8話・つみしろ 前編



つみしろ





 ツイタチ様とは。

「ついたちさん」の愛称で知られる備後・備前地方を中心に民俗信仰されている「罪の神」である。

 複数の神が元になっているようで、今の名前に落ち着いたのは平安より後のことだという。


 祭神が八月の朔日から大晦日にかけて里に降りてきて人々の一年の罪を見定めるという伝承から発生したとされているが諸説ある。晦彦神社が建てられる前からあるのは間違いない。


 ツイタチ様の目は悪人だけを映し、また悪人を好んで食べるとされる。

 ツイタチ様に見つからないよう人々は日々の行いを改め人に親切に誠実に過ごし朔日様の手を煩わせない「良き隣人」として一年を過ごすのだという。

 干ばつや大雨による異常気象から生じた獣害から身を守ったり、飢饉によって荒れた治安を正す目的だったという説もある。


 山に住み、里を守っては自分の配下の動物「御使い」を使い、悪い人間を襲わせるとされる。

 地域によって「おつかいさん」「つみたちさん」「とがたちさん」などの名でも呼ばれている。



 ツイタチ信仰ではしばし「つみしろ」と呼ばれる生贄を捧げる祭事が行われていた記録が残っている。

 彼の村に残っていた大晦日の祓いの儀式もそのうちの一つだ。

 懺悔によって一族で最も罪深い「赦されざるもの」をあぶり出し、ツイタチ様の御使いに贄として捧げてきた。


 いつしか形だけが残り年越しの行事として村に残っている。

 彼の話が本当だとすれば、最近でも「赦されざるもの」が二人、贄として動物に襲われ死んでいる。


 最も古い文献では平安時代より前のものが朔日村の郷土資料館に保管されている。

 ツイタチ様は悪人を好んで食べるので、最初は村で一番の重罪人をつみしろに仕立て上げ暦の祭事の折、贄として捧げていたが、信仰が深くなるにつれ、村人はみな「良き隣人」となり年々、贄になるはずの罪人の数がめっきり減っていった。


 そうなると「罪」の判定が次第に緩くなっていくそうだ。

 最初は人を殺した、金を盗んだ、家畜を犯したなど取り返しがつかない人でなしばかり襲っていた御使いが、段々とどこそこの陰口を叩いた、親の言うことを聞かなかった、畑仕事をサボった、嘘をついた、寝坊した等もはや罪とは呼べない小さな事まで、目敏く見つけては人を襲うようになっていった。


 ツイタチ様に見つかる人間は、身分も老弱男女も問わなかった。

 今年は誰が襲われるか、わからないという状況に陥る。


 まず増えたのは私刑の数である。


 集落は少しでも被害を抑えるために規律を改め、起床時間、食事の時間、労働や勉学の時間、日々の祭事の時間、休息時間、就寝時間を村人全員で統一した。

 次に法を整えた。挨拶をする、目上や年上を敬う、親に従う、感謝の意を述べる、謝罪をする、弱きものを守るなどという当たり前の事から、職業による服の色、髪の長さ、髪型、食事の種類や量、歯の本数にに至るまで徹底的に取り決めた。


 特に感謝の意を述べる、謝罪をするは行うと行わないとでは御使いによる被害の差が明確に現れたため、集落の挨拶はいつしか「ごめんください」になっていた。

 被害が少しでも減ると、同じような習慣がツイタチ信仰として近辺の村や集落に広がっていった。

 現在、似たような教義を持った比較的新しい新興カルトが都市部を中心に、支部を全国に展開している。駅前で薄いピンク色の作業着を着た信者が「赦されましょう」とビラを配っているのを見かける。


 集落の監視を徹底すると、今度は守りに従わないものを容赦なく断罪した。

 村人同士で監視しあい、少しの罪も許さなかった。

 はみ出すものは親子供親戚も迫害され、村長宅の座敷牢に閉じ込め、激しい拷問を加え、亡くなるものも少なくなった。


 つみしろの字は「罪代」。本来の意味は罪の償い、罪滅ぼし。しかしこの代は形代から来ているのではないか、と言った友人がいた。彼女に、もう一度連絡を取る必要がある。


 そうして作り上げた「つみしろ」を、贄としてツイタチ様の御使いに献上しようと試みた。



 しかし、御使いは「私刑を行ったもの」を率先して狙い襲うようになったそうだ。


 拷問に参加したもの。

 告げ口をしたもの。

 そして見て見ぬふりをしたもの。


 御使いはその時々の人間の法を参考にしているようだったが、人間の本質を客観的によく見ていたとされる。現代に近い倫理観を持っていたのかは不明だが、彼らなりに独自の尺度は存在していたようだった。


 しかして御使いは、人以上に容赦を知らない。


 罪を犯したものが赤子であっても食らった。

 私刑に加担したものに止む終えぬ事情があったとて、食らった。

 つみしろと村人と双方に同意があったとしても、つみしろが彼らの尺度に当てはまらなければ別のものを襲った。


 御使いの姿はその土地ごとに異なる。

 小さなネズミから草食の鹿、ウサギ、虫、植物となって行きたまま養分にした記録や、群れを作らないはずの熊に集団で襲われ集落一つ壊滅した記録も残っている。


 人々は生き残るために模索した。

 近隣で撃退しようと集結しても数に負けて襲われて死に、贄となる悪人を一人に絞っても悪人も迫害に参加したものも食われて死んだ。

 皮肉なことに規律を律すれば律するほど、よく死んだとされる。


 更にたちが悪ことに、ツイタチ信仰の教義に従い誰も悪事を働かなくなれば、御使いは人を"そそのかす"とのだという。

 それは抗えないほど強い衝動で、まさに魔が差すの文字が如く、本人の意志を無視したまま、罪を犯すのだという。

 どれほど善人であっても、御使いにそそのかされた人間は大小なり悪事を働く。

 そしてツイタチ様に見つかって御使いに食い殺された。



 人々は途方に暮れた。

 どれだけ良き隣人として信心深く過ごしても、どれだけ悪人を仕立て上げても、いつ、誰がツイタチ様に見つかり、食われて死ぬかわからない。


 今ならば、獣が悪人を狙って襲うなど後から付け足したこじつけであった事がわかる。

 悪人だから襲われるのではなく、襲われる人が悪人なのである。しかし当時の人は信じていたのだ。


 ある年、偶然か、悪人の待遇を丁寧に扱った所、その年の動物による死者数が劇的に減ったらしい。

 そこから打開の糸口を掴み、後年の生贄を捧げる祭事「つみしろの儀」の形になったとされる。


 つみしろの作り方は、まず他所の土地から孤児を貰い受け、村長一族の養子として迎える。

 その子供を「つみしろ」や「とがしろ」と呼び、一切叱らずに甘やかして育てる。

 借金を重ねても全ての願いを聞き入れ、全てを肯定してまるで神が如く敬う。

 さらに我儘や悪事を賛美して育てると物心つく頃には手が付けられない悪童に育つ。

 あとは放っておいても罪を犯すので成長したつみしろは成人になるまでに御使いに食われて死ぬという、寸法だ。


 つみしろを作るに当り、つみしろには儀式の一切の事情を話してはいけない決まりがある。

 話すとつみしろの逃亡の恐れと、やけになり手当たり次第人を殺すという事もあったからだ。集落を守るためにたてる生贄なのに元も子も無くなる。


 集落の人はあくまで親のない孤児を慈しんで育てているだけなので、ツイタチ様に見つかる事が少ないのだという。随分都合が良い話だ。私刑を見抜ける力のある御使いが、自らだけが助かりたいという邪な思惑を見抜けないことがあるんだろうか。彼らの独自の尺度は私は知りようがないが。


 毎年捧げるわけには行かないので、数年に一度祭事を行うことで、村での獣害は見事に減っていった。餌を与えることで野生動物を飼いならしたとも言える。

 事情を知らないつみしろは狭い集落でまるで神であるかのように振る舞い、狼藉を働いた。

 集落も、いつか食い殺されるつみしろを憐れんだ。


"御使いに食われて死ぬよりまし"と暴虐のすべてを甘んじて受け入れた。





 室町時代のことである。

 今の朔日村がある土地より少し離れた集落で3匹の猿が八月朔日から大晦日にかけて里に降りてきては村人を襲った。


 男を攫っては甚振って殺し、女を攫って子を孕ませ、赤子を攫っては裂いて食らった。

 山には食べ物がいっぱいある年も、人を襲うことをやめなかった。味をしめたのだろう。


 猿は八尺はあるあろう大きな体で人が束になっても敵わない、傷一つ付けることすら出来ない丈夫な体を持っていた。

 猿は不死身で、どれだけ致命傷を与えても翌日太陽が昇れは傷は癒えけろりとして村を襲っていたそうである。実際は人を襲うおおがらな猿がその3匹以外にも何匹もいたのだろう。


 ツイタチ信仰の噂を聞いた村長がつみしろを作り贄として捧げると、他の住民には目もくれず、喜んで食らいついたという。


 つみしろを捧げるようになって猿による被害は大幅に減った。

 数年に一度のつみしろの儀を執り行うだけで猿は満足したのか、集落を襲うことが少なくなった。

 それどころか、作物はよく実るようになり、干ばつや大雨による災害は減り、他の動物に畑を害される事もなくなった。


 戦に巻き込まれることもなく、村内で人々が争う事も減り穏やかで規律に守られた平穏な日々が続いた。

 財政が豊かになったことで路も橋も補強され治安も安定し関所も近かったことから、ほそぼそとした集落が、やがて豊かな大きな集落となった。

 豊かになれば人の数も増え、守りも厳重になる。


 つみしろの儀式も集落の長の家でのみ代々受け継ぎ、訪れる余所者には「そういうきかん坊」だと認識され、深く関わることをせず見て見ぬふりに徹し、集落を訪れる外部の人には関わると代わりに御使いに襲われると噂を流布し村の恩恵を預かる代わりに「そういう風習がある土地」だと黙認させていた。


 血なまぐさい時代であったので、集落を我が物にせんと略奪しに侍や賊が襲撃を仕掛けようとすることが多々あったそうだ。


 猿はつみしろが熟していない間はそういった外部の悪人を襲って食べていたようだった。それでも数年に一度必ず里に降りてきては悪意の塊になったつみしろを実った果実を収穫するように千切って食べたそうだが。そうなればもはや守り神とも言えなくはない。


 集落に入るには猿の縄張りを通らねばならなかったので、突破した賊も中にはいたそうだが、集落に入ってからの記録が残っていない。捕まって殺されたのだろうか。集落の地図から、罪人を閉じ込めるための牢があったとされる。きっと、贄はつみしろだけではなかったのだろう。


 悪しき魔猿を、何度か退治しようと時の大名が使いを出したそうだが、不死身の巨猿を前に何人もの武士がその命を散らしていった。



 猿はやがて「ひかみ様」と呼ばれツイタチ神に勝る信仰を集めるようになっていった。

 栄えれば信仰すらあっさりと枕返をする。人間とは現金なものである。


 急激に集落は大きく膨れ上がっていった。

 しかし一見活気があるように見えるが、波もなく、規律正しく尚且つ自堕落でいてそれでも他者に迷惑をかけることを良しとせず、ただ与えられた幸福を貪り、日々を惰性で生きていたようだった。村人は皆、覇気を失っていた。


 突然与えられた富と財に溺れることは、ひかみ様が許さなかった、と考えていたようだ。


 集落にはいくつもの商店が並んだが、集落の人間が利用するのはごく一部だったと記録には残っている。

 展覧豪華な宿屋も、瀬戸内の恵みで彩られた食事も、豊かな穀物から作られた極上の酒も、どれも味わうことを許されないまま、訪れる人々に施しを与える日々。


 娯楽もなく、喜びも、悲しみもない、ただあるのは規律と平穏だけで、まるでひかみ様に飼われる家畜のような生活が続いた。


 現代で言うならば、それは平和であり、理想郷とも呼べるだろう。しかし住んでいる当人たちにとっては、真綿で首を絞められるような地獄であったのだろうか。


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