来やしなかった。
私は今様々な支援と奨学金で大学に通っている。兄から貰い続けているお金はあまり手を付けないようにしている。
今の私にこの汚いお金を一切無視が出来ないのは悔しいが、いつかは完全に自立するつもりだ。
完全に縁を絶つ。それこそが、今の私の生きる目標でもあった。
「因習について調べてるんだって?」
久々にかかった電話の第一声がこれだった。恐らく彼氏から今の私の近況を知ったのだろう。
私の彼氏は胸から肩、腕にかけて入れ墨を入れ、背の高さも相まって見た目こそ完全にヤクザのそれだが、中身は至って真面目なカタギの一浪青年である。
兄とは真逆で暴力を嫌い、慈善活動を趣味とし積極的にボランティアに参加し、実家の神社を手伝っている。
社会に歯向かう行為など一度も行ったことはない。
だが、人懐っこい性格の彼は私の兄をいたく気に入っていて、私と付き合うのも兄のオマケなのではないかと思う程、兄を慕っていた。
兄は鬱陶しいとほざきながらも、私を介さず頻繁に連絡を取り合い、彼を実の弟のように可愛がっている。
「あいつの村はけったいな所だからな、あまり関わるなよ。」
どの口が…と思ったが、私は表面上は可愛い妹なので、反吐を喉元で押し込み「もーお兄ちゃん、ひどーい」と甘えた声色で返した。
私の彼はウソを付くのが下手な正直者で、兄から私の近況を尋ねられると洗いざらい話してしまう。その所為で私の日常は主に彼氏を通じて兄にダダ漏れなのである。
本音を言えば兄と関わるのを止めて欲しいが、彼の性格上無理だと諦めているので悪行に加担さえしなければいいと、最近は半ば放置気味だ。
人の裏を読めない彼は、私が兄を慕っていると本気で信じている。
「お前が調べているその因習…―――――ツイタチ信仰があるのは村だけじゃない。あれは、恐らく、条件さえ満たせばどこにでも起きる。」
そうして語り始めたのは、兄が刑務所に努めていた時の話だった。
最初に話した通り、兄はどうしようもない反社男で、数年前に暴行罪で逮捕され、中国地方の刑務所で1年間服役していた。
スナックのママの彼氏が、自身の子供を虐待していたことを酒の席で自慢気に話ししていたのを見て、カッとなって一升瓶で殴りつけ病院送りにしたらしい。
服役していた刑務所の部屋は、10数年服役中の"長老"と呼ばれる初老の男と、麻薬で捕まった20代と、兄と同じく酒の席で暴力沙汰を犯し捕まった半グレの男、詐欺で捕まった年齢不詳気味の男、そして日本語を全く解さない器物損害罪の外国人の6人部屋であった。
ヤクザの幹部とだけあって入った当初から兄のヒエラルキーは上の方にあったが、最初はみな、兄に対しておおよそ丁寧に接したが、兄が英語を話せるとわかると外国人の通訳とお守りのような役割を押けられたそうだ。
この外国人の男はもとは留学生だったという。
乱暴者で自己中心、嘘つきで協調性は皆無で常に日本人を見下し、英語や彼の母国語で周囲に悪態をついてまわった。力がある看守に媚び、新参者や気弱そうなやつに目をつけてはいじめ倒し、罵声を浴びせる。そういうやつだった。
兄に対しても最初は恐れを知らず、まるで自身が主人であるかのようにふんぞり返っていたという。腹を立てた兄は、看守の目の届かない所で一発腹に決めてやったそうで、それ以降、兄を「ミーさん」と呼び媚びへつらうようになった。
1日も早く出所したかった兄は模範生となるべく大人しくしていたそうだが、出所したら絶対にシメると心に決めていた。
そして腹の中に軽蔑を抑え込みながらも甲斐甲斐しく世話を焼いてやったという。
刑務所内で互いの身の上を話すことは良くないとされる一方で、男は自身が犯した罪をいつも自慢げに話していた。
信仰深い彼はある日、神のお告げを受け、 聖戦と称し邪神の根城をと胸を張って言い回った。
実際は酒に酔い立ち寄った神社で賽銭を盗もうとしたが、重すぎて上手くいかず苛立った末に置いてあった斧で社の扉と木で出来た御神体を破壊し、後日逮捕されたと言うなんとも罰当たりなものだったらしい。
彼は呼び寄せた家族とその支援団体を通じ無罪を主張していたそうで、一切反省した姿を見せることはなかった。
そんな彼に対して、周囲の囚人と看守は不気味なほど、甘かった。
お祈りの時間の為にわざわざ休憩室を提供したり、宗教上の理由で豚肉を食せない彼の為に特別な食事を用意したりなど、彼に対する待遇は他のどの囚人よりも格段に良かった。
男は看守に頻繁に食って掛かり懲罰房へ押し込まれたりもしたが保護室に入ることはなく、同じ時期に懲罰房に入れられた他の囚人よりも早く部屋に戻ってくることが多かった。
皆、そんな男をしょうがないと言わんばかりに注意することはなかった。
ただ、自分たちには謝らなくていいから、己の罪を己の神に懺悔しなさいと説いていたが、男が耳を貸すことはなかったという。
そんな周囲の優しさは、善意というより、善悪のつかない幼児に対して向けられるような憐れみであって、兄は薄気味悪さを感じた。
兄は長老に世話役を押し付けられた事に対して文句と共に、彼に対する待遇の事情を聞くと「八月一日までは我慢して欲しい」と頭を下げられた。
男の刑期は他の囚人に比べ短い方であったが、決してそんな短期間で外に出れるはずなど無い。八月一日に裁判があるわけでもなければ、別の施設への移動の話もなかった。
「なんにせよ、八月一日には見つかるから、腹が立つかもわからんが、それまではどうかこらえて欲しい。」
何に見つかるのか、兄がどれだけ問い詰めても、長老は答えることはなかった。他の囚人に尋ねても同様の反応を返した。
看守に問いかけても余計なことを話すなと咎められ、はぐらかされた。
事情を知らない男は益々漬け上がり王様のように刑務所の頂点に君臨していると錯覚しているようだった。
七月に入って、男の体調が突如悪くなった。
夕食後に突然ぼーっと恍惚にふけるようになりそれが落ち着くと今度は幻覚を見るようになった。
「見られている」
そう言って常時何者かの視線を感じ、落ち着かなくなり、窓の外や天井、排気口の向こう側を恐れ、運動時間も外に出ることを恐れ、小さな音にも敏感に反応をし度々痙攣を起こした。
目は充血し頭痛を訴え、焦燥感にかられ、夕食に出されるお茶を欲しがり、みるみるやつれていった。
――――――――薬物の中毒症状に似ていた。
兄は心の底から男を軽蔑していたが、同じ釜の飯を食った仲としてほんの少し情も湧いたそうで、英語や覚えたての男の母国語で励まし看病してやった。
何度も医者に見せるように言ったが、症状が現れてからは全く聞き入れてもらえず男は放置された。
看守だけではなく、周囲も彼にその症状が現れてから男の存在を無視しはじめた。
それまでしょうがないとハイハイと男のことを生暖かい目で見守っていたのに、突然、己の視界から排除し始めた。
男がどれだけのどの渇きを訴えても男の声がまるで耳に入っていないように無視をした。
点呼時にあえて男を飛ばしたり、どれだけ話しかけられても、兄以外皆、そこに彼が存在しているが居ないものとして振る舞う様になっていった。
休憩時間に長老が兄に「もう大丈夫だからあれと関わるのはやめなさい」と忠告をしてきた。
一体何のことかと問うと長老はこう続けた。
「あんたはあと数ヶ月でここを去るから、知らないほうが良い。ただ、あれはもう見つかってしまった。下手に関わると我々も見つかる。八月一日に持っていかれる。これは儂にも看守にもどうすることも出来ない。今まであんたはよくこらえた。もう大丈夫だ。」
「――――――薬を盛っている事と関係があるのか?」
あえて直球に兄は長老に訪ねた。
長老は目を見開いて兄を見つめ返したが、深く項垂れ目頭を手で抑えた。
「――――それは知らない。知らないことになっている。上が何を考えているか、考えてはいけない。」
答えろ、と煮えきらない長老に兄は腹を立て、低い声で脅した。大切な人が、外にいるだろうと。どうなってもよいのか、と。
長老はそれでも頭を横に振り「こらえてくれ。」と懇願した。
「儂からは何も言えない。言えないんだ。――――――八月一日の夜、お前さんもどうか、見て見ぬふりをしてくれ。そしてなにが聞こえても謝りなさい。そして祈りなさい。自分が犯した罪を、傷つけた全てに人に、心から謝罪なさい。ーーーーー儂らはいつもあの男にも言っていた。何度も促した。何も出来ないが、それを説くことだけは、許されている。それを、聞かなかったのはアイツだ。何度もチャンスはあったはずなのに…もう儂らではどうしてやることも出来ない。」
休憩時間が終了し、長老と兄はその場から離れた。そしてそれ以降、その話題に触れることはなかった。
「あの男が言うように、あの男の神が慈悲深い存在なら、きっとお救いくださるだろう。」
男は唯一無視をしなかった兄に益々依存するように縋った。
「ミーさん、ミーさんは俺が見えているよな?」
男は一日に何度も兄に確認するようになった。
兄は他の連中に習うにはあまりにも意図が読み取れず、男のしつこい質問に対し毎回律儀に「見えているよ」と答えていた。
「良かった。ミーさんが見えているなら、俺は存在するんだ。周りのくそったれども、どいつもこいつも俺を散々馬鹿にした挙げ句無視しがって―――最近は俺はアイツにしか見えていないんじゃないかって…」
アイツとは誰だ?と兄が問うと、男は周囲に怯えながら知らねえ、と答えた。
「じっと見てきやがる。窓の外から、天井から、床から、俺を見てやがる。なんなんだ、あれは?ミーさんにも見えてないのか?俺だけが感じているのか?なあ、今もいるじゃねえか、ほら、ずっとずっと上から俺のこと睨んで…ミーさん、俺は今まだここにいるよな?助けてくれよ、なあ、アイツをどっかやってくれよ。喉が渇くんだ。アンタに言われた通り、夕食の麦茶を飲んでないよ。アレが欲しくてたまらないんだ。でも我慢してるよ、なあ、アンタしか頼れねんだ。アイツをどうにかしてくれよ!」
――――――正直、ざまあみろと兄は思ったという。
ただ弱り果て泣いて縋ってくる姿を煩いと蹴り飛ばすには周りの反応が妙に引っかかって、何も答えずただ男の背を優しくなでてやった。
追い詰められ兄に対しては助けを求め始めた男だったが、やつれながらも己の罪や今までの傲慢な態度を改心する事は一切なく、無視する周りの囚人に対して「くたばれ」と唾を吐きつけた。
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